其の十六 地獄蝶々

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其の十六 地獄蝶々

 それは、夕飯の買い出しの帰りのことであった。  お豆腐屋さんの特製がんもどきを売り切れる前に買えたスミは、ほくほくと土手の道を歩いていた。  今日の夕飯はどうしようか。  がんもどきを甘いお出汁で煮含めようか、いや、それとも表面をカリッと焼いて、あっさりしたお出汁をかけて、すりおろした生姜を添えて食べても美味しいかもしれない。  すると前方に、見覚えのある大きな背中が見えた。白い洋シャツにサスペンダー。背広を肩に引っ掛けた、六尺近い背丈の大男は、後ろ姿でも誰だか分かる。  先生の幼馴染であり、編集者の鬼頭だ。  声を掛けようと近づくと、鬼頭はどうやら誰かと話しているらしい。  見る限り、彼一人しかいないが――。  ぶつぶつと何やら話している鬼頭に、さてどうしようかと立ち止まると、向こうの方が先に気づいてくれた。 「よお、スミちゃん」  振り向いた鬼頭の手には、小さな虫かごがある。竹ひごでできた簡素な籠の中には、一匹の大きな蝶がいた。  流麗な線で描かれた翅に墨を流して染めたような、真っ黒な揚羽蝶であった。  小さな虫かごの中で大人しく動かないそれは、まるで作り物のように美しい。スミの視線に気づき、鬼頭は虫かごを軽く掲げてみせた。 「ついさっき、ガキどもが捕まえてたんでな」  見れば、土手の草叢には、ひらひらと黒い蝶が、すいすいと赤とんぼが飛んでいた。虫取りにはもってこいの場所である。それに、これだけ大きく立派な蝶であれば、捕まえたくもなるだろう。  ……だが、なぜそれを鬼頭が持っているのか。  スミの疑問は顔に出ていたのだろう。鬼頭は、先生の前では見せない、少し柔らかな苦笑を見せる。 「別に俺が欲しかったわけじゃねぇよ。逃がすためだ」  そう言って、鬼頭は虫かごの蓋を開く。  黒い蝶はゆっくりとした動作で籠から出て、大きな翅を広げた。夕焼けの赤い空に、黒い影となってひらひらと飛んでいく。  影を目で追いながら、鬼頭は言う。 「スミちゃん、この時期の蝶やとんぼは捕まえるなよ」 「え? あの、私、もう十七ですよ。虫取りは……」 「……そうか。そうだったな」  鬼頭はくくっと片頬を上げて笑い、ぽんぽんとスミの頭に片手を乗せる。 「子供扱いして悪いな」  そう謝った後、しかし鬼頭は念を押すように言う。 「でも、関わらないようにしてくれよ」  鬼頭は土手の草原を見下ろしながら、言葉を続けた。 「彼岸の頃のとんぼや蝶には死者の霊が宿っているって、聞いたことないか?」 「あ……はい。私が聞いたのは、お盆にご先祖様が赤とんぼに乗って帰ってくると」  お盆の時期によく見かける赤とんぼは、精霊しょうりょうとんぼと呼ばれることもある。自分の家に帰るのだから捕まえちゃ駄目だよ、と祖母が言っていたものだ。 「とんぼもそうだが、蝶もだ。蝶は昔から、死者の霊を運ぶと言われている。縁起が悪いなんて言われることもあってな。……蝶は常世の虫だ。あの世から、死者の魂を宿してやってくる。あの世には天国も地獄もある。すべての魂が、安らかで清らかなわけじゃない」  風がざあっと吹く。  夕暮れの空の上の方は、すでに藍色を滲ませている。天上から帳とばりを降ろすように、夜がやってくるのだ。  草叢にいた蝶やとんぼが、風に運ばれるようにいっせいに飛んでいく。その影は黒く染まり、藍色の空に滲んで消えていくようでもあった。  思わず無言でスミが彼らの行方を追う中、鬼頭は淡々と言う。 「だから、あいつらの邪魔をするなよ。恨まれることだってあるからな。触らぬ神に祟りなし、だ」 「……」  その声はいつになく真剣だった。  ひゅうっと、再び強い風が吹く。初秋の冷たさを乗せたそれに身を竦めると、鬼頭がスミに背広を羽織らせた。 「冷えてきたな。そろそろ帰るか」 「鬼頭さん、上着が……」 「ああ、家まで送るから着とけ。原稿取りに行くついでだ」  歩き出す鬼頭に、スミは早足で追いついて横に並ぶ。  街灯も無い土手の道では、鬼頭の表情は見えづらい。影になった横顔を見上げながら、スミは尋ねる。 「あの……さっきの蝶と何を話していたんですか?」 「なぁに。ただ、愚痴を聞いてやっただけさ」  ふっと息を吐くように鬼頭は笑った。誰もいないと思っていたから話していたのを、スミに見られたのは少々照れ臭いようだった。  スミもつられて少し笑いながら、飛んでいった黒い揚羽蝶を思い出す。 「それにしても、綺麗な蝶でしたね」 「……綺麗、ねぇ」  鬼頭は軽く肩を竦めただけで、それ以上何も言わなかった。  いったい、鬼頭の目にはあの蝶がどう映っていたのか。  スミは空に蝶の姿を探してみたが、夕闇に包まれた土手にその姿を見つけることはとうとうできなかった。
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