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久保田が先頭となり、松田、堀内、岸、斎藤と続く。一列になった5人はゆっくりと扉を抜けて薄暗い廊下に出た。 本来黒い布が垂れているような闇が広がっているはずだった。しかしすぐそばにある食堂の扉はぴしゃりと閉め切られており、建て付けの問題で垣間見える隙間からは細い光が溢れていた。久保田の浴衣の裾を掴む松田の手は、声と共に震えていた。 「ねぇ、人、いるよ…。」 大勢の笑い声が絶え間なく続いていた。何か飛びっきりおかしなことがあったかのように、声をあげて笑っている。自分たちですらこれほどまで豪快に笑ったことはあっただろうか。そう疑問を抱くほど食堂の向こうが面白い空間なのだろうと思うのと同時に、それ以上の恐怖が汗となって背中からどっと噴き出ていた。 なるべく音を立てないように歩いていく。どうせ笑い声に紛れて聞こえないだろうと思ってはいたが、それでも忍ばさざるを得なかった。もし大きな音を出してしまえば突然笑い声が止んで扉が開いてしまうのではないか。そんな未知の恐ろしさがある。ようやく慣れつつあったこゆりの里の3階が地獄のように思えてしまった。人は悪さを働いて地獄へ行くと、こんな場所に辿り着くのかもしれない。溶岩が滾った凹凸のある平地、赤黒い体表の鬼が金棒を担いで徘徊する山間。子どもが安易に想像するような場所ではないのだろう。濃い闇の向こうで永遠におかしな笑い声が鳴り響く。いつまでたってもそこに辿り着けないまま、孤独と恐怖を味わう。それが地獄なのだろう。 だからこそ自分たちはまだ生きている、それを証明するためにも久保田はゆっくりと手を伸ばした。 黒い襖の取っ手は小さく窪んでおり、指先で何とか探り当てた。中指の爪で引っ掛ける。心の中でタイミングを計る。笑い声が頂点に達した時に開ける。何度も言い聞かせた。 おそらく最も大きいであろう笑い声が響く。それを合図に久保田は襖を開けた。 光も、人も、笑い声もない。長机が規則的に並んでいる空の食堂はひどく虚しかった。目を瞑らず見ていたはずだった。それでも誰もいなかった。その事実だけが漠然と目の前にあった。 「誰もいない…。」 分かりきっていることを口にした。 ガタンッ 鉄の箱が傾く音が鳴り、全員がその方向に視線をやった。右手の奥に聳えるエレベーターが稼働し、電光掲示板に数字が灯っていた。何かが1階から上がってくる。数字の明かりが2を示した時、久保田たちは塊のように身を寄せた。 3階に到着したエレベーターが動きを止めたのだろう。一瞬の間が空いて扉が開いた。 「何だよこれ、おかしいよ…。」 誰もいないエレベーターは不自然なまま動きを止めていた。数秒が経過して閉じる、それが今まで生きてきた中での常識だった。 一向に閉まる気配がない。20秒ほどが経過した。 とっ、とっ、とっ 久保田は息を飲んだ。初日の夜遅くに聞いたあの足音、今は走っているというわけではない。着実にその1歩を踏みしめている、そんな印象だった。しかし妙に音が違う。それがエレベーターの床を踏みしめているということだと気が付いた時には、もう既に遅かった。 たっ、たっ、たっ 「こっちに近付いてる。」 松田がそう囁いた。金属の床を踏んでいた音が、絨毯を踏み締める音に変わる。徐々にその音が大きく身近に聞こえ始めた。 気付けば久保田たちはぴったりと身を寄せ合って深い呼吸を繰り返していた。犬が舌を出して体温調節を行っているかのような荒い息遣いが知らぬ間に大きくなる。 たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ 思わず目を瞑って足音が過ぎ去るのを待った。薄暗い廊下に灯るエレベーターの明かりよりも、瞼の裏にあるぼんやりとした微かな闇の方が心地いい。それでも孤独と不安は拭えない。松田の指先が微かに触れて、久保田は思わず掌で覆った。彼女の安心させるためではない。自分が1人ではないと感じたかった。それだけだった。 たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ、たっ 確かに5人の真横を通り過ぎた足音は、廊下の奥に吸い込まれていった。まるで久保田たちの事など初めから気にしていないようだった。数時間表面張力を保っていた感覚がして、5人は少し離れて廊下の奥に目をやった。 女子トイレの電気がパッと灯る。 カラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラ トイレットペーパーを掻き回す音が廊下に溢れる。数人が恐怖の感情を切り取ったように短い悲鳴をあげたが、それでも掻き回す音は消えなかった。延々と鳴り続ける恐怖の音。普段の生活で聞き慣れているはずの音が引き伸ばされていく。そんな拷問に近い音を聞いて1分が経過した。 「行こう。」 どこかしゃんとした松田の声に、全員が背中を押されたようだった。もちろん全身、心の中でさえも恐怖の色に染まりきっている。それでも足が前へ前へと進んでしまうのは何故なのか。一片たりとも理解できないまま久保田たちは廊下の奥へと進み、女子トイレに近付いていった。 カラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラ 久保田の浴衣をぐっと掴み、松田は手前に引き寄せた。反比例するかのように肩から顔を覗かせる。耳元で彼女の声は震えていた。 「奥の個室だけ、扉が閉まってる。」 6つの個室が広がっている。左手の一番奥だけが1つの壁のように閉められている。 何故かは分からなかった。もしかしたら誰よりも早く覚悟を決めていたのかもしれない。久保田が着る浴衣の裾から手を離した松田が横をすり抜けて女子トイレの中へ進む。 カラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラ 気のせいか松田がトイレに入り、音が増したように聞こえた。思わず手を伸ばして彼女を止めようとしたが、無駄に終わった。松田は既に扉の取っ手に手をかけている。勢いよく扉を開けて松田は後退った。何か異常を見たような表情が横顔だけでも伝わる。雪崩れ込むように後の4人が続いた。気が付けばあの音は止んでいた。 彼女が開け放った個室の中には中央に真っ白な便器が鎮座している。便座は閉まっており、トイレットペーパーが散乱している様子はない。しかし最大の違和感は便座の上にあった。 あの、日本人形だった。 人形だらけの村に建つ名前のない役場。3階にある和室の奥で佇んでいた黒い着物を身に纏う日本人形がそこに立っている。 「これ、なのかな。元凶は。」 堀内の言葉はタイル張りの床に落ちていった。誰も拾う余裕すらなく日本人形から目を離せない。しかし最初に動いたのは斎藤だった。 松田を押しのけて個室に入ると日本人形を手に持ち、もう片方の手でトイレットペーパーを巻き取った。やがて日本人形を梱包するようにトイレットペーパーを巻き付けていく。大きな繭だった。端を中へ折り込むように手で握って、斎藤は個室から飛び出した。壁に埋め込まれた窓ガラスを乱暴に開ける。跳ね返って少し戻ったものの、気に留めることもなく斎藤は大きな繭を振り被り、暗い闇の中へ放り投げた。 白い塊はすぐに見えなくなった。柔らかな黒い布の中央に沈むように消えた日本人形は、遠くの方で微かな水の音を立てた。野球部だった彼の肩は未だ健在ということだろう。旅館の下に流れる川に落ちたのだ。慌てた様子で窓をぴしゃりと閉めた斎藤は、ゆっくりと振り返って言った。 「これでいいだろ。トイレットペーパーが濡れて重くなって、沈むよ。もう大丈夫だろ。」 嫌に張り付く恐怖を振り切った、そんな声色だった。お互いが肩に手を置いて大丈夫だ、もう大丈夫、と口にする。誰かを宥めるというよりも自分に言い聞かせているようだった。 それが最大の不幸を招くということを、その時は誰もが予想していなかった。
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