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「お前食い過ぎだよ。」
オフショルダーの上から手を優しく摩る。岸はどこか苦しそうな声で言った。
「だって、久保田も食べたでしょ。あの天麩羅。」
昼食の際に立ち寄った蕎麦屋で食べた海老の天麩羅を思い出す。雲のような衣に弾ける身。鰹出汁で先を湿らせて歯で砕くと非常に旨かった。
「だからって天麩羅の盛り合わせ頼むことないだろ。」
些細な言い合いは高校生の時から続いていた。何てことない日常の会話が続いて5人は部屋に戻った。
旅館から出て右手を真っ直ぐ歩いていくと、晴れた霧の向こうで明るい村があった。低い建物に広がった田んぼ。観光客である自分たちを快く受け入れてくれた。まさしく田舎といったのんびりとしている雰囲気に5人は力を無くしてぼんやりと村を流したのだった。
夕飯まで残り30分。斎藤は部屋と窓の間、小さなテーブルを2つの椅子が挟んだ広縁に立っていた。窓を開けてタバコを1本抜く。
「なんか、いいよな。5人で旅行なんて今までなかったもんな。」
その通りだった。いくら仲が良いとはいえ性別が違う。全員で旅行ともなるとそれなりの理由が必要だった。恋愛感情のない5人。ふと振り返ると各々が自由に過ごしていた。カメラをいじる堀内、携帯の画面に指を滑らせる松田の隣で岸が白いボストンバッグの中を漁っている。生活を一部共有していることが嬉しく思えて、久保田はため息をつくように笑った。
19時前になって5人は部屋を出た。廊下を出て右手には複数の宿泊客が並んでおり、すぐそばの扉の向こうに吸い込まれていた。古民家の壁を思わせる煤けたような扉をくぐると、自分たちが宿泊する大部屋を6つほど繋げたような広間が奥へ伸びていた。畳の上に飴色の長机が間隔を空けて並んで、その上に豪勢な料理が置かれている。紺の袴を履いた男性従業員がこちらにやってきた。灰色の髪を掻き上げてジェルで固めているようだった。
「ご予約のお名前は。」
「久保田です。」
男性は手を伸ばして手前の机を差した。こちらです、という彼の声に5人は料理を囲うように座る。船を模した長方形の木の器には色鮮やかな刺身が並び、シュレッダーにかけたような白いつまが添えられている。脂の乗った鯛と鮪の切り身が白い光に照らされて眩しい。5つの黒く小さな塔の上にベージュの小ぶりな鍋があった。蓋の隙間から紙のような湯気が漂っている。
お造りにすき焼きだと男性は説明してくれた。さらには漬物、白飯、ビール瓶などが並ぶ。飲み物は全員ビールだと決めていたため、各々が注いでグラスを掲げた。
「じゃあ、音頭は恭介で。」
「俺?えーっと。じゃあ、高校からの長い付き合い、初めての旅行に、乾杯。」
4泊5日の旅行、初日の夜が幕を開けた。グラスの縁を合わせて麦芽飲料が蠢く。白い泡から先に啜って流し込むと体の隅に浸透していく感覚があった。斎藤が大袈裟に息を漏らしてグラスを置く。数年前までは自分たちは制服に身を包んで教室という狭い不自由な空間にいた。この味が、この雰囲気が大人ということなのだろうか。口いっぱいに染み渡るビールの風味を鼻から抜いて黒い背もたれに体を預けた。
「皆さん、学生さんですか。」
隣のテーブルから声が飛んで、ゆっくりとそちらを向く。格子柄の白い浴衣に身を包んだ夫婦がテーブルを挟んで座っていた。どちらも30代だろう。子どもはいないようだった。代わりに2人と近い距離に座る岸が答える。
「そうです。大学の同級生で。」
「おお、仲良いね。東京から来たの。」
髪を耳にかけた岸が頷く。旅先で見知らぬ宿泊客との会話も醍醐味の1つかもしれないと、久保田は考えた。短い髪を真ん中で分けた男性が日本酒の瓶を片手にこちらを見る。
「どう、飲むか。これうまいんだよ。」
澱んだ緑色の瓶に藁半紙のようなラベルが貼られ、獺祭と書かれてある。日本酒の知識が乏しくとも理解できるほどメジャーな酒が非日常を演出している気がした。ビールを全て飲み干してグラスを空にする。
「おっ、いい飲みっぷりだな。俺もビールにしとけばよかったかな。」
「そんなこと言って、あなた炭酸苦手じゃない。」
毛先の畝った茶髪を揺らして女性が笑いながら言う。こちらを見てごめんなさいね、と付け加えた。笑顔で首を横に振り、男性が掲げる瓶の縁にグラスを持っていった。水に檸檬を一滴だけ垂らしたような色合いの液体が注がれ、独特な匂いが鼻を刺した。
俗に言うアルハラ、に近いのかもしれない。それでも久保田は微塵も嫌悪感を抱くことはなかった。こういったやりとりは好きだったし、事実受け手がそう感じていないのだから良い関係性が成立しているのである。細い目が弧を描いて男性は微笑んでいた。おそらく風呂上がりなのだろう。肌には反射するような艶がある。
ぐいっと半分まで飲み干すと、男性はさらに歓声をあげた。若い男が気持ち良く酒を飲む姿を、自分も歳を重ねたら羨ましく思うのだろう。子どもと大人の狭間で久保田は獺祭の味わいを楽しんでいた。
「すみません、俺も貰いたいっす。」
膝を擦って移動してきた斎藤に、男性はより楽しそうな表情を浮かべて言った。
「良いねぇ。ほら、注いでやるよ。」
再び瓶を傾けて空いたグラスに獺祭が注がれる。それから5人は夫婦だけでなく、その周りの観光客も合わせて宴会のように楽しんだ。
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