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ビルとビルの間にある、横幅が二メートルほどの狭い路地裏である。
昼間であればもしかすると、ショートカット目的でそこを通る人間がいるのかもしれない。しかし両サイドのビルが高過ぎるせいで、昼間でもほとんど陽が入らず、恐ろしく暗い。
そんな路地裏に女の人が引きずり込まれる瞬間を、私は見てしまったのだ。
犯人の身体は路地裏の中にあって、歩道を歩いていたその女の人の後ろ髪をむんずと掴んだ手だけが見えた。私は一瞬の出来事に茫然とし、立ち止まったまま自分が何を見たのかを何度も考えた。しかしどう見ても、それは通り魔的な犯行にしか思えなかった。
私は何をトチ狂ったか警察に通報もせず、足音を忍ばせて路地裏に近づいて行った。むろん出歯亀目的ではないし、馬鹿だった、としか言いようがない。そこに関しては、どれだけ問い詰められても返答のしようがない。恐怖のあまり冷静な対応が取れなかったのだ、と納得してもらう他ないのである。
「何か、見ましたか?」
「……声が、聞こえました」
「どんな」
「女の人の、悲鳴です」
「……」
「助けを呼ぶような声じゃなくて、もう、震えて満足に叫べないような声で、何度も、上擦るような声を上げていました」
「あなたはそれを、黙って聞いていた?」
「私も足がすくんでしまって。まだその時は路地裏に足を踏み入れてはいませんでしたが、音は、はっきりと聞こえました」
「……他には?」
グシャ、グシャリ、グシャ、グシャ。
「刃物だと思います。衣服の上から、ズボ、と刺すような音が、何度も。何度も……」
ゴボボボ、と喉で血泡の絡まる音が聞こえた。気付けば悲鳴も絶え、刃物が何度も肉体に突き刺さる音だけが聞こえていた。
私は物音を立てぬよう息を殺し、一歩、一歩と路地裏の中へ入った。
「……何故?」
「分かりません」
「あなた自身が殺されるという恐怖はなかったんですか?」
「ありました。でも」
「でも、あなたはどうしてもそれを見たかった?」
「……分かりません」
私は、道端の街灯が僅かに差し込む光の中で、仰向けに倒れる女の人に馬乗りになって刃物を振り下ろす、とても大きな背中を見た。フードを被っていた所為で髪型や性別は分からなかったか、身体のサイズは男性にしてもかなり大柄な人物だと思われた。
「はっきりと、見たんですね?」
「……さすがに暗かったんで、シルエットくらいしか見ていませんが、犯行が行われたことは、間違いありません」
「その後あなたは急激な吐き気に襲われその場から立ち去った、と聞いています」
「はい」
「問題は、その後です」
私は、その路地裏から二十メートル程離れた電信柱の影にうずくまり、ガタガタと震えていた。何度か胃の中のものを吐いた。自分がここにいる事を悟られないよう少しずつ吐いた為、気落ちの悪さが倍増して意識を失いかけた。
その時、恐ろしいことが起きた。路地裏から、人が出て来たのだ。私は顔面が汚れるのも厭わず手で口を押え、悲鳴を呑み込んだ。
しかし、路地裏から出て来たのは殺された筈の女性だったのだ。
「間違いありませんか?」
太っちょポリスマンは身を乗り出して私を睨んだ。
明らかに私の噓を見破ろうとしている。
だが私は本当の話をしているのだ。
噓をついているわけではない。
しかし私が見たものがなんだったのか、それは私自身にも説明出来ない。
「山形さん、今あなたは、大柄な人物が馬乗りになって女性を刃物で何度も刺したという、その恐るべき犯行の瞬間について話していたはずだ」
「は、い」
「じゃあ何故、路地裏から出て来たのが女だなんて証言するんだ?」
「だって」
「だって?」
「本当にそうなんだもの」
太っちょポリスマンは机を叩き、いい加減なことを言うな、と叫んだ。
