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午前2時、ふと目を覚ます。隣の布団で堀内が静かな寝息を立てていた。下腹部にむず痒い感覚が伸し掛る。多量の酒で催した久保田は毛布を剥いでゆっくりと立ち上がった。背後で3つの布団が並んで女性陣と斎藤が眠っている。窓の隙間から吹く風がひんやりと心地良かった。 扉に手をかけて部屋と変わらない闇に飛び込む。その時に久保田は数時間前の足音を思い出してしまった。 (いや、さすがに漏れるな…。) 心霊現象を気にしてトイレに行けないなど、小学生ではないか。なるべく早く、そう心掛けて廊下を進んでいった。 非常灯を過ぎてもあの足音は聞こえない。壁に手を付いて男子トイレに入った。 その瞬間、白い電灯がパッとトイレを照らす。3つの個室に4つの小便器が対面に並ぶ。突然の明かりに目を細めながらも久保田はグレーのスウェットに手をかけてボクサーパンツを下ろした。 天井を仰ぎながら用を足す。細い息を吐いて目を瞑る。 カラカラカラカラカラカラカラカラカラカラ トイレットペーパーを勢いよく回す音が鳴り響いて久保田は目を開けた。確かに個室の扉は開いていた、誰も入っていないことなど分かっていた。 カラカラカラカラカラカラカラカラカラカラ 子どもがいたずらをしているようだ。既に排尿は終えているが、身動きが取れない。恐る恐るスウェットを直して立ち尽くした。 心の中でせーのと呟き、勢いよく振り返る。 あの音は止まっていた。開け放たれた個室のドアは白い便器を携えていて、トイレットペーパーが散乱している様子もない。気のせいだった、ということだろう。じっとりと汗をかいているのが分かった。拭おうとする前に手を洗おうと洗面所を見た。 「うわっ。」 目の前に立つ男性を見て情けない声をあげた。 「おお、びっくりした。眠れないのか?」 斎藤、堀内ではない。食堂で獺祭を分けてくれたセンター分けの男性がそこにいた。浴衣に身を包んでどこか笑っている。ほっと胸を撫で下ろして言った。 「いえ、ちょっとお酒飲みすぎちゃって。」 そうか、と言って男性は入れ替わるように小便器へ向かった。実在する人間であるという事実が緊張していた体を解してくれる。手を洗ってスウェットの横で拭く。トイレを出る際に一言声をかけた。 「おやすみなさい。」 「おう、また朝飯でな。」 振り返って微笑む男性に頭を下げ、久保田は闇に満ちた廊下へ戻った。もうあの足音のことなど気にならない。小さなため息をつきながら廊下を進んで部屋の前に立つ。扉に手をかけた時にふと頭の中で疑問が横切った。 このフロアに宿泊しているのは自分たちだけである。さらに他に部屋はない。あの男性が何階に宿泊しているのかは知らなかったが、何故彼はわざわざ3階のトイレを利用したのか。トイレなど各フロアにあるだろうに。 沸々と滾る疑問を掻き消すように、久保田は部屋に戻った。
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