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其の十三 身代わり饅頭
「スミちゃん、玄関の鍵を閉めておいて。……あ! 誰が来ても絶対に開けないでね。絶対だよ!」
朝から先生はそう言って、書斎に籠ってしまった。
仕方なく、スミは先生の言う通り、玄関の引き戸についた螺子の鍵を閉めておく。その一時間後、引き戸を叩く音に呼ばれて玄関に向かった。
大きな影が、格子の擦り硝子の向こうにある。尋ねなくても誰かはわかるのだが、一応声を掛ける。
「どちら様でしょう」
「俺だ。鍵を開けろ」
「あの、すみません。先生から、絶対に開けるなと言われて」
「そうか。……じゃあ、庭の方に回るぞ」
「はい。居間の方の戸は開けておりますから、縁側からどうぞ」
「おう、さすがスミちゃん。分かってるな」
声の主――先生の幼馴染であり、敏腕編集者でもある鬼頭龍二は低く笑って、さっさと庭の方へと向かった。
「ひどいよスミちゃん!」
縁側から家に上がり、書斎の襖をこじ開けた鬼頭は、あっさりと先生を捕獲した。首根っこを掴まれた先生が、スミを恨めし気に見てくる。
「開けないでって言っておいたのにぃ~」
「あら、玄関の鍵は開けておりません。言いつけは守りました」
スミがさらりと返すと、先生はむうと唇を尖らせる。
「でも縁側の方、全開にしてたじゃない! しかも足拭き用の布巾とか靴ベラとか準備万端で!」
「いやあ、ホントに気が利いてるよなぁ」
ははは、と笑いながら、鬼頭はがしりと先生の肩を押さえて、文机へと向かわせる。
「枯木先生よぉ。そんなに俺を家に入れたくなきゃ、家中の鍵を掛けるこったな。ま、そうなったら鍵ごと戸を壊すぜ」
「うぅ……」
「それは困ります。修繕費だって馬鹿にならないんです。これ以上食費を節約はできません」
「うぐっ……!」
スミの言葉にとどめを刺された先生はもはや半泣きだ。「スミちゃんと鬼頭がいじめる……」といじけ出す。
スミと鬼頭は顔を見合わせて、やれやれと首を振った。
ここまでにしておくか、と鬼頭は先生から手を離し、しかし書斎の戸口前にどっかりと座る。いつもの監視体勢になった鬼頭は、スミに風呂敷包みを差し出した。
「ほい、スミちゃん。お土産のキャラメルと、こっちは饅頭な。出来立てらしいから、まだあったかいぜ」
「わあ、いつもありがとうございます」
和気あいあいとする二人を、先生がじとーっと見てくる。もっとも、慣れたもので鬼頭は先生をじろりと見返しただけだ。
「どうした先生、もうできたのか? だったら早く出せよ、おら」
言い方が完全にヤクザのそれだが、鬼頭は決して借金の取り立てではなく、原稿を回収しに来ただけである。原稿を終わらせていない先生がそもそも悪いのだ。
「……」
先生は渋々といった態で文机に向かって、万年筆を手に取る。
紙にペン先を滑らせる音が聞こえてくる前に、スミは台所に向かいお茶を淹れた。せっかくなので、土産の、まだほんのりの温かい饅頭を皿に幾つか載せて書斎へと戻る。
「どうぞ。おもたせで失礼ですが」
胡坐を搔いた鬼頭の前にお茶と饅頭を出す。
「おう、ありがとな。スミちゃんも一緒にどうだい」
言いながら、鬼頭が饅頭を手に取って半分に割った。ふかっとした白い生地の中には、刻んだ栗と餡を混ぜたものが入っている。栗蒸し饅頭だ。
「わあ、栗ですか。もうそんな時期なんですね」
「ちょっと早いがな。栗大福もそろそろ出てくるだろうよ」
