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「嘘はやめてくださいね。最近変な事件多いから、それを知ってておかしな証言する奴結構多いんですよ。あなたがそうだと決めつけるつもりはありませんが、誇張も想像もいりません。見たまま、見た事だけを仰っていただければそれでいいですから」
任意て出頭した警察署の取調室で、開口一番太った警察官にそう釘を刺された。何故私がそんな言い方をされなければならないのかと憤る気持ちもあったが、太っちょポリスマンの言う通り、私も残忍な凶悪事件の話は最近職場でよく耳にしていた。
とりあえず無言で頷き返すと、名前と生年月日を聞かれた。
「それ、もうお伝えしましたけど」
「もう一度お願いします」
太っちょポリスマンは額の汗を拭きながら、ハンカチの下から私を睨むように見つめた。
「ヤマガタキサです、年はにじゅう」
「チサ?」
「キ、サ」
「どんな字?」
「いや、だから」
「どんな字?」
山形は良いにしても、杞紗、という字を口頭で説明するのは骨が折れる。ましてや聞き慣れない名前に初めから苛々丸出しで来る馬鹿なオッサンには、尚更だ。
「……年齢は、二十四歳と。見た目はお若いのに、そうですか、二十四歳。あ、べつに今のは変なアレじゃないですよ。セクハラとか言い出さないでくださいね、上に怒られちゃう」
「はあ」
「ふんふん。山形さんはそのぉ、本当にあの路地で事件を目撃したんですね?」
私の名前と生年月日を手元の用紙に記入しながら、太っちょポリスマンは顔も上げずにそう尋ねた。
「見ました」
「本当に?」
「よ」
呼んだのはあんたらだろうが。
思わずそう言いそうになって、黙って頷く。
「え?」
「はい。見ました」
「いつですか?」
「昨晩です」
「そ」
「仕事終わりです」
「……」
「帰宅途中でした。勤め先は」
「あー」
「……?」
「聞かれた事だけに答えてくださいね。いるんですよ、何故か事情聴取でテンション上がって先走る人。別にこれ取り調べじゃないですから、必要最低限で良いですよ」
太っちょポリスマンの背後に立っていた、なんの役割でそこにいるのか分からない細面の若い男が「プ」と吹き出した。
「テンションなんか上げてませんけど。任意ですよね、不快なんで帰ります」
私が立ち上がると、
「まあまあまあ、そうお怒りなさんなって」
と、太っちょポリスマンはパイプ椅子の背もたれに体を倒し、鋭い目つきで私を睨んだ。「さっきも言いましたけどね、殆ど連日なんですわ」
「……何がですか」
「山形さんが事件を目撃したっていう例の路地裏ね。あの周辺、この二週間ばかし立て続けに事件が起きてるんです。だけど中には、我々警察を揶揄いたい一心でデマの通報を入れてくる不届きな輩もおりましてね。ある程度こうして篩にかけてそういった輩を落としていかないと、まともな仕事にならんのですよ」
「……まあ、そういうことでしたら」
私が納得して座り直すと、太っちょポリスマンは背後を振り返って若い細面の男に頷いて見せた。若い男は「うす」と頷き返し、お役御免とばかりにその場から立ち去った。話を聞くに値いする人間かどうか、二人で私を品定めしていたのだろう。
「なんというか、あなたね」
太っちょポリスマンはじっと私を見据え、真剣な声色で言った。「よく、平気な顔をしてられるもんですね」
「……はあ?」
「昨晩第一報を受けて駆け付けた制服警官にも、あなたは驚く程度細かな証言をしている。もちろん、私もその報告書には目を通しました。だが、もしあなたの証言が全て事実ならば、よくあなた、正気でいられるもんだな、と思いましてね」
「……」
「山形杞紗さん。あなたが目撃したのは、通り魔殺人なんですよね? ……なら」
「全然正気じゃありませんよ」
「……そうですか?」
「ほとんど眠れてませんし」
「そうですか」
私は太っちょポリスマンの手元にある机の上の用紙に目をやりながら、昨晩目撃した事件について、改めて話をした。
私が仕事を終えて会社を出たのは、午後十時半を回っていた。タイムカードを打刻する際、残業時間の計算を頭の中で行ったから、時間に関してははっきりと覚えている。
そこから事件現場である例の路地裏までは、徒歩で十五分ほどの距離だ。普段はそこまで遅い時間にならない為あまり気にならないのだが、職場でもこの辺りで事件が多発しているという噂を耳にしていたから、昨晩あの道を通る事にはさすがに躊躇いがあった。
「でも、通った。確認しますけど、自宅とは反対方向ですよね? 電車通勤のようですが、駅とは真逆ですよ」
「……あの道路沿いに、よく利用する書店があるんです」
「本屋?」
「ええ、夜中の十一時まで営業してるんですけど、私定期購読してる雑誌があって、どうしても買いに行きたかったんです」
「どうしても、昨晩じゃないといけなかった?」
「実をいうと、何冊か取り置きが溜まってしまっていて、書店から催促の電話が来ていたんです。それで」
「そうですか。ええっと、あの道沿いにある本屋と言うと……」
「BOOKS アーミテージ」
「ああ、はいはい。私もね、以前よく通ってました」
「へえ、刑事さんが?」
「ええ。というか、書店ではなく、道路を挟んで向かい側にある喫茶店で……」
「リッチモンドですか?」
「そうです」
「私もよく行きますよ」
「二年前に、あの喫茶店で若い女の死亡事件がありました」
グ、と私は喉を詰まらせた。
別に太っちょポリスマンと行きつけの店が被っていたところで何のメリットもないが、会話を円滑にする為の共通項はないよりあった方がいい。しかし私と太っちょポリスマンの間にあったのは、趣味趣向から来る共通項ではなかった。
「……で、山形さん。あなたが昨晩あの道を通った理由は分かりました。ですが、あなたはかなり鮮明に、事件を目撃されていますね。というより、タイミングが、バッチリというか」
「私を犯人だと疑っているんですか?」
「いいえ?」
「だけど今の言い方は」
「私が疑っているのは、あなたが犯人かどうかではありません」
「……」
「そもそも通り魔殺人があったのかどうか、という点です」
「いや、だって!」
「ええ、仰りたいことは分かりますよ」
私は昨晩、確かに不思議で不気味で最低最悪の殺人事件を目撃した。そして警察に通報し、事情を何度も説明した。しかし、現場にあったのは大量の血痕のみであり、被害者の遺体は残されていなかったのだ。
「確かに、人が殺されたんじゃなかろうかと疑いたくなる程の、夥しい血の跡がありました。しかし被害者の遺体はおろか、猫やネズミの死体すらありませんでした。それは、あなたも一緒にご覧になられなんですよね?」
「それはそうです!だけど!」
「その辺りのお話を、もう一度お聞かせ願えますか?」
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