其の十五 影盗み

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其の十五 影盗み

 ごめんください、と玄関から声が響く。 「枯木先生はご在宅でしょうか?」  訪れたのは、美代と名乗る若い女性だった。  朱色のダリアが鮮やかな銘仙に、肩にはレェスの付いたショールを羽織っている。ウェーブのきいた流行りの耳隠しに、紅を引いた小さな唇。唇の横の小さな黒子が色っぽい。  顔かたちがすごく整っていると言うわけではないのだが(先生の顔を見慣れているスミの美醜感覚がおかしいせいもあるが)、どことなく陰のある、しっとりとした美人だった。玄関を上がり、簡易応接間の籐椅子に座るまでの仕草の一つ一つから艶が滲み出る。  魅力的な女性に、しかし先生はいつも通りの様子であった。むしろ今日のお茶菓子の栗大福にばかり視線が向かっている。  頼むから来客の前で大口空けて頬張るような真似はしないでくれと、スミがハラハラ見守る中、女性は赤い唇をそっと開く。 「私、影を盗まれたのです」  女性の宣言に、スミも先生も、思わず畳を見る。  籐椅子に腰かけて、揃えた彼女の足元。白い足袋の先には、室内の明かりに照らされ、ぼんやりと灰色の影があるようだが。 「影を盗まれた……とは、いったいどういう意味でしょう?」  小首を傾げる先生に、美代は微笑む。 「言葉通りの意味ですわ。私、影を盗られてしまったの。その話を聞いてもらいたくて、こちらにお伺いした次第ですわ」 ***  それは昨年の秋。月の明るい、十三夜のことだった。 「上野の町を、歩いておりましたの」  あるお屋敷で働いている美代は、家の使いで行った先で引き止められ、帰りが遅くなってしまった。急いで帰らねばと、夜道を急いでいた。  幸い、今日は明るい十三夜。空は晴れ、月は煌々と冴えわたる。おかげで足元は明るく、地面には己の影がくっきりと浮かび上がっていた。  遠くからは、子供たちが影踏みで遊ぶ声が聞こえてくる。美代も幼い頃には、十三夜に影踏み遊びをしていた。  幼い頃は無邪気に踏んでいた影だが、大人になった今は、こんな月夜に影を踏まれるのは、何か不吉なことのように思える。  それに、言うではないか。  影を踏まれると、悪いことがあると。寿命が縮むと。  幼い頃に読んだ怪談にあったのだ。美代と同じように年若い女性が、十三夜に子供達に己の影を踏まれた。以降、女性は己の影を恐れ、怯えて、やがて悲惨な最期を迎えるのである。 「ああ、たしか……『影を踏まれた女』ですね」 「ええ、そうですわ」  まさしく彼の話のように、子供達の遊ぶ声が響いてくる。  ――影や道陸神(どうろくじん)、十三夜のぼた餅――  わあっ、と声を上げて子供達がこちらに近づいてくるのを、美代は恐れた。  影を隠せる場所は無く、道の前から十人ばかりの子供らが声を揃えてやってくる。そうして、逃げ惑う美代をからかうように歌いはやしながら影を踏み、笑って立ち去った。  呆然としていた美代は、着物の裾が乱れるのも構わず、走って屋敷まで帰った。辿り着いた屋敷では、仲の良い女中仲間のタカが気遣わし気に美代に尋ねてくる。 『美代、いったいどうしたの』 『タカさん、私、踏まれたの』 『ええっ? いったい誰にそんなひどいことを……』 『子供達に。影を踏まれたの』  美代の答えに、タカは『なんだ』と肩を落とした。  そうして気にすることは無いと慰めてくれたのだが、美代はそれ以降、月に照らされて映し出される自分の影を恐れるようになった。  塞ぐ美代を見かねてか、タカはあることを提案した。  曰く、今度の十三夜の晩に一緒に歩こうと。怪談の中では、月に照らし出された娘の影が骸骨となっていたはずだ。だから、試してみようではないかと。  美代は最初こそ断ったものの、屋敷の者にも勧められ、行くことになった。何しろ美代は、夜に外に出たくないと泣いて怯え、屋敷の皆も手を焼いていたからだ。  さて、あくる十三夜の晩。タカと共に上野の町に出かけた美代の耳に、再び子供達の歌う声が響いてきた。  ――影や道陸神、十三夜のぼた餅――  怯える美代の手を、タカが『大丈夫よ』と強く握る。  道の前から、十人ばかりの子供らが声を揃えてやってくる。美代達の後ろに伸びた影に、果たして子供らは――  笑いながら、影を踏んでいった。誰も『お化けだ』なんてことは言わない。 『ほら、美代。