「噓じゃない!」
「あんた、昨晩駆けつけた警官にはこうも言ってる。路地裏から立ち去った後、電柱の影に隠れている間、女の笑い声を聞いたと、あんたそう言ったんだぞ!」
「……聞きました」
ケケケケ……ケケケ……
「そう笑っていました。だけど今思うと、女っぽい笑い声だっただけで、女の人が笑う所を見たわけじゃ」
「被害者が笑うわけないだろ。じゃあ犯人は、女かもしれないんだな!?」
「……そうかも、しれません」
考えてみれば、私は路地裏に潜んでいた犯人については、女の人の髪の毛を引っ掴んだ手と、大きな背中して見ていない。大柄な体躯だけを見て男だと思い込んだが、女かもしれないと言われれば確かにその可能性はある。場にそぐわない笑い声は確かに聞いたのだし、何より私は犯人の顔を見ていない。あの笑い声が犯人のものだとするなら、やはりあの大きな背中も、女性だったのだろうか……。
「……いや」
「なんだ?」
「ううん、違う。違います!」
「何が違う?」
「だって、私は、あの路地裏から出て来た女の人の顔は見たんです!」
「なんだと?そんなこと昨日の報告書には」
「見ました!私見ました!」
「何を見た」
「あの人、路地裏からふらついた足取りで出て来たあと、左手で顔に触れて」
あ
「って。そう声を上げたんです。それから、しまった、と言って路地裏へ戻って行きました」
「なんだって? しまった……?」
「再び出て来たあの人は、眼鏡を、かけて戻ってきたんです」
「犯行現場に忘れて来た眼鏡を、取りに戻ったってのか?」
「その後、あの人、手にべっとりとついた血を見つめて顔をしかめて」
ペロっ
「って、舐めなんです」
「……馬鹿な……」
「左手で頬に触れる前から、彼女の顔は血だらけでした。前髪の張り付いた額も、頬も、唇も」
「それはしかし」
被害者だったらありえる?
それはそうかもしれない。
「だけどその後それから、あの人。……まっず」
まっずー……。
「そう呟いて、地面に何かを吐き出したんです」
「な、何を」
「分かりません。あの人はそのままふらふらと歩いて立ち去りました。だけど」
「だけど?」
「あの人、顔だけじゃなく体も、全身が血塗れだったんです。私が路地裏で見た大きな背中。あれは、彼女のものじゃありません。あの女の人と私は背丈が同じくらいだし、路地裏に引き摺り込まれる瞬間に見た女性の髪形とも同じでした」
「じゃあ、あんた、本当に殺された被害者が歩いて出て来たって、そう言いたいのか?」
「私にはそうとしか思えません」
「死体がないのはその女が歩いて帰ったからか!? じゃあ、犯人の大柄な男はどうなった!」
「……」
「まさか、女が喰っちまったなんて言わないよな」
「さあ」
「おいおいおいおい」
「それに」
「ま、まだあるのか!?」
「私、あの女の人のこと知ってます」
「……え?」
「多分あの人、私が昨日向かうはずだった書店の店員さんですよ。BOOKS アーミテージの」
「どうなってやがる。あんたそれ……」
太っちょポリスマンは勢いよく立ち上がって取調室を出て行った。
私も昨日は、犯行現場を目撃した衝撃に動揺し、記憶が錯綜していたのだろう。駆けつけた警官らと現場を訪れた際、死体が無かったことでさらにパニックになった。今しがた目撃した惨劇が全てなかったことにされるという恐怖感に私はひどく取り乱してしまい、後日改めて話を伺います、という流れになったのだ。そして一晩たって話をする内、今になってようやく大切なことを思い出すことが出来た、というわけだ。
太っちょポリスマンは、取調室で出て行く直前、こう捨て台詞を残した。
「あんたそれ、その話……一体どっちが通り魔なんだよ」
「路地裏の怪」、了。
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