135人が本棚に入れています
本棚に追加
15
「斎藤、起きて。」
毛布に包まる斎藤を叩いた松田は白いサテン生地の寝間着に身を包んでいた。いつの間にか眠りこけていた斎藤はゆっくりと顔を出して部屋を見た。
「剛。ここやばいかも。」
斎藤の足元に立つ久保田は歪な方向に跳ねた金髪を掻き乱して言った。どういうことか分からないまま、立ち上がろうと布団に手を着いた。
思わず斎藤は飛び跳ねた。毛布が宙を舞って彼の背中に落ちる。一瞬で息を切らした斎藤は自分が眠っていた布団をなぞるような黒い染みから目を離せずにいた。手のひらに残る湿った感触。濡れた何かに何度も撫でられたであろう痕が、5人全員の布団を枠のように囲んでいた。
「もう帰らないか。」
久保田の声が部屋に染みた。肯定することも否定することも出来ないまま、彼は続けた。
「何かおかしいよ。ロビーに人がいたら金払って帰ろう。俺は正直もうここにはいられない。」
「私も。これ以上何かある前に早く出た方がいいと思う。だってこれ…すごい不気味だもん。」
怯えた様子で言う松田に、ようやく全員が帰宅を肯定した。もう旅行は3日目である。残り2日間は誰かの自宅に泊まろう、おそらく全員がそう考えていた。
荷物をまとめて5人は玄関に立った。何故か旅行先だと去る際に忘れ物があったような感覚になるが、今の5人にはそんな余裕すらなかった。一刻も早くここから抜け出さないといけない。焦燥、恐怖、2つの感情が入り混じっていく。先に立った斎藤がドアノブに手をかけ、ゆっくりと引いた。
昨日を思い返せば、今は朝食が始まる時間帯だった。宿泊客が食堂の前に並んでいるはずだった。従業員が朝食の準備を行っているはずだった。
「誰もいないぞ。」
一切の生活音が無い廊下に出る。まるで2日前に訪れた人形だらけの村のようだった。
エレベーターを使うのはやめようという判断に至り、恐る恐る階段を下っていく。何かがいる廃墟を探索していくように、階下を確認しながら歩を進めていく。階段の隙間から顔を覗かせて誰もいないことを確認し、ゆっくりと降りていく。胸が張り裂けてしまいそうなほどの恐ろしさは、静寂をヘッドホンのようにして5人全員に一切の発言権を与えないようだった。話してはいけない、物音を立ててはいけない、妙な使命感に駆られた5人はやっとの思いで1階に辿り着いた。既に15分が経過している。開けたロビーに目をやって斎藤は振り向いた。
「これ、走っていいかもしれない。多分誰もいないぞ。」
その言葉を受けて久保田は呼吸を整えた。ボストンバッグを抱える。自分に言い聞かせるように言った。
「とにかく走り抜けよう。絶対に振り返らないで、一目散に外に出るんだ。」
力強く、何度も頷く。
「行くぞ、せーの。」
声を殺して音頭を採った斎藤が言葉尻を切って、前のめりに駆け出した。
沈むような絨毯を踏みしめて駆け出す。どこか懐かしい木の香りがした。どこか切なく感じたものの、走り出してみれば距離は短いということが分かった。斎藤が自動ドアを体でこじ開けるようにして、ようやく外に出る。
旅館を取り囲む木々の背に霧があった。そのせいか肌を刺すほどの冷気が漂っている。広いコンクリートの駐車場には斎藤の運転する白いオデッセイ以外、1台も車は見当たらなかった。不思議に思う余裕もなく5人は車に走る。遠隔で開錠したオデッセイへ雪崩れ込むように乗車し、斎藤はシートベルトを締める前にエンジンをかけた。
「出せ、出せ!」
焦る久保田の声に呼応するエンジン音が低く唸って旅館の壁にぶつかった。勢いよく踏み込んだことで前に傾いたが、気にならなかった。
大きく揺らいでオデッセイが滑る。あっという間に駐車場から這い出て小さな山道を下り、ハンドルを左に切った。
グレーのカーテンを思わせる厚い霧に突っ込むと、フロントガラスに何も写らなくなった。どのガラスにも白い靄がかかってその向こうを見せない。次第に速度を落とした斎藤はハイビームを繰り返し、靄の壁へ合図を送るようにしている。先が見えない細い山道ほど命の危険が感じられる場所はなかった。
恐る恐るハンドルを切りながら進んでいく。全員が不安な面持ちのままだったが、久保田はふと疑問を抱いていた。
(何故こんな簡単に進むんだ?)
