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終 おわり
うちのスミちゃんはしっかり者だ。そして、ひどく鈍感な性質である。
鈍感、というのは決して悪い意味でない。
むしろ青葉にとっては、羨ましい性質だ。
青葉は、昔から奇妙な物が見える性質であった。
初めに自覚したのは、五歳の頃。亡くなった祖母の葬式の最中に、お棺に入っているはずの祖母が、部屋の隅に立っているのを目撃した時だ。
以来、青葉の目には、他の人には見えていない、いわゆる幽霊や奇妙な生き物――こちらは妖怪と呼べばいいのか――が映った。
青葉がそれらに話しかけたり驚いたりする度に、他の人たちから奇妙な目線を寄こされた。
家族からも遠巻きにされた青葉は、ようやく自分の目がおかしいと気づいた。
見えないものが見える。
見たいと思わなくても、見えてしまう。
自分に見えるものが他の人にも見えているのか、それも分からなかった。
中学に上がって、自分と同じような力を持つ鬼頭に出会わなければ、今の青葉はいなかっただろう。
同じ目を持ち、同じ世界を見ている者がいるというのは、心強いことだ。
もっとも、鬼頭は見えるものと見えないものの違いが、はっきり付くらしい。青葉とは見え方が違い、神社の息子だった彼は対処法も知っていた。
鬼頭がいないとき、ふと、青葉は不安になる。
今、自分に見えているものは、はたして他の人に見えているだろうか。
こんなものが見える自分は、おかしいのだろうか。
鬼頭という友人ができながらも、青葉はそんな不安を抱えていた。
青葉は、大学時代に投稿した掌編小説が雑誌に載ったのをきっかけに、作家の道へと進んだ。今は時折、大学で臨時の講師を務めつつ、作家として生計を立てている。
もっとも、そこまで有名作家でないのに一軒家を持ち、お手伝いを雇えるほどの財力があるのは、実家を出る際の手切れ金のおかげもある。何しろ実家は金だけはあった。
しかし、奇妙なものを見る青葉の言動を手伝いの者は奇妙に思い、それほど長続きしなかった。
次の人を探さねばと思っていたある日、鬼頭が一人の女の子を連れて来た。
田舎から出てきたばかりのような、野暮ったい着物と髪形をした、小柄な少女はスミといった。
『お前には、このくらい鈍感な子の方がいいだろう』
鬼頭の言う“鈍感”が決して悪口ではないことは、スミちゃんを雇うようになってからよくわかった。
スミちゃんには、見えないものがさっぱりと見えない。感じ取ることも無い。
勘の鋭い者や神経の繊細な者は、見えはせずとも気配は感じ取るようだが、スミちゃんはそういうのが無い。悪いものに取り憑かれたりもせずに、影響を受けない体質のようだ。
青葉の書斎にはそういうものが溜まりやすいというのに、平然と入ってきて、はたきや箒で掃除していく。部屋の隅に蹲っていた幽霊などが怒って襲っても、スミちゃんは気づかない。肩に付喪神が恨めしく乗っかっても、てきぱきと動くので振り落としてしまう。
『もう、この部屋空気が悪いですよ』
明るい日中に、ぱんっと窓を全開にして掃除をするスミちゃんに、幽霊や妖怪はしおしおと去っていく。
何と言うか、気持ちいいくらいに“鈍感”だった。
そのくせ、スミちゃんは、青葉の言うことをあっさりと信じる。
『僕はね、幽霊が見えるんだよ』
ふざけ半分で言ったところ、スミちゃんは、
『そうなんですか』
すごいですねぇ、と感心したように答えただけだ。
逆にこちらが拍子抜けしてしまって、以来、スミちゃんの前では自分が見えることを隠していない。
***
スミちゃんが来て、もう一年と半年。
早いものだなぁ、と青葉は縁側に腰かけて、団扇であおいだ。肌に張り付いていた長い髪が、風で揺れて流れる。傍らに置いた皿で焚く蚊遣り香からは、薄く煙が上がっていた。