大丈夫だったでしょう?』 『ええ……そうね』  美代はほっとして、後ろを振り返る。  そして、目を瞠った。  二つの影が、並んでいるはずだった。なのに、影は一つしかなかった。タカの影の隣にあるはずの美代の影は無かった。  同じく振り返ったタカもまた、驚愕したように目を見開いた。 『これは……』  影を盗まれたのだと、美代はその時思った。そして同時に、盗まれたのなら取り返す、あるいは、他の者の影を盗むしかないと。  美代の足は勝手に動き、タカの影を踏んでいた。  踏むと同時に、影はまるで蜥蜴のようににゅるりと動いて、美代の方へと移った。  美代よりも背の高いタカの影が、しゅるしゅると縮んで美代の形を取った。 『美代……?』 『ごめんなさいね、タカさん』  美代は微笑んで、さっとタカから離れる。  影を無くしたタカは、なぜかその場から動けないようで、何かとてつもなく恐ろしいものを見たかのように青ざめ、怯えた目をしていた。  美代は自分の影をタカに踏まれることの無いよう、月の光を浴びながら、そろそろと歩き出す。地面に着いた自分の足から伸びる影は、次第に足へと馴染んでいった。  そうして屋敷に帰り着いた美代は、タカの影が無くなったことを話した。屋敷の者は疑い半分に美代の後をついてくる。  タカと別れた場所まで戻ると、そこにはタカが倒れていた。  彼女は目を見開いたまま、事切れていた。 *** 「……影を盗まれた話のはずでは?」 「ええ。盗まれたから、私も盗んだ。それだけの話ですわ」  美代は自分の白い足袋の爪先を見やる。 「……先生、私、ずっと自分のことが嫌いだったの。要領が悪くて泣いてばかりで、雑用ばかり押し付けられていて、誰からもミソッカス扱いだったわ。誰からも好かれていたタカさんとは大違い。タカさんは美人で、流行にも詳しくて、お化粧も上手で。頭も良くて、気が利いて、屋敷の旦那様や若旦那からもお気に入りの、そりゃあ素敵な人だったの。口元の黒子が小さな黒子が色っぽいって、下男達がよく言っていたわ」  美代は口元の黒子をそっと撫でる。 「不思議ね。タカさんの影を踏んだ後から、私、とても自信がつきましたのよ。まるでタカさんみたいになれた気がしているの。……今思えば、私、影を盗まれてよかったわ。そうでなければ、タカさんの影を盗むことはできなかったんですもの」  そう言って、美代は赤い唇で笑ったのだった。 「……影を盗んで誰かが亡くなるなんて、そんなことあるのでしょうか?」  美代を見送った後、スミが応接間へと戻ると、先生は栗大福を黒文字で半分に切り分けている最中だった。さすがの先生でも一口で頬張ることはできない大きさであったか。  綺麗に大福を切った先生は、どこか達成感ある様子で、半分を口の中に放り込む。もぐもぐと咀嚼し、冷めた茶で流し込んだ後、先生は口を開いた。 「影は己の身体の一部だという考えもある。『三歩下がって師の影を踏まず』なんて言葉があるね。まあ、これは師に近づきすぎることを防いで、師を敬って常に礼儀を失わないための戒めではあるけれど。相手の影を踏むことは、相手を踏むくらい失礼なことだったのかもしれないね」  黒文字の先で、残った大福の半分を先生はつつく。 「影踏み鬼は、踏まれた人が鬼になる。昔は『鬼』というのは怪物のことじゃなくて、死者の霊や奇怪な現象を及ぼすものを指していたんだ。影を踏まれて鬼になることは死を意味するようで、昔の人は恐れていたのだろうね。……影を盗むということは、相手の命を、いや、相手そのものを盗むことなのかもしれない」  美代はタカの影を盗んだことで、タカのようになれた気がすると言った。  影を盗んだ美代は、タカになったのだろうか。  果たして影の主は、美代なのか。  それともタカなのか。  そもそも、美代の影を盗んだ者は誰なのか……。  考えるスミの目に、先生が黒文字にさした栗大福の半分が映る。  断面から覗く、黒いあんこの中に浮かぶ黄色の栗が、まるで十三夜の月のように見えた。 「とりあえず、十三夜にスミちゃんをお使いになんて出さないから、安心しなさい」  先生は安心させるように言いながら、闇夜と月をまるごと飲み込むように、大福をぱくりと平らげた。 注釈*『影を踏まれた女』著:岡本綺堂 を参考にしております。
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