其の二 十五夜に孕む

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其の二 十五夜に孕む

 訪れたのは、妙齢の女性だった。  先生と同じか、少し年上くらいだろうか。日本髪を結い、亜麻色の地に朱色の花が描かれた綺麗な着物を着ている。黒い帯は高い位置で結ばれて、短いおはしょりの下は、ふっくらと大きく膨れていた。  身重のようだ。黒い羽織を羽織った彼女は、重そうなお腹を大事そうに片手で押さえている。  玄関の上がり(かまち)の段差が大変だろうと、スミが手を差し出すと、女性は礼を言って手を取った。 「ありがとう、お嬢さん」  にこりと笑う。泣きぼくろが色っぽい美人さんだ。  こちらです、とスミは居間――に作った簡易応接間に案内した。 「少々お待ちください。先生、すぐに見えますので」  スミはそう言い残して、台所にお茶を用意しに向かった。途中、先生の寝室を覗いたが、まだ着替えが済んでいないようだ。 「先生、お客さん来られてますよ」 「う~ん……」  先生は眠そうに生返事しながら、帯をもたもたと結ぶ。見ていられなくて、スミは「失礼します」と部屋に入って、先生の帯を手早くぎゅっと締めた。 「ほら、しゃんとして下さい。そんな寝ぼけ顔でお客さんに会うつもりですか?」 「んー……だってねえ、朝まで原稿してたんだよぉ……」 「先生が締め切りを守らないのが悪いんです」  着物の(えり)を整えながらきっぱりと返して、先生を鏡台の前に座らせた。  ぼさぼさの長い髪を櫛で梳く。細い猫っ毛は相変わらず手触り抜群だ。柔らかい髪を後ろで一つにまとめる。 「はい、できました。……ああほら、言った側から寝ないで下さい」 「起きてるよぅ……」  頭をぐらぐらさせながら答える先生の背を押して、寝室から追い出した。  ふらふらと居間に向かう先生を見送って、スミは急いで台所に向かった。  薄めのお茶と和三盆の干菓子、先生用には豆大福二個を用意して応接間に入ると、先生はしゃんとしていた。さっきの寝ぼけ顔が嘘のようだ。  美人の前だと格好つけるんだから、とスミは呆れつつ、テーブルにお茶を並べる。  女性は少し頬を赤らめて先生に見惚れている。これは仕方ない。先生はちょっとそこらにいないくらい綺麗なお人なのだ。しゃんとしていれば。  残念ながら、先生のしゃんとしていないところばかり見ているスミは、あまり見惚れることは無い。  スミの登場に我に返ったのか、女性は出されたお茶を一口飲んで息を吐いた。先生は大福を見てぱっと顔を輝かせ、一個を大きな一口で食べてしまう。そういうところは見せては駄目だと思う。  幸い女性は気づいておらず、先生は口元に着いた粉をぱぱっと払った。 「さて……お話をお聞かせ願えますか?」 「ええ……」  女性は膨らんだお腹を愛おし気に撫でながら語り始めた。 ***  ――名を名乗ることは叶いませんから、私わたくしのことは……そうですわね、『(かつら)』とでも呼んで下さい。  女性――桂はそう前置きした。 「枯木先生は、十五夜に盗み食いをしたことがあります?」  十五夜――陰暦八月十五日は月が満ちる夜。  この日は月見団子を用意して、ススキの穂や秋の草花を飾って月をまつる。また、地域によっては、きぬかつぎ――茹でて皮を剥いた里芋をお供えすることから、十五夜を「芋名月」と呼ぶところもある。  そんな十五夜のお供え物の団子や里芋を、『既婚女性が盗み食いすると子を授かる』という言い伝えがある。  十五夜の満月が、妊娠中の丸い腹を連想させるからだ。細い月が満ちて丸い満月になるように、人々は女性の腹が子を孕んで丸くなることを願った。  