すっかり夏に入り、庭では蝉の声が響いている。強い日差しが照り付けて、木々の下に濃い影を作っていた。
ああいう、木の下にできる影を『青葉闇』と呼ぶ。
強く明るい日光とは対照的な、黒く濃い影。
光が強ければ強いほど、葉が青く茂れば茂るほど、闇は濃くなる。
……不思議なものだ。
すべての生命を育む太陽の光と、生命力溢れる緑の木々。
その下に広がるのは、光のない世界。不気味なくらい冷たくて、静かな、黒い闇。
まるで、生と死を表しているかのようだ。あるいは、此の世と彼の世か。あの影は、その境のようにも思える。
青葉闇に入れば、異界に行けるのかもしれない――。
そんなことを考えていると、ふと、木の下に何かがぽとりと落ちた。
目を凝らしてみると、蝉の死骸が落ちている。夏の短い時、命を燃やし続けた蝉だ。生きざまは立派で、哀れでもある。
目を眇めて見ていると、蝉の周りの地面が歪んだ。
影が波打って、蝉をじわじわと飲み込んでいく。生をまっとうした彼を、彼の世へ連れていこうとしているかのように。
しかし、蝉はまだ生きていたようだ。足掻くように、じじっと翅を震わせた彼の隣に、ふっと白い手が浮かんできた。
影の中から現れた白い手は、蝉をぐしゃりと掴んだ。
ぢぢっ――。
最後の翅の音と共に、手に囚われた蝉は、とぷんと影の中に沈んだ。
目の前で起きた不思議を、青葉は固唾をのんで見やる。
すると、影の中から再び白い手が現れた。地面から生えた腕は、蝋のように真っ白で、ほっそりとしている。そのくせ、爪は真っ赤に染まっていて、ひどく扇情的だった。
腕だけしかないというのに、青葉は強い視線を感じた。
そうして、青葉に向かって、腕は招くように動いた。
――おいで。こちらにおいで。
艶めかしい声が耳元で囁いている。
腕から目を離せない。
今すぐにでもそちらに行きたい気持ちが、なぜだか急にせり上がってくる。行ってはいけないとわかっているのに。
青葉の頬を、冷たい汗が流れた時だった。
「先生!」
スミちゃんの声がした。
はっと振り返ると、スミちゃんが青葉の浴衣の袖を掴んでいる。きゅっと眉を上げて、スミちゃんは言う。
「そんな恰好で草むらに入ったら、虫にくわれちゃいますよ」
「……」
青葉は、いつの間にか庭に立っていた。青葉闇まで、あと一歩のところだった。
スミちゃんは「あっ」と声を上げる。
「先生、裸足じゃないですか! もう、ほら、早く戻って下さいよ」
縁側まで背中を押されて、座らせられる。スミちゃんは手早く手拭いを持ってきて、足を拭くようにと差し出した。
青葉は呆気にとられながらも、言われた通りに汚れた足の裏を拭く。拭う度に、頭の中の靄も晴れるようで、現実に戻った感じがした。
大人しい青葉に、スミちゃんは不思議に思ったのだろう。
「どうしたんです、先生。元気が無いです。もしかしてお腹空きましたか? お茶にします?」
まるで子供扱いだが、今はそれが居心地良い。
「うん……」
頷いた青葉に、スミちゃんは「少し待って下さいね」と立ち上がり、やがてお盆にカルピスの白いグラスを持ってきた。添えてあるのはビスケットだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
青葉は牛乳割りの甘いカルピスを飲んで、大きく息を吐いた。
隣に座ったスミちゃんに、ぽつりと呟く。
「……あの木の影に、白い腕がいるんだ。それがさ、こう『おいでおいで』って、しているんだよ」
今もまだ、腕は消えていない。
隙あらば獲物を捕らえようと、闇の中で待ち構えている。
「……私には見えませんけど」
スミちゃんは、そう返してきた。そりゃあそうだろう。見えないに決まっている。
だけどスミちゃんはすっくと立ちあがり、庭に降りて、どこからか鎌を持ってくる。草刈り用の鎌だ。一体どうするのかと目を瞬かせる青葉に、スミちゃんは尋ねてきた。
