其の九 簪の花

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其の九 簪の花

「ごめん下さい」  玄関から声が聞こえてくる。  ――お客さんかしら。それとも角の酒屋さんが御用聞きに来たのかしら。  今、この家の主である先生は、週に一度の臨時講師で大学に行っており不在である。来客の約束は無かったはずだから、御用聞きかもしれない。  はーい、と向かうと、薄暗い玄関に見知らぬ一人の男が立っていた。立ち襟のシャツに法被(はっぴ)、股引を身に付けた、行商人のような風体だ。背には風呂敷に包まれた行李をからっている。 「いらっしゃいませ。どちら様でしょうか?」 「ああ、どうも、お嬢さん」  鳥打帽を被った男は、ぺこりと頭を下げる。 「おうちの方はいらっしゃいますでしょうか?」 「すみません、今外出しておりまして……」 「おや、そうでしたか。……そうだ、お嬢さん、(かんざし)はいりませんか?」 「え?」 「いやあ、あたし、簪売りをしておりまして」  言いながら、男は背負っていた行李を手早く降ろして、上がり框に広げて見せた。  敷かれた白い布の上に、綺麗な簪がずらりと並んでいく。  珊瑚や翡翠の大きな玉がついた玉簪。つまみ細工の色とりどりの花簪。高級な鼈甲でできた松葉簪。  平打ちの銀製の簪には、細かい模様が彫られている。平打ち簪は形が薄く、平たい円状の飾りに一本、あるいは二本の足がついたものだ。円の部分の飾りに彫り込まれた模様が綺麗で、スミは思わず見惚れた。 「わあ……」 「綺麗でしょう? これは人気でよく売れているんですよ」  たしかに綺麗だ。  円の中は透かし彫りで、それぞれ花の模様になっている。桜に梅、菊に牡丹……。だが、どれも端っこの小さい花は咲いているが、中央の目立つ部分の所は蕾の形になっていた。  どうして花が咲いていないのかしら、と小首を傾げるスミに、男は「こちらが気になりますか?」と一本の簪を差し出してくる。 「こちらは、お嬢さんのような娘さんのために作ったんですよ」 「そうなんですか?」 「ええ。お時間があれば、少しお話しても構いませんか? この簪にまつわるお話を――」 ***  男の名は、徳馬といった。  彼は北の生まれで、山の方にある小さな村に住んでいた。  若い頃は貧しく、好いた娘に簪の一つも贈れなかった。  ある日、互いに思い合っていたその娘に、徳馬は折った花の枝を贈った。まだ肌寒い春、蕾のままの桃の花が付いていた。  固く閉じた紅色の蕾が、初々しい娘によく似あっていた。娘は嬉しそうに、その枝を簪代わりに髪に挿したものだ。  さて、それから不思議なことが起こった。  娘がつける簪の蕾は、萎れることなく、赤くふっくらとしたままだった。  しかも、その蕾は少しずつ綻んでいく。  それとは反対に、娘は元気を無くしていく。時折、魂が抜けたかのように、ぼんやりとすることが多くなった。  やがて蕾は開き、綺麗な桃の花を咲かせた。  それは、今までに徳馬が見たことも無いほど美しく、可憐で美しい花だった。  脳が震えるほどの魅惑的な甘い香りが広がった。  満開の桃の花を頭に飾った娘は、それはそれは美しかった。  しかし同時に、徳馬の好いた娘は廃人となった。生きてはいるが、常にぼんやりとして、普通に話すこともできなくなっていたのだ―― *** 「そのとき、思ったんですよ」  徳馬は言葉を続ける。 「あの桃の花の簪は、あの娘の魂を食らったんです。初心(うぶ)で、瑞々しくて、まだ固く閉じた蕾のような娘の生気を、吸い取ったんですよ。そうして、綺麗な花を咲かせるんです」  徳馬の優しそうな風貌の奥にある、何か底知れないものに、スミの背が粟立った。 「あの……」 「お嬢さんは、知っていますか? 生花(いきばな)を頭に挿すと若死にする、って。亡くなった人の枕元に一本の花を供えるでしょう? だから不吉だとされているようですよ。まあ、迷信ですけれどね。だけど……あたしにはどうにも、花が水を吸うように、ぢゅうぢゅうと、命も吸うんじゃないかって。そう思えてしまって」  徳馬が、手に持った簪を愛おしそうに撫でる。 「……あたしはまた、あの花が見たい。あんな美しい花は、他にありません。……ねえ、お嬢さん。お嬢さんも見たくはありませんか? この世のものとは思えぬ、美しい花を」  今はまだ、蕾の簪。  挿した娘の魂を食らい、美しい花を咲かせる。  その時が、娘も簪も、一番美しくなる。 「あなたはどんな花を咲かせるんでしょうね。牡丹、菊……ああ、撫子なんか似合いそうだ。道端の小さく可憐な花。ねえ、どうです、お嬢さ――」  徳馬が言いかけた時、がらりと背後の引き戸が開け放たれた。  そこには、額に汗を滲ませた先生が立っている。 「……うちのスミちゃんに、手を出さないでもらえるかい」  珍しく洋装で、硬い表情の先生が、徳馬を睨み下ろす。  徳馬は特に驚くことも無く、「おや、失礼しました」とあっさり謝った。広げていた簪を白い布でくるりと包んで行李に入れて、あっという間に背負う。  鳥打帽のつばに片手をかけた徳馬は、スミの方を向いて一礼した。 「それでは、また寄ることがありましたら。その時はどうぞご贔屓に」 「来なくていいよ。さっさと出て行っておくれ」 「ええ。では失礼します」  スミの代わりに答えた先生に、追い出されるようにして徳馬は去っていった。  いつもと違う様子の先生に呆気に取られていたスミを、先生がどこか怒った顔で叱る。 「スミちゃん、勝手にあんな人を上げちゃあ駄目だよ」 「はい、すみません」 「あんな危険な物を買おうだなんて……」 「え? いいえ、私、買う気はまったくありませんでしたよ。だって、この髪にどう簪を挿せというんですか」  スミは、自分の短い髪を見せる。顎下で切りそろえた断髪はぎりぎり一つにまとめることはできるが、簪を挿せる長さはない。 「あ……」 「簪よりもピンの方がいいです。それに、あの人ちょっと気持ち悪かったから、ピンがあっても買いたくないです」  きっぱりと言うスミに、先生は少し目を瞠った後、どこか居た堪れなさそうに頬を掻いた。 「……うん、そうだね。ごめんよスミちゃん」 「いえ、別に先生が謝ることでは……そうですね。次からは気を付けます。鬼頭さん以外の人は、気を付けて家に上げるようにようにしますね!」 「いや、できれば鬼頭も通さなくていいんだけどなぁ……」  先生はそうぼやいて苦笑した。  その数日後、先生からピンをもらった。  銀色の地に、満開の桜が彫り込まれたそれは、徳馬が見せてきた蕾の簪よりもずっと可愛くて、実用的で、スミはすっかり気に入ったのだった。
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