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始まりは何気ない一言だった。 空いた缶チューハイがテーブルの上に並び、各々がコンビニで購入したつまみが添えられている。アルコールと煙が大部屋に漂っては窓の隙間から流れていった。押し返すように春の夜風が5人を包む。高校時代の話題が小一時間ほど続いて、斎藤がレモンサワーを口にしてからふと言った。 「なんかさ、この旅館ちょっと雰囲気あるよな。」 その言葉に全員が辺りをゆっくりと見渡す。もう既に自分たちの部屋と化した宿泊部屋は暖かく淡い色の光を蓄えていた。 「そう?綺麗な旅館だと思うけど。」 山の中にある旅館、ということもあってか斎藤は口元に笑みを浮かべていた。言葉を交わさなくとも分かる。久保田は彼に便乗した。 「このフロア、この部屋しかないって、どうも変だよな。」 「だろ?もしかしたら曰く付きかもよ。」 やだー、と女性陣の抵抗の声が上がる。斎藤は再びレモンサワーを啜ってから堀内を見た。カメラから手を離して缶ビールに代えた堀内は言う。 「確かに、山の中だからそういう話もあるかもね。」 彼は心霊に詳しかった。霊感があるわけではないものの、都市伝説や怖い話に関してはその知識に長けており、こちらが話を振って女性陣を怖がらせるなんていうことは何度もあった。テーブルに缶を置いて息を吐くように続ける。 「そんなに気になるなら、行ってみれば?」 口端を少し吊り上げている。久保田と斎藤は互いに顔を合わせて頷いた。焦るように立ち上がって携帯をポケットに仕舞う。 「それじゃ、行って参りますわ。」 和室から抜けて薄暗い玄関に立つ。茶色の扉をゆっくりと開けると、目の前は黒い画用紙を貼り付けられたかのような闇に染まっていた。右手にある食堂からは一切の物音がない。目の前の壁に手を付いて廊下の奥に顔を覗かせた。 「さすがに暗いな。」 自然と声が低くなる。奥行きすら分からない廊下は確か奥にトイレがあったはずだ。真上で非常口を示す濃い緑色のライトが吊るされて、ジーッとファスナーを下ろすような音が鳴っている。恐る恐る廊下に足を踏み出して2人は進んだ。 カーペットに足音が沈む。非常灯が近付いて2人の頭上に重なり、やがて過ぎる。次第に体内から鼓動の音が響いた。 たっ、たっ、たっ 思わず足を止めた。ゆっくりと後ろを振り返ると、ぼんやりと斎藤の顔が闇に浮かんでいた。先程よりも声を殺して言う。 「今さ、足音しなかった?」 たっ、たっ、たっ 「ほら。これ。」 「本当だ。」 自分たちはゆっくりと進んでいる。この足音は小さな子が走っているようだった。それを斎藤も感じ取ったのかもしれない。目の前に張り付いた闇の中で響き渡る軽い足音が鼓膜に張り付いて恐ろしくなった。 たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ 2人は同時に来た道を駆け出した。情けなく強張った表情をしていたことだろう。それすらも気にならないほど鼓動が、頭が、逃げろという信号を発している。焦って足がもつれそうになったものの、部屋の前に辿り着いて勢いよく扉を開けた。暖かい光の玄関が出迎えてくれる。乱雑に靴を脱ぎ捨てて和室に戻った。驚いた様子の3人を見下ろして肩を上下させる。 「ど、どうしたの。」 岸の言葉を聞いて、2人は思わず畳の上に倒れ込んだ。たった数秒間の薄暗い廊下。それだけで冷えた汗が背に伝っていった。ゆっくりと顔を上げ、久保田は数秒間の出来事をなるべく膨らませて話した。
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