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足がもつれながらも階段を駆け下りていく。踊り場で一度止まった久保田は上を見た。 四つん這いの体勢を止め、顔が真逆を向いている。白いスカートの中に見えた艶やかな太ももが艶やかで、もしかしたら正気を取り戻しているのではないかと希望的観測を持ってしまった。 ざり、ざり、ざり、ざり、ざり 爪が掌を掻いていた。何に取り憑かれているのかも分からずに、久保田は前の3人を追った。 2階に降りて廊下を駆けていく。月明かりに照らされながら時折背後を向き、何故か不自然な体勢を何度も変えながらこちらに走ってくる松田を見ていた。 「なぁ、助けてやれないかな。」 前を走る斎藤が言った。 「今の状態じゃ無理だと思う。とりあえず隠れないと。」 後ろを走る堀内が言った。 「でも、隠れるところなんてどこにあるの。」 斎藤に追いつこうと走る岸が言った。 「部屋には入らない方がいい、さっきの俺みたいになるかもしれない。」 3人の後ろを走る久保田が言った。 「…れは私…い…ゃな…」 誰かが言った。その声は松田のものではなかった。足を止めないまま後ろを向くが、松田は止まることなく4人を追いかけている。ふくらはぎが絞った雑巾のように捻れて、膝を床につけていた。腰から上は真逆の方向を向き、垂れる髪で表情は見えない。膝を擦りながら異常なスピードで駆けてくる松田の方向から、何度か聞き覚えのない声がしていた。 「こ…のせ…じゃ…あ…つら…せい」 何を言っているかは分からなかった。それでも何かを伝えようとしていることだけは分かって、斎藤が言った。 「なんて言っているんだ。」 「分からない。」 「私…てをく…わさ…た」 角を曲がると、さらに廊下が続いていた。いまいちこの旅館の作りを把握していない4人は戸惑いながらも足を進ませていく。その間も聞き覚えのない少女の声が鳴っていた。 「これ…私の…い…ない…あ…ら…せ…はすべ…をる…され…」 次の角が見えた。斎藤は一段とスピードを上げて、右に曲がった。慌てて後の3人も右に曲がる。その先には給湯室の扉があった。 「開けろ、ここに隠れよう。」 久保田は角から顔を覗かせて廊下を見ていた。青白い光でかろうじて見える廊下の先、角を曲がった松田は直立不動のまま、ベルトコンベヤーに乗せられているかのようにこちらへ移動していた。 「追いつかれる、まだ開かないのか。」 「分かってる!」 ドアノブを何度も回しているが、おそらく開かないのだろう。3人が給湯室の扉と格闘を続けている中、久保田は再び顔を覗かせて確認した。 速度が遅くなっているのは気のせいだろうか、両腕をだらんと下げて俯いたまま、少女の声が聞こえる。 「こ…は私…せいじゃ…い…いつら…い…私…て…くる…さ…た」 「開いたぞ、入れ。」 斎藤が扉を開けて手招きしている。慌てて駆け込み、意外にも広い給湯室に入って鍵をかけた。電気を点けると壁に沿って設置された洗面台があった。横に長い空間の中で蹲り、4人は声を殺した。 ひた、ひた、ひた、ひた、ひた 扉の向こうで足音が近付く。松田は扉の前にいる、それが何よりも恐ろしく感じてしまう、岸は人差し指を噛んで涙を流していた。 「…れは私の…ない…あい…ら…い…私…すべてをく…わさ…」 唾を喉に流す音すら躊躇われる。すると少女の声が少しだけ変わった。 「これは私のせいじゃない…あいつらのせい…私はすべてを狂わされた…助けて…」 どこか濡れた声だった。涙を流して何かを訴える幼い子どもの姿が目に浮かぶ。親についた嘘がバレてしまった時の、切ない声色。 その言葉の意味は分からなかったが、おそらく包丁を振り上げたあの少女と同一人物だろう。何となくそう考えていた。しかしこれ以上何をどうすればいいのか、4人はため息すら吐くことなく黙り込んでしまった。 いつの間にかひどく汗をかいていたのだろう。じっとりとした空気が給湯室に満ちている。Tシャツの襟をはためかせて風を送っても体の表面は生暖かいままだった。鼻をすする岸が携帯を眼前に掲げて言った。 「私が、こんな旅館予約しちゃったからダメなんだよね。」 涙を流すことに何の躊躇いもなく、白い頬を伝う涙は流星群のように綺麗だった。電灯の明かりで小さく光る。久保田は岸を慰めようと彼女の隣に腰掛けた。 「ゆったりできて、皆でのんびりできたらいいなって、それだけだったのに…。」 岸の携帯には初日の夜、夕食後に地下のゲームセンターで撮影した5人の集合写真が写し出されていた。浴衣を着てピースサインを作り出し、カメラに向かって笑顔を向けている。これを撮影した時、まさか多くの怪奇現象に苛まれてしまうとは思いもしなかった。筐体の煌びやかな光を浴びている5人の背後、久保田はふと視界に入った何かを見て思わず岸の両手を上から包んだ。慌ててこちらに引き寄せて画面を食い入るように見る。 「どうしたの…。」 「これ、見てくれ。」 堀内と斎藤の間、地下の暗い空間にぼんやりと少女の姿が写り込んでいた。黒い着物を着た少女が座り込んで膝を抱え、俯いている。久保田たちを追いかけたあの少女だ。歴とした心霊写真が板のような携帯の中に浮かぶ。 「今更、こんなので驚かないよ。」 諦めたような声でそう言う岸だったが、久保田は違ったところに着目していた。それは少女の姿が薄い棒のようなもので仕切られているように見えたからだった。 2人の様子を見て堀内が岸を挟み込むように座り込んだ。堀内にも分かりやすく説明しようと、座り込んだ少女に指先を充てがう。 「何だろうこれ…この女の子の前に何本か柱が立っているみたい…。」 堀内の言葉に2人は何度も頷いた。斎藤も何かを探るかのように久保田の隣に腰掛けて携帯を覗き込む。パーマの毛先から汗が伝って落ち、ふと呟く。 「檻の中にいるみたいだな、この子。」 その言葉が合図になったかのように、堀内はポケットから携帯を抜いて取り憑かれたかのように操作を始めた。爪が液晶に当たる。コツン、コツン、その音を数分ほど鳴らし、堀内は眉をひそめていた。 「どうしたんだよ、一。」 堀内の表情は複雑だった。悲しげでもあり、苦しんでいるようにも見える。彼は携帯を持つ手をもう片方の手で押さえて、深くため息をついた。そして喉から絞り出すように一言呟いた。 「あの少女の霊は、生前座敷牢だったんだ。」
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