其の十四 薬売りの紙風船

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其の十四 薬売りの紙風船

   ごめん下さい、と声がする。  いつも真っ先に応対に出るスミちゃんが出ない。はて、外出中だったろうか。  ……ああそうだ、確か醤油が切れたから買いに行ってくると言っていた。  空の一升瓶を抱えた彼女を見送ったことを思い出し、青葉は玄関に向かった。 「はいはい、どちら様でしょう」  ひょいと顔を出すと、薄暗い玄関前に、男が一人立っている。  黒い半纏に脚絆。笠を被り、天秤棒の両脇に木の箱を掛けた男の風体は、いかにも行商のものである。もっとも、半纏や木箱には屋号や店の宣伝文句が書かれていない。  果たして何の行商か。風体からすると薬売りに見えるが。  男は笠を脱ぐ。そこには、今はほとんど目にすることのない白い月代と髷があった。  明治の代に断髪令が出され、『ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする』なんて謡われたのは、青葉が生まれるよりもずっと前の話だ。女性の丸髷はまだよく見るが、男性の、いわゆるちょんまげを見ることは滅多にない。  おや、と青葉が目を瞠る中、髷姿の男はにこりと愛想よく微笑む。白粉を塗ったような白い肌に、切れ長の眦には薄く紅が差され、まるで演芸一座の看板役者のようである。 「薬はご入用ですか?」  なるほど見た目通り、男は薬売りであった。  青葉の家にも置き薬はある。痛み止めや、打ち身切り傷に効く軟膏。年に一、二度ほど、薬売りの行商が尋ねてきて、使用した分の代金を払い、補充するようになっていた。  かつて、帝都が江戸と呼ばれていた頃から、薬の行商は行われている。  暑気あたりに効く枇杷葉湯、夏の諸病に効く毒消し薬、疳の虫に効く赤蛙、お灸用のもぐさ……。  置き薬が切れた際、外から響く売り声を聞いて呼び止めるというのは、日常の光景であった。  もっとも、今では薬剤師のいる薬局もあり、買いに求めることもある。そして青葉の家では、薬の管理はもっぱらスミちゃんが行っていた。 「ええと……そういうのは手伝いの者が詳しく、僕は……」 「おや、どうも寝不足のように見受けられる。でしたら、こちらはいかがでしょう」  玄関の三和土に箱を降ろした薬売りは、引き出しを開く。 「こちらは不眠に効くアキノノゲシとクコを使った『天地安眠』。ぐっすりと眠れること間違いなしです。ウチの薬はよく効きますよ。お代はいりませんから、ぜひとも使ってみて下さい。ああ、身体も強張っているようだ。腰痛や神経痛に効くヒガンバナとビワを使った『如意按摩』、血の巡りを良くする『紅ぽっぽ』なんてのもありますが……」  次から次に薬を取り出す薬売りに、青葉は「ちょっと待って下さい」と慌てて止めた。 「今は足りているはずですから、けっこうです」 「そうですか。……でも、せっかくですから、ウチの秘薬を見てはもらえませんか」  少し考えが変わるかもしれませんよ、と薬売りは一番下の引き出しの、さらにその奥にしまってあったらしい薬を取り出す。  三角に折り畳まれた黒い紙の中ほどに、真珠粒ほどの小さな膨らみがあった。 「こちらは『生魂丹』といいます。大きな声では言えませんが、どこぞの売薬の反魂丹なんて目じゃありません。万病どころか、瀕死の病人をあっという間に治したこともある、とっておきの秘薬なんです。何せ――」  にこりと、薬売りは切れ長の目を細める。 「生きた人の魂を丹念に練り込んだ代物ですから」 「……」  青葉はじっと、その薬の包み紙を見つめた。  普通なら、各薬の独特な名前や薬袋の意匠にこだわるものだが、真っ黒な紙には何も書かれていない。 「……どうしてこれを?」 「だって、あなたには分かるでしょう? これが本物だって。あなたなら、この薬の価値がよくお分かりになるはずですから」 「価値……ねぇ」  青葉は詰めていた息を大きく吐き出した。首の後ろをぽりぽりと搔いて、困ったように眉尻を下げた。 「あいにく、僕は自分に与えられた命数を生きるだけで精一杯なもので。寿命より長く生きるほどの余裕はないんです」 「……」 「どうぞ、お引き取りを」  青葉の言葉に、薬売りは一度目を瞬かせ、再び愛想のよい笑みの形に戻る。 「それは失礼をしました。では……」  薬売りは手早く薬を片付けていく。彼の青白い月代を見ながら、青葉は問いかける。 「ちなみに聞いてもいいですか? その薬の材料はどうやって集めているんです?」 「ああ、ご安心を。我々は、決して人を害しているわけではございません」  薬売りの言葉が終わるか終わらないかのうちに、開いた玄関の後ろから、ふわふわと何かが漂ってくる。  白と黒の模様の、紙風船だ。  手元へとゆっくり落ちた紙風船を、薬売りは大事そうに持ち上げた。 「お子さんがいるお宅に、お土産として渡しているものでしてね」  薬売りのお土産。  行商で訪ねた折に、子供には紙風船や面子(メンコ)、大人には色鮮やかな版画などを土産として渡すことで有名だ。特に娯楽の少ない田舎では重宝されると聞く。  紙風船の吹き込み口に指で栓をした薬売りは、何かを呟いた後に小さく折り畳む。薄い紙の中で、何か小さな欠片がしゃりっと音を立てた。 「ほんのちょっとだけ、十日分の寿命を分けてもらうだけですよ」  若く初々しい生命を持つ子らが、遊ぶために紙風船に吹き入れた息。  息は息吹。かつて、神の息吹から風の神が生まれたように、息には命が宿る。  命の一部が吹き込まれた紙風船。 「……」 「そんなに怖い顔をなさらないで下さい。これもお代の一部としてもらっているものですから」  すべてをしまい終え、笠を被った薬売りは一礼する。 「それでは。またこちらに寄ることもあるやもしれません」  青葉が顔を顰めるのと同時に、薬売りは出て行ってしまった。誰もいなくなった玄関の三和土には、真新しい、折り畳まれた紙風船が一つ落ちていた。 「先生、玄関にお塩が撒かれていたんですけれど……」  帰ってきたスミちゃんが、居間に顔を出す。手に抱えた一升瓶には、たっぷりの醤油が入っていた。 「何かありました? あの、もしかして、また妙なものが……」 「ううん。……普通の人だったよ」  言いながら、青葉は火箸で火鉢の中を掻き回す。 「僕やスミちゃんと同じ、ただの人間だ」  箸の先に残っていた紙風船の黒い切れ端が、最後に橙色の光を発して燃え尽き、灰となる。火鉢の灰と共に掻き回す青葉の視線は、外の空へと向いていた。  ぷかり、ぷかりと、青空の下を幾つもの紙風船が飛んでいた。
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