其の十 影法師の声

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其の十 影法師の声

 梅雨が明け、七月の末ともなると庭の木は青々と茂り、木の下には暗い影が落ちるようになる。 「あっついねぇ……」  風通しの良い縁側に寝そべり、団扇で己をあおぐ先生に、洗濯物を干していたスミは呆れる。 「もう、だらけないで下さい。まだ七月ですよ。今からそんなだったら、八月になったら先生、溶けてしまいそうです」 「人間そんな簡単に溶けないよ……ああ、でも溶けたら仕事しなくていいなぁ……」 「何寝惚けたこと言ってるんです。ほら、今日の午後にはお客様が見えられるのでしょう? 怖い話を聞かせてもらえれば、少しは涼しくなりますよ」 「そうだねぇ……」  ごろごろとする先生に、スミはぴしゃりと言った。 「ですので、午前中にお仕事終わらせて下さいね! 締切が近いんですから」 「ううっ……はーい……」  のそのそと、仕方なさそうに先生は起き上がり、書斎へと向かった。  午後、一番暑い盛りを過ぎた頃に、来客は訪れた。 「ごめん下さいませ」  玄関にいたのは、灰色の髪を綺麗に結った老婦人だ。紺色の薄物に、真珠色の帯を締めている。上品な佇まいの彼女を、スミは応接間に案内した。  老婦人は、小首を傾げて先生に尋ねる。 「はじめまして。……あなたが枯木先生でいらっしゃるの?」 「いかにも。僕が枯木青葉です」 「まあ……」  老婦人は、しげしげと先生を見つめた。 「どうかされましたか?」 「いえ、不躾に見てごめんなさいね。思っていたよりもお若い方だったから、驚いてしまったの。貴方の御本、読ませてもらったのだけど、もっと年上の方だと勝手に思っていたわ」  先生――枯木青葉は、怪奇幻想作家だ。  本当に霊を見たかのような恐ろしい話だったり、摩訶不思議な世界を描いた話だったりで、その方面では名が知れているらしい。  また、先生の見た目の良さもあって、意外にも若い女性にも最近は人気がでているようだ。  もっとも、スミは先生の本を読んだものの、難しくてよく理解できなかった。感想を聞いてきた先生に、スミが「よくわかりません」と正直に言うと、少ししょぼんとされたものだ。それを見ていた鬼頭さんが「お前もまだまだだな」と先生の肩を叩いていたが、スミが浅学のせいもあるに違いない。  老婦人は、頬に手を当てて述べる。 「不思議な世界を見てきたかのように描かれるのね。恐ろしいものもございましたけれど、お話に引き込まれましたわ」 「おや、拙作を読んで頂いていたとは。これはお恥ずかしい」  とか言って頭を掻きながらも、先生は満更でなさそうだ。  どうぞどうぞ、掛けて下さい、といつもよりもいい笑顔で老婦人に椅子を勧める。椅子に掛けた老婦人の前に、スミは用意していたお茶と菓子を出した。  今日は井戸水で冷やしておいた緑茶と水羊羹だ。さすがに先生も老婦人の前では、いつものようにがっついたりしなかった。悠然と――しかし目の端でちらちらと水羊羹を見ながら――老婦人に話を促す。 「さて、お話をお聞かせ願えますか?」 「ええ」  老婦人は静かに語り始めた。 ***  老婦人の名は、織枝といった。  織枝は、十八の歳に見合い結婚をした。もっとも、見合いをする前からすでに親同士の間で話は決まっていたようなものだ。  見合いという名の顔合わせで出会ったのは、藤吾(とうご)という青年だ。  織枝より二つ年上の彼は軍に所属し、生真面目で誠実な男だった。 『知らぬ相手の家に入るというのは、とても不安なことでしょう。貴女の不安が、一日でも早く無くなるよう俺が貴女を守ります。どうか、俺の妻になってはくれぬでしょうか』  頬を赤くして真面目な顔で告げる彼に、織枝はその時、一生ついていこうと決めたものだ。  それからの数年は、とても幸せな日々だった。  藤吾は見合いの席で言った言葉通り、織枝を支えて守ってくれた。子供にも恵まれて、男子二人と女子一人を授かった。  織枝たち家族は幸せだったが、時代はそうはいかない。  近づく戦争の影が、織枝たちにも忍び寄っていた。