「え、栗!? やったぁ、僕も食べ――」
「お前は原稿終わってからだ」
「はーい……」
しゅんと肩を落とす先生の背中をよそに、鬼頭は「そういや」と口を開く。傍らに正座したスミに、いつもの昔語りをしてくれるようだ。
「饅頭といや、昔、こんなことがあってな――」
***
そいつが教室に入ってきた途端、鬼頭は顔を顰めた。
そいつは呑気そうないつもの笑みを浮かべ……いや、違う。いつもよりも顔色は白く、笑みは若干引き攣っている。
挨拶する級友達は気づいていないようだが、鬼頭は否が応でも気づいてしまった。
「おはよう、鬼頭くん」
へらりと、どこか力ない笑みと共に挨拶をくれるそいつに、鬼頭は思いきり眉を顰めて言う。
「お前、昨日何した?」
鬼頭の言葉に、そいつ――青葉はへにゃりと情けなさそうに眉尻を下げた。
昨日の放課後のことである。青葉が行きつけの甘味屋に、季節限定の栗あんみつを食べた帰りのことであった。
帰路につく青葉に声を掛けてきたのは、級友のひとりだった。彼の後ろには、他の級友や隣の教室の者がいた。
そして、青葉を誘ったのだ。町外れにある古塚に『肝試し』に行こうと。
当然青葉は断ったし、行くのは止めた方がいいと言ったが、級友達は聞かずに半ば無理やり青葉を連れていった。
町外れの古塚。
そこは青葉が寄り付きたくない場所の一つであった。
振り切って帰ろうかと思ったが、級友を放っておくこともできずに、青葉は恐々彼らの後をついて行った。本当に危ない時には止めなければと気を付けながら辿り着いた古塚を遠目に見て、青葉は己の行動を後悔したものだ。
林の中、少し開けた場所に盛り土がある。盛り土の前には古びた小さな鳥居が立てられ、千切れた注連縄が垂れていた。
古塚の周囲には、どろりとした黒い渦が巻いていた。うぞうぞと蠢くその中には、幾つもの人の影が見えた。
しかしもちろん、それは青葉の目にしか映らない。他の者は平然と近づいていく。
『なんだ、ずいぶんと古くさい』
『まったく怖くないではないか』
『おい見ろ、饅頭が供えてあるぞ。まだ新しい』
『こんなぼろぼろの塚におかしなことだ』
強気な言葉を口にする彼らだが、その実、わずかな怯えも声の中にある。
やがて一人が、何を思ったか、供えられた饅頭をいきなり手に取った。
『かるら堂の薯蕷饅頭だぞ。こんな上等なものを勿体ない』
と言って、口を開けて食べる真似をしてみせる。
おそらくは度胸を見せるためだったのだろう。
しかし青葉は青ざめた。古塚の黒い渦に、はっきりとした怒りの意思を感じ取ったからだ。離れた場所にいるのに、背筋がぞっと凍った。
『っ……ね、ねぇっ、そんなことしたら駄目だよ。怒られるよ』
『なんだ青葉、怖いのか?』
饅頭を持った級友が笑う。大きく口を開けて、饅頭を齧ろうとする彼の背後で、黒い影が膨れ上がるのが見え、青葉は咄嗟に動いた。
級友の手の饅頭を勢いよく奪う。だが、勢い余って饅頭が潰れて、地面に落ちてしまった。べちゃりと落ちて、白い生地に泥が付く。
『あ……』
『……な、何だよ、お前。甘いものが好きだからって意地汚いぞ』
はは、と級友は場を取り直すように言った。
『なあ、もう帰ろうぜ』
『あ、ああ、そうだな』
何も無かったな、つまらん、と口々に言いながら去る級友達の声をよそに、青葉は落ちた饅頭を拾って、鳥居の前に供えなおす。
――ごめんなさい、すみません、どうか怒らないで。
ぎゅっと目を瞑って謝った後、青葉は急いで級友の後を追った。
「――で?」
