序 秋のはじまり

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序 秋のはじまり

 お盆も過ぎれば、日が暮れるのが早くなる。カナカナと物悲しく響く蜩の声と共に、夕の風には秋の気配が混じる。  だのに先生ときたら、相変わらず薄い浴衣のまま縁側でうたた寝していたようだ。 「おかえりスミちゃ……っくしょんっ!!」  夏の藪入りで里帰りしていたスミが一週間ぶりに戻ってきた時、迎えた先生は盛大なくしゃみをして身体を震わせた。  すっかり体が冷えているらしい。夕涼みの時には上掛けを忘れずにと、藪入りの前に口うるさく言っておいたのに。  まったくもう、とスミは荷解きもほどほどに、押し入れから綿入りの厚い上掛けを出した。 「これにくるまってて下さいっ。湯たんぽ用意しますから」  繰り返されるくしゃみの音を台所で聞きながら、スミはガスコンロで湯を沸かす。炭を熾して火鉢や行火(あんか)を用意するよりも、湯たんぽの方が早い。  それにしてもガスコンロというのは本当に便利である。こぽこぽと沸いた湯を湯たんぽに注ぎながら、スミは感嘆の息をついた。  田舎の我が家には水道もガスも当然無い。竈での火おこしは久しぶりで、すぐ下の弟から、『姉ちゃん、火おこしが下手になっとる』とからかわれた。もっとも、スミはすぐに勘を取り戻してみせたから、弟は唇を尖らせたものだ。  スミと一緒に幼い弟妹の面倒を見ていた弟は、スミが帝都に女中奉公に出ることを最後まで反対していた。いまだに『いつ戻ってくるんじゃ』と拗ねる。普段はしっかりしているのに、どうにも姉離れできない子だ。  下の弟妹達も、スミが東京に戻る前にわんわんと泣いた。いやじゃあ、姉ちゃん、姉ちゃん、とまとわりつかれるのは、嬉しくもあり寂しくもあった。湯たんぽの温もりは、一番下の、ようやく三歳になった妹の温もりを思い出させた。  感傷に浸る前に湯たんぽを先生に渡し、スミは再び台所に戻った。  そうして、台所の机に置いていた風呂敷包みを開く。今朝、実家を出てくる際に、両親や祖母から渡された土産だ。身体に気を付けてね、東京の先生によろしくね、と見送ってくれた。  風呂敷から蜂蜜の小瓶を取り出し、スミは小さな鍋で湯を沸かす。  鍋の中に濃い褐色の麦芽水飴を入れて溶き、すりおろした生姜を加えてかき混ぜる。本当は生姜のしぼり汁を入れるのだが、祖母から教わったこの方法は手間がかからず、また、生姜を余すことなく使える。それに、先生は生姜の辛いのが得意ではないから、大量のしぼり汁よりも少量のすりおろしの方がよいだろう。  ほのかな甘みに、ピリッとした生姜の風味が効いた飴湯。これを冷やせば夏の定番の冷やし飴になるが、今の先生には熱々の方がいい。片栗粉でとろみをつけ、最後に蜂蜜を加えて甘みを足せば完成だ。  飴湯を大ぶりの湯飲みに入れて、菓子と一緒にお盆に乗せる。  お茶請けは土産の一つ、蕎麦ぼうろだ。スミの地元の名産である蕎麦の粉を使った、花の形をした焼き菓子で、軽い歯ざわりと口の中で溶ける食感が特徴だ。蕎麦の素朴な甘みと味わいは、飴湯に合うことだろう。  さっそく先生がいる書斎に運ぶと、湯たんぽを抱いて上掛けにすっぽりくるまった先生と目が合った。  へらりと気の抜けた笑みを浮かべる先生の顔色は、玄関で見たときよりもずいぶんとよくなっていた。  お盆を差し出すと、ふわりと漂う湯気に先生はぱっと顔を輝かせる。 「わあ、スミちゃんの飴湯だ」 「はい。生姜控えめです。それと、蜂蜜も入れました」  先生はいそいそと手を伸ばして、口を付けた。吹き冷ましながら口を付けて、相貌を綻ばせる。 「はあぁぁ~……生き返る……」 「もう、先生ったら。身体が冷えたならお湯を自分で沸か……すのは危ないので、せめて上掛けくらいは自分で出して下さい」 「うう、面目ない……」  どうにも身体がだるくてねぇ、と先生は眉尻を下げる。 「えっ、先生、もしかして具合悪いんですか? お医者様呼んできましょうか?」 「ううん、大丈夫だよ。スミちゃんの飴湯があるし」  先生は手の中の湯飲みを掲げてみせる。 「知ってるかい、スミちゃん。生姜は身体を温めて、病魔を退ける。邪気を祓う、強い生命力を持つんだよ。僕には医者よりもよっぽど効くものさ」  ふうふうと湯飲みの湯気を吹き払いながら、先生はちびちびと飴湯を飲む。  蕎麦ぼうろに手を伸ばして、「これ美味しいねぇ」と嬉しそうに、旺盛に食べる様からは、たしかに医者を呼ぶ必要は無さそうだ。  ほっと胸を撫で下ろしたスミは、先生の背後の書斎を見る。  相変わらずの散らかりようだが、いつもよりも何となく、暗い感じがあった。  きっと――物が積み上がっているせいで、電灯の明かりが作る影が、大きく、やけに暗く見えるのだ。  これは明日、徹底的に掃除をしなくては、とスミは気合を入れる。  そんなスミの内心の声が聞こえたかのように、ふふっと先生は笑った。 「スミちゃんは飴湯みたいだね」 「え?」 「温かくて甘くて、少しだけ辛い」 「……もっと辛くした方がいいですか?」 「えっ、いや、大丈夫、このままで!」  むしろもっと甘い方が嬉しいんだけど、いや、でも甘すぎてもスミちゃんらしくないというか、やっぱりちょっとは辛くないと――。  しどろもどろに言う先生に、スミはぽかんとして、やがて吹き出す。  先生も頭を掻きつつ、スミを見て微笑む。 「ええと……改めて、おかえりスミちゃん」 「ただいま戻りました。先生」  そしてまた、先生――枯木青葉宅での女中奉公が始まるのである。
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