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青々しい緑が扇のように広がり、対向車の風に煽られながら純白のオデッセイが駆け抜ける。舗装されたばかりの山道は薄いグレーをしていた。助手席のシートに深く腰掛けながら久保田恭介が言った。 「だから、家出る前に済ませとけって言ったじゃん。」 細いルームミラーに目をやる。後部座席の中央で内股のまま岸光里が眉をひそめていた。淡い桃色のオフショルダーから鎖骨が浮かぶ。アーモンドのような目に伸びた鼻筋、ぷっくりとした下唇が緋色に照って妙に震えていた。隣でハンドルを切る斎藤剛がホルダーに設置された携帯用灰皿にタバコの灰を落として言う。 「この辺コンビニはおろか公衆トイレすら無いぞ。頼むから漏らすなよ。」 「斎藤、どっか止まれない?」 心配そうに顔を覗かせた松田紗織が声をかける。平坦なナビゲーションの画面に目をやった斎藤は左手で地毛のパーマに指を絡ませて答えた。 「こんな狭い道で止まれるか。死ぬぞ。」 「それにこんな場所で止まって、どこでするの。」 堀内一の言葉を聞いて久保田は車窓に目をやった。何の障害物もない道が車道に沿うように伸びている。木々こそ生い茂って壁のように聳えているものの、濃い橙色のフェンスで塞がれていた。後続には数台の車が続いている。無機質な声でナビゲーションが行き先を告げた。 『500メートル先、側道を左方向です。』 「は?どんなルートだよ。」 画面に目をやって斎藤は言った。十手からもう1本の棒身が生えているような道が赤く染まっている。開けている春の山道から道を外れてより奥に進むのは、どこか冒険心がくすぐられた。減速したオデッセイが壁の穴を開けたような道の入り口に吸い込まれていく。 「うわ、これボディーに傷付くんじゃないの。」 鬱蒼とした葉が車道にはみ出し、車1台がようやく通ることができる細い道を駆け抜ける。短くなったタバコを灰皿に投げ捨てて斎藤が言った。 「4泊5日の初日でそうなったらテンション下がるな。」 暗い葉のトンネルを進みながら久保田は旅行を計画した数ヶ月前を思い出した。この5人は高校1年生の時からの付き合いで、就職活動が忙しくなるであろう大学4年生へ上がる前に全員で思い出作りをしようと、春休みに田舎の旅館に泊まろうと計画を立てたのだった。宿泊プランは岸が選んでくれたおかげでのんびりとした時間が過ごせるらしい。 永遠に続くのではないかと錯覚するほど長いトンネルに、ようやくゴールが見えた。先に見える白い球体が徐々に大きくなってその向こうの景色が目に入る。それを見て岸は慌てた様子で言った。 「斎藤、そこで止めて。もう限界。」 村だった。低い建物が青空の下で並んでいる。蒼い田んぼの真横でゆっくりと車を止め、エンジンを切った。岸は堀内を押し退けるように扉を開けて外に出た。追い掛けるようにスライド式のノブに手をかけた松田が言う。 「私ついていくから。あ、見に来ないでよ。」 「早く行けよ。」 みっともなく股を抑えた岸がボンネットの前を駆けていくのを見て、久保田と斎藤は笑った。 「剛、少し休憩したら。ここから宿近くのコンビニまで距離あるでしょ。」 「そうだな。ここ景色いいし、岸の小便終わるまでのんびりするか。」 車から降りた3人は静寂に満ちた村に降りた。不思議なことに何の生活音も聞こえない。ただ太陽が真上で輝いて、小さな一軒家と田んぼが並んでいるだけ。縁石に腰掛けてタバコに火をつけた久保田は空いた箱を握り潰した。 「タバコ無いな。ここ自販機あるかな。」 「どうだか、電波すら無いんじゃね。」 薄い煙を空に吐き出す。澄んだ空気にグレーが溶けていった。缶コーヒーのプルトップを開けた斎藤が隣にしゃがみ込んで言う。 「そこのおじいさんに聞いてみたら。」 彼の尖った顎の先で男性の背中があった。白い薄手の半袖に緑を限界まで薄めたような作業用のパンツ。黒い長靴には泥が跳ねていて、麦わら帽子を被っていた。歩道の真ん中で立ち尽くしている。ゆっくりと立ち上がった久保田は声を殺した。 「大丈夫か、あの人。熱中症なんじゃないの。」 年々日本の四季は音を立てて崩壊している。3月下旬だというのに気温は30度を超えているのだ。今朝垢抜けていないアナウンサーが季節外れの真夏日だと告げていたのを思い出す。タバコをその場に放って揉み消し、久保田は覗き込むように近付いた。 「あの、すみません。この辺にタバコの自動販売機って…」 男性の前に立った久保田が言葉を失い、チープな苦味を啜っていた斎藤は目を細めた。大学の入学式で金髪を初披露した彼の髪は今も北極で見ることのできる狐のような色をしている。立ち止まっている2人を見て斎藤は言う。 「恭介、どうしたの。」 「いや…これ、人形なんだけど。」 耳を疑った斎藤は小走りで半袖姿の男性に駆け寄った。ゆっくりと顔を覗かせて、久保田と同じように言葉を失ってしまった。 「マジじゃん。」 あまりにも人間に近い、皺や肌のシミまで再現された蝋人形だった。おそらく70代後半だろう。玉のような汗が頬に張り付いている。落ちることもなくただそこにある。潰れたような目に低い鼻、唇は乾燥していた。 「誰が作ったんだろう。」 「さぁ…?俺もタバコ買おうと思ったのに。他に人いないのかな。」 辺りを見渡した斎藤の視線の端に、一眼レフを手に持った堀内が入った。清流のような黒髪が眉の上で揺れている。いつもと同じように落ち着いた声で彼は言った。 「ここ、人形しかいないよ。」
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