「……昨日の夜から、部屋の窓を外からずっと誰かが叩いていて。僕の部屋、二階なのに。それで、朝起きたら、ベッドの周りに土で汚れた足跡がいっぱいあって」
若干涙目になった青葉に、鬼頭は盛大な溜息を吐いた。そして言った。
「馬鹿か」
「……」
「お前を肝試しに誘った奴らも馬鹿だが、お前も大馬鹿だ。放っておきゃいいんだよ、そんな奴ら」
「でも」
「でもじゃねぇ。自分で自分の身も守れねぇくせに、人を守ろうなんて考えるな」
ぴしゃりと言った鬼頭に、青葉はしゅんと肩を落とす。鬼頭はもう一度溜息を吐くと、ぼそりと告げる。
「……放課後、かるら堂に寄るぞ。饅頭代はお前が出せ」
「! ……う、うん! ありがとう鬼頭くん!」
涙で目を潤ませる青葉の頭を、鬼頭は仏頂面で叩いた。
そして放課後、かるら堂の薯蕷饅頭を買った青葉を連れ、鬼頭は古塚とは別の方向に歩き出した。
「鬼頭くん、どこに行くの?」
「ウチの神社」
「え? 古塚じゃなくて?」
「あいつらの縄張りに入ってどうにかできるほど、俺は強くない」
鬼頭は背後を見やった。
手足の長い、人のような黒い影。
影は陽炎のように、ゆぅらりゆぅらりと揺れながら付いてきている。
一体だけでなく、幾つも。
「っ……」
「ウチの神社だったら、お前に付いてきている奴らくらいなら何とかできる」
「う、うん……」
青葉も背後を気にしながら、鞄と饅頭の入った袋を抱え直した。
やがて着いたのは、荘厳な鎮守の杜に囲まれた神社だ。大きな鳥居も、山の中腹に続く石階段も古めかしいが、きちんと手入れされているのが分かる。
鳥居をくぐった途端、青葉の背中から、ふっと何かが引きはがされたような感覚がした。
境内に付くと、落ち葉を掃いていた袴姿の青年が振り向く。三つ四つばかり年上だろうか。優し気な顔立ちながら、凛とした空気を纏った青年だ。
青年は青葉を見て柔らかく微笑んだ。
「どうも、こんにちは」
「こ、こんにちは。僕、鬼頭くんと同級の青葉といいます! 鬼頭くんのお兄さんですか?」
「……うん、そうだよ」
青年は少し目を瞠った。
「よく兄弟だと分かったね、全然似ていないのに。初めまして、青葉くん。僕は鬼頭春一といいます」
鬼頭もまた驚いていたようで、青葉をしげしげと見やっていた。しかし青葉はきょとんとして、鬼頭と春一を交互に見る。
「え、だって、雰囲気がそっくりです」
「……」
「へえ、龍二の言っていた通り面白い子だね」
ふふ、と春一は笑うと、二人の背後に視線をやった。
「さて……あれは、どちらのお客さんかな?」
「こいつだ」
龍二が青葉を指さす。
「なるほど……うん、そうだ。私が相手をしよう。珍しく龍二にできた友達だから、大事にしないと」
「え?」
「別に友達じゃねぇよ。でもまあ、兄貴の方が強いから任せた方が確実か」
鬼頭はそう言って、青葉の手にあった饅頭の袋を取り、春一に渡した。春一は袋の中を見て頷くと、箒を鬼頭に預けて鳥居へと足を向ける。
鳥居の向こうには黒い影が揺らめいていた。
どうやらあの影は、こちらに――神社の領域には入ってこれないようだ。
「……古くから、この国では丸い物を『タマ』と呼んでいるけれど、これは霊魂、つまり『タマシイ』が丸い様態と考えていたからだと言われている。
そして、丸い形をした饅頭や餅は、古来から神仏への供物として存在している」
春一は言いながら、丸い饅頭を袋の中から取り出した。