この2日間を思い返す。旅館の周りは舗装されていない山道で、どうしても凹凸のある道が入り組んでいるはずだ。冷静になって考えれば、少し進めば脱輪して河原に転落してしまうことだってあるだろう。それでもなおゆっくりと進むことができるのは何故なのか。真っ白なページだけを映し出すナビゲーションの画面を睨み付けていると、突如フロントガラスを覆っていた霧が晴れた。その目の前の光景を見て、全員が息を詰まらせてしまった。
「戻ってきた…?」
脇目も振らずに逃げ出したはずの旅館が目の前に広がっている。白を基調とした建物に黒い縁が刻まれており、初日を思い出した。こゆりの里の看板が薄い霧の中でぼんやりと浮かんでいる。ますます理解ができなかった。
「ナビ入れるから待ってて。」
慌てて画面に指先を宛てがう。適当な行き先を入力してハンドルを切り返した。5人の体が左右に揺れて頭を再び霧に向け、走り出した。
ポーン
『30メートル先、右折です。』
無機質な女性のアナウンスが鳴る。行き先の道案内が始まって、久保田はホッと胸を撫で下ろした。それは後部座席に座った女性陣も同じだった。
「これで帰れるんだよね?」
親を見失った子どものように悲痛な声で松田は言う。誰も答える余裕はなかったものの、少しだけ安心したのかもしれない。もうあんな旅館とは関わることもない。もう戻ってしまうなどという不可解な現象に陥ることもない。こんな不気味な場所にはもう2度と訪れることもない。白い霧の中で5人のため息が漏れた。
ポーン
『20メートル先、左折です。』
ナビゲーションの声だけが車内に響く。時折聞こえる微かな息は誰かが思わず漏らす落ち着きだろう。しかし割り込むように堀内が言った。
「剛、車停めて。」
妙に焦った様子の言葉に、斎藤は思わず車を止めた。勢いに任せて5人の体が前に傾く。全員が堀内に視線を向けると、彼は前一点だけを見つめて続けた。
「最初の右折、まだ曲がってないのになんで左折させられるの。」
確かにその通りだった。まだこの車は最初の指示における右折を行っていない。そもそも霧の中で30メートルも進むなど、最大限の徐行を心掛けないといけなかった。冷静になって考えればまだ10メートルも進んでいない。
ポーン
『44キロメートル先、直進です。』
「やっぱりおかしい。」
果てしない距離への指示を告げるナビの声は相変わらず無機質で、それが余計に恐ろしかった。
「嫌だ…帰れないの…?」
岸の切ない悲鳴のような声は、微かに震えていた。まるで久保田たちを嘲笑うかのように女性の音声が続いていく。
ポーン
『444キロメートル先、右折です。』
ポーン
『4メートル先、右折です。』
ポーン
『4444メートル先、直進です。』
ポーン
『44444444444444444444444444444444444444444キロメートル先、さ、うせ、ちょくし、させ、そくどうをみ、ずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずず』
誰かに無機質な音声を操作されているようで、耳を塞ぎたくなってしまった。もうどこにも逃げ場はないのかもしれない。旅館を出ようが車に乗ろうが、今の久保田たちに安息の地などないのだ。
「もうやめて!」
松田の悲鳴が車内に響き渡るも、狂ったようなナビゲーションの声が鼓膜を立て続けにノックしていた。
ポーン、ポーン、ポーン、ポーン
『こ、このさ、き、き、きききききききき下、で、で、すすすすずずずずずずずずず、たたす、けけけて』
その瞬間、停まっていたはずのオデッセイが恐る恐る動き出した。平静を装うことなど出来ずに5人は混乱状態に陥った。
「おい、どうなってるんだ。」
「分からない。今もブレーキ踏んでるのに。」
ハンドルから両手を離した斎藤の足元を見る。右足が震えるほどブレーキペダルを踏みしめているものの、5人を乗せた車は蛇が這うように進んでいた。全員の悲鳴、怒号、そしていたずらな機械音声が共鳴していく。
ポーン、ポーン、ポーン、ポーン、ポーン、ポーン、ポーン、ポーン
『ししし、したたた、た、ちちちちちちちかか、かか、たすすけけけけ、てててててててててててててて』
じっとりと動いていた車が落ち着いたように停車する。
ポーン
『こゆりの里にお戻り下さい。』
聞き慣れたナビゲーションの声が一段ほど低くなり、不気味な旅館が行き先となった。その瞬間薄い靄のようなグレーの霧が徐々に晴れ始め、2度と行かないであろうと思っていた旅館が目の前に広がった。
もう、逃げられなかった。
最初のコメントを投稿しよう!