「先生、どの辺りです? そんな手、刈ってしまいましょう」
「……えっ? ちょっと待って、危ないよスミちゃん!」
「先生を連れて行かれると困りますから」
ふんっ、とスミちゃんは手早くたすき掛けして、鎌を構えた。勇ましいが、いかんせん無謀である。
「いや、スミちゃんに何かある方が困るよ。いいから戻って。僕はもう大丈夫だから」
スミちゃんは少し不満そうに頬を膨らませたが、渋々戻ってきた。物騒な鎌を元の場所に仕舞わせている間に、いつの間にか腕は消え去っていた。スミちゃんの剣幕に恐れをなしたのかもしれない。
そのことを告げると、スミちゃんは少し落ち着いたようだ。だが、生い茂る緑を見据えて、きっぱりと言う。
「とりあえず、近いうちに草刈りしておきますね。木の剪定も庭師さんに頼んでおきます。夏場は本当に、草木が伸びるのは早いですものね」
「……」
なんてよくできたお手伝いさんか。
感心しながらも、青葉はふっと苦い笑みを零した。
「どうしたんです、先生」
「……どうしてスミちゃんは、僕の言うことを信じてくれるんだい? 君には見えないのに」
青葉が訊ねると、スミちゃんはきょとんとした。
「見えないからですよ。見える先生の言うことを信じるしかないでしょう?」
「いや、それ以前に……僕が見えていることを信じるのは、どうしてかなって。嘘かもしれないだろう?」
普通は、信じない。
青葉の家族も、青葉の言葉を信じることは無かった。
だが、スミちゃんは驚いたように目を丸くする。
「えっ、先生、嘘をついているんですか?」
「いや、嘘はついていないけど……」
青葉が反射的に答えると、スミちゃんはほっとしたように笑った。
「だったら、信じます。……ええと、あのですね、先生。私、雷様が電気だって知って驚きました。レコードから音が出てくるのもびっくりしました。ラヂオも不思議です、遠くの音を聞くことができるなんて。ガスって便利だけれど、目には見えないのにどうやって燃えるのかしら……。ここに来てから、不思議なことばかりです。だから、先生が幽霊を見えることだって、不思議だけれど、きっと、どうってことないんですよ」
「……」
青葉はぽかんと、傍らのスミちゃんを見やる。
「そう、なのかな?」
「ええ、そうです」
力強く頷いたスミちゃんに、「そっか……そうかぁ」と青葉は呟いた後、両手で顔を押さえた。
顔を押さえたまま上体を倒して一人悶えていると、スミちゃんが慌て出す。
「せ、先生どうしたんですか? やだ、もしかしてお腹痛いですか? カルピスを割った牛乳、腐ってなかったはずだけど……あっ、お医者様、それとも鬼頭さんを呼んだ方がいいですか!?」
「……いや、大丈夫だよ」
はーっと息を吐いて、顔を隠したまま青葉は答えた。
「ありがとうね、スミちゃん」
「は、はあ。どういたしまして……?」
首を傾げるスミちゃんは鈍感で、だからおかげで助かった。今の真っ赤な顔を見られるのは、少々気まずい。
まるで陽だまりのように居心地の良いこの場所を、きっとしばらく、自分は手放せないだろう。
スミちゃんをお嫁に出したくないなぁ、と頭の隅でちらりと考えてしまう。
ひとまずは、スミちゃんに見捨てられることが無いように、ちゃんと仕事をするしかない。
そうだ。聞き集めた奇妙な話を、そろそろまとめるとしよう。題名も決めなくては。
何とか奇談、と付けると様になるだろうか。
そう、例えば――
夏の暑い真昼に、木陰にふっと足を踏み入れたときの、ひやりとするような感覚の話にしたい。
青葉闇のような、説話集だ。
青葉はつらつらと考えながら、スミちゃんに頼んだ。
「スミちゃん。今から執筆するから、お茶を淹れてくれるかい?」
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