「古代の中国でも、こんな話がある。ある軍師が、軍隊を率いて凱旋していた途中、大きな川にさしかかった。川は氾濫して、どうしても渡ることができない。恐ろしい風習が残るその地の言い伝えでは、『四十九人の首を切って、人頭を川の神にお供えすれば鎮まる』という。
これを聞いた軍師は、小麦粉をこねて人の頭を模した物を作らせて川の神に捧げた。すると川の氾濫は見事鎮まった。この小麦粉をこねて作った丸いものを蛮頭と呼ぶようになり、これが饅頭の始まりだそうだよ」
春一はよく通る澄んだ声でさらさらと説明をする。
「饅頭は人の頭。人の魂。饅頭を捧げることは、人の魂を捧げること。神仏の怒りを鎮めるための、人身御供の代わりとなる」
春一は鳥居の前で立ち止まり、黒い影に相対する。
「古塚の者、どうか怒りを鎮め給へ。あの子らの代わりを渡しましょう」
白い饅頭を、春一が鳥居の向こうへと投げる。
一つ、二つ、三つ……。
長い手でそれを受け取った影の輪郭が、一体ずつぼやけていく。
やがて、すべての饅頭を投げ終わった時には、影は一つも残っていなかった。
空になった袋を折り畳んだ春一が、青葉達の元へと戻ってくる。
「青葉くんに憑いた分はこれで大丈夫。安心しなさい」
「ありがとうございます。……あの、古塚の方は……」
「一応、父に話をしてはみるけれど、あそこは私達が管轄するところではないからね。古塚には近づかないようにしなさい。……あの塚の主は、元々一人だけだった。それが、今はあんなに増えてしまったんだ」
「え?」
「あれらは塚に近づき、主の怒りに触れた者の末路だ。十分に気を付けなさい」
「……はい、分かりました」
青葉が素直に頷くと、春一は「いい子だね」と頭を撫でる。
「せっかくだ。青葉くん、家に上がっていきなさい。両親も今、家にいるから、きっと喜ぶ」
「おい、兄貴」
「何せ龍二の友達だ。歓迎するよ」
「だから友達じゃ……」
「へえ? 龍二、ただの級友をわざわざ連れてきて助けてあげるんだね」
「……」
苦虫を嚙み潰したような顔になる鬼頭を放って、春一は青葉の背を押して社務所の方へと向かったのだった――。
***
「――うわあ、懐かしいなぁ。春一さんは元気にしてるの?」
「お前、勝手に割り込んでんじゃねぇ。……兄貴なら別に、いつも通りだよ。ああ、でも、最近は年頃になった姪っ子――娘に邪険にされて、いちいち俺に愚痴ってきやがる」
ふん、と鬼頭は鼻を鳴らして、栗蒸し饅頭をこっそり取ろうとした先生の手を叩く。
「痛い! もう、一つくらいいいじゃないか。饅頭の話聞いたら食べたくなったんだよぅ」
「あの話聞いて饅頭食べたくなるのはお前くらいだ」
人の頭を、魂を模した饅頭。
スミは半分残った饅頭を見下ろして、そんな意味があったのかと、少し恐ろしく思い、手が止まったくらいだ。
それなのに、さすが先生と言うか。甘い物には目が無く、饅頭に手を伸ばす。
あ、とスミは声を上げる。
先生と鬼頭の視線がスミへと向けられた。
「あの……そういえば、古塚はその後どうなったんですか?」
先生と鬼頭は顔を見合わせて、二人そろって首を傾げた。
「さあな。結局、親父も兄貴も手出しはしなかったからな」
「僕も、あれから一切近づいてないよ。怖いもの」
「……」
あの古塚に、まだ饅頭は供えられているのだろうか。
ふざけた誰かが、肝試しに行っているのだろうか。
答えは、ここにいる者は知ることはない。
知るのはきっと、古塚の主だけなのだ。
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