そこから、満月をまつる十五夜の夜に、お供え物を食べることは縁起の良いこととして推奨された。『子供に盗み食いされるほどよい』、『家族でお供えを食べると幸福になる』なんて言い伝えもあるくらいだ。  これらは、神に供えたものを下げて食べることで、神との結びつきを強めようという「共食」の発想から来るものだ。盗み食いをすれば、神に供えた食べ物の力を体内に取り込むことができる――  十五夜の団子や里芋は、神の力が宿った食べ物。 「私、どうしても子を欲しかったんですの」  桂は言う。 「だから、はしたないとは思いましたけれど……十五夜の晩、あるお宅の団子を盗んで食べたのですわ。そうしたら、ほら――」  桂は張り出たお腹を見せた。 「こうして子を授かりましたのよ」 「それはめでたいことです」  先生がそつなく返すと、桂は嬉しそうに微笑む。しかし、すぐに瞳に愁いの色を浮かべた。 「なのに、夫も、皆も、信じてくれませんの。ただの妄想だと言って……」 「おや」 「でも、先生なら信じて下さると思って、私、ここに参りましたの。十五夜に盗み食いすると、どんな女性でも子を孕むことができるのですわ」 「ほお、それはそれは……」 「あとふた月も経てば、私の子が産まれます。……ああ、早くあの人にお見せしたいわ……」  桂は恍惚と目を細め、まだ見ぬ我が子を思う桂の話は、そこまでだった。 「生まれたら、きっと先生にもお見せしますわ」  どこかすっきりとした、愁いの無くなった顔で応接間を出て行く。スミは玄関まで彼女を見送って、応接間に戻った。  二個目の大福をちょうど口に放り込んだ先生は、咀嚼してごくりと飲み込む。冷めた茶を飲みほして、ぷはぁと息を吐いた。 「いやぁ、やっと目が覚めた」 「やけに口数が少ないと思ったら……まさか寝ていたのですか?」 「やだなぁスミちゃん、起きてたよ。少し眠たかっただけさ」  先生はさらっと返した。 「それにしても、なかなか面白い話だったねえ」 「そうですか?」  桂はああ言ってはいたが、『十五夜に団子を盗み食いすると子を授かる』というのはただの迷信だ。子を授かったのはよいことだが、たまたま時機が重なっただけではないだろうか。  特別、不思議でも奇妙な話でもないと思うが――。  スミが首を傾げていると、玄関の方から「ごめん下さい」と声がする。 「はぁい」  スミはぱたぱたと玄関へ向かった。  玄関に佇むのは、一人の男性だ。三十代半ばくらいか。立派な着物を着ている。どこかの大店の若旦那みたいな雰囲気の人だ。 「いらっしゃいませ。どちら様でしょうか?」 「……先ほど、妻がこちらに見えたかと思うのですが」 「妻……?」  ひょっとして先ほどの女性、桂のことだろうか。  スミが答える前に、後ろからひょいっと先生が顔を出した。 「桂さんのことでしょうか?」 「桂? ……ああ、妻はそう名乗ったのですか」  男は苦い笑みを見せる。 「ええ……『桂』は、私の妻です」  桂の夫という男を、先生は家に上げた。  桂が座っていた籐椅子に、夫もまた座って話し出す。 「……最初にはっきり申し上げておきます。妻は妊娠しておりません」 「え?」  スミは思わず声を上げて、桂の夫を見やる。 「本当です。その……妻は、子の産めぬ身体でして……」  夫の話では、以前、桂は病に罹り、子供ができなくなったのだという。 「……昨年から、妻は様子がおかしかったのです」  桂の夫は、スミが思った通り、老舗の跡取り息子であった。桂と結婚したのは五年も前で、次の跡継ぎをと望まれていた折に、桂の不妊が発覚した。  事情を知った大旦那や女将は、離縁して新しい嫁をと進言したが、桂を愛していた夫は断った。