軍人の藤吾は、外国に戦争に行くことになり、織枝と離れ離れになった。  藤吾の無事を祈っていた織枝だったが、彼女の元に届いたのは一通の電報だけだ。彼の訃報を知らせるそれに、織枝の目の前は真っ暗になった。  愛する人がいなくなった悲しみに打ちひしがれている暇は無かった。  藤吾がいなくなった今、子供たちを守るのは自分だ。  しかし、上の子はまだ五歳、下の子にいたっては一歳になったばかりの赤子だった。一時は藤吾の実家に身を寄せたものの、軍人一家であった彼の兄弟達の家族ですぐに手いっぱいとなった。織枝の実家も、子供三人を引き連れて戻るのも難しい。  途方にくれた織枝は、ある夏の日、ふと魔が差した。  夕暮れでもまだ暑い中、ふらふらと橋の上を歩いていた織枝は、夕陽を反射する赤い川を見て思った。  ――飛び込んだら、楽になるかしら。  気づかぬうちに欄干に手を掛けたその時。  後ろから、声がした。 『……り……、お……りえ……』  聞き覚えのある声に、織枝はばっと後ろを振り返る。  後ろには、自分の影があった。赤い夕陽の中に伸びる、真っ黒な影法師。  そこから、あの人の声がした。 『あ……あなた……』 『……おりえ……織枝』 『ああ、あなた。藤吾さん、あなたなのね』  織枝が影の方へ行こうとすると、影法師が答える。 『駄目だ。来てはいけないよ。どうかまだ、こちらへは来ないでおくれ』 『いやよ、あなたの側に行きたいわ。一人は寂しいの、悲しいの』  ぽろぽろと涙を流して首を横に振る織枝に、影法師は優しく語りかける。 『お前は一人ではないよ。悟も、隆も、映子もいるだろう。俺の分まで、どうか皆を守っておくれ』  子供の名を呼ばれ、織枝ははっとした。  そうだ。ここで自分が死ねば、幼い子供たちが路頭に迷う。  愛する藤吾との、大切な子供たち―― 『ああっ……!』  気づけば織枝は橋の上で蹲り、一人泣いていた。辺りはすっかり薄暗くなり、影法師はとうに消えている。  偶然にも、道行く人の中で親切な者がおり、打ちひしがれる織枝に話しかけてきた。  その人は織枝の境遇に同情し、働き口を紹介してくれた。おかげで、織枝は三人の子供を抱えながら、何とか暮らしていくことができたのだ―― *** 「……辛くて、辛くて、挫けそうなことは幾度もありました。その度に、影法師が私を引き止めてくれるのです。『まだこちらへ来るな』と、そう言って」  死んでしまいたいと織江が思ったとき、影法師――藤吾は現れて、影の中から語り掛けてくる。織江はその度に思い留まった。 「あの人は、死んでからも私を支えてくれたのです。おかげで、子供たちも立派に育って、孫もたくさんできて……今はのんびりと、余生を過ごす日々ですわ」  ふふ、と織江は笑う。 「今思うと、すべて気のせいだったのかもしれません。あの影も声もただの幻で、私が勝手に思い込んでいただけなのだと。けれど……先生のお話を読んで、こんな不思議なことがあるのだったら、やっぱりあの影法師も藤吾さんだったんじゃないかって」  織江はそう言って、話を終えた。  帰る織江を見送るために、スミと先生は玄関に向かう。 「織江さん」  ふと、先生が織江に声を掛けた。 「はい、何でしょう」 「もし……もしまた、影法師が……」  言いかけた先生は、しかし首を横に振って止めた。 「いえ、何でもありません。……どうか、帰り道お気を付けて」 「ありがとう。それでは失礼します」  織江は会釈して、からからと玄関の引き戸を開けて帰っていった。  スミが隣の先生を見上げると、先生は眉をひそめて、織江の消えた方を見ている。 「先生? どうかされました?」 「ああ……」  どこか遠くを見る目をしたまま、先生は口を開く。 「少しね、気になったんだ。『“まだ”こちらへ来るな』って影が言っていたのなら、いつかはこう言うんじゃないかと思って」  ――“もう”こちらへ来てもいいよ、と。  織江の前に影が伸びる。  黒い影法師が、まっすぐに彼女の行く先に伸びていた。
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