そして代わりに、別の女性に密やかに跡継ぎを産ませることになったという。  妾の女性と夫の間には、すぐに子供ができた。ふた月後には産まれる予定だそうだ。 「……実は、その妾の家に、妻が一度訪ねてきたそうで」  ちょうど、十五夜の晩であった。  郊外に一軒家を借りて、ひっそりと暮らしていた妾の元に、いきなり桂が現れた。  本妻の登場に驚く妾をよそに、桂はにこにこと笑顔で家に上がり込んだ。そして縁側に置かれていた供え物の団子を見つけると、目を爛々と輝かせた。  言葉通りに飛びつくと、桂は手づかみで団子を貪むさぼった。 『ああ、これで私も子を孕めるわ』 『私が産むの。私の子よ。私とあの人の子よ』  輝く満月を見上げ、桂は口に押し込んだ団子の欠片をぼろぼろと零しながら、ぶつぶつと言っていた。  常軌を逸した彼女の行動に、妾は腰を抜かしたものだ。  それからである。  桂の腹は、少しずつ膨れていった。まるで腹に赤子ができているかのように。  困惑したのは大旦那や女将だけでない。夫が一番驚いた。 『これは一体、どういうことだ?』  桂に問い質しても、『どうして喜んで下さらないの?』『ようやくあなたの子が生まれるのよ』と悲し気に泣くばかりだ。  妾の腹が膨れるごとに、桂の腹も膨れていく。  月が満ちるように、桂の腹は大きくなる。  幾度も医者に見せたが、原因は分からない。そこに本当に赤子がいるのかすらも。  彼女の腹に宿っているものは、一体何なのか―― 「十五夜の満月のおかげだと妻は言っておりますが……」  桂は子ができたことを自慢したいようで、会う人会う人に『十五夜の団子を盗み食いして孕んだ』と迷信を話した。 「……妻は、子ができないことをずっと悩んでいたのです。妾のことを説明した時も、ひどく取り乱しておりました。これ以上、妻を否定して傷付けるのも忍びなく……」  夫は妻の言動に戸惑いながらも、受け入れるしかなかった。  両手で顔を覆って項垂れる男の肩を、先生は宥めるように軽く叩くしかなかった。  桂の夫が去った後、先生は椅子の背にもたれて天井を見上げる。 「どんな女性でも孕むことができると言っていたけれど……こういう意味だったんだねぇ」 「あの……桂さんは本当に妊娠しているのではないですか? お医者様の見立てが違っただけとか」 「そうだといいねぇ……」  言いつつも、先生は天井の向こう、まるで遠い空を見ているような目をする。 「……知っているかい、スミちゃん。月には兎うさぎが棲んでいるんだよ」 「兎ですか?」  たしかに、月で兎が餅を搗いているだとか、薬を作っているだとか、そういう昔話は聞いたことがある。兎は月の象徴であり、月の異名の一つに『玉兎』とあるくらいだ。  でも、なぜ急に兎が出てくるのか。  きょとんとするスミに、先生は言葉を続ける。 「中国の博物誌だったかな、こんな言葉があるんだ。『兎、月を望んで孕み、口中より子を吐く』……兎は繁殖能力が高く、子孫繁栄のシンボルでもあるからね」  月を見上げるだけで、子を孕むことができる兎。  団子を貪りながら、月を見上げていた桂。  ……そういえば、『桂』というのも『月』の異名だ。月に桂の木が生えているという伝説から来ている。  先生は目を閉じて、小さく呟く。 「桂さんは一体、どんな子を産むのだろうねぇ……」  先生の目に、桂はどう映っていたのだろう。  腹の子は、どう見えていたのだろう。  尋ねることができぬまま、スミもまた、見えない空を、月を見上げた。  その後、桂やその夫が先生の前に姿を現すことは無く、話の真偽はついぞ知れることは無かった。
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