其の四 彼の国

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其の四 彼の国

 ごめん下さい、と声がする。  いつも真っ先に応対に出るスミちゃんが出ない。はて、外出中だったろうか。  首を傾げながら、青葉は玄関に向かった。 「はいはい、どちら様でしょうー」  ひょいと顔を出すと、薄暗い玄関に立っていた男はしばし呆けて、やがてほっとしたような笑みを見せた。 「あの、こちらは枯木先生のお宅でしょうか?」 「いかにも、僕が枯木青葉です」 「突然お邪魔して申し訳ございません。……あの、こちらで奇妙な話を集めていると新聞で拝見しまして……」 「ええ、ええ、その通りです」  今日は来客の予定は無かったが、話のネタを拒む理由は無い。ちょうど原稿も行き詰って……というより、一行も進んでいなかったところだ。  青葉はこれ幸いと男を家に上げて、居間に案内する。  今日は応接間を作っていないので、適当に籐椅子を引っ張ってきて、男と向かい合わせに座る。 「すみませんねぇ、手伝いの者が出払っておりまして。お茶もお出しできず」  何しろ青葉が茶を淹れようとすると、缶の茶葉が宙を舞って床に散らばり、鉄瓶に沸いた湯の半量は消え失せ、湯飲みや急須は割れ……と不吉な事ばかり起きるものだから、スミちゃんから出入り禁止を言い渡されている。  ああでも、カルピスくらいなら大丈夫だろうか。爽やかで甘酸っぱくて、「初恋の味」なんて広告が出されて、巷で人気の飲み物だ。  たしかあれは、水で薄めるだけでよいから、青葉でも用意できる。  もっとも、酸っぱいのが苦手な青葉は、牛乳で割るのが密かにお気に入りだ。スミちゃんからは「勿体ないことを」なんて言われるけれど、甘くて濃い、特別な飲み物になるのだ。  想像した青葉がそわそわとしていると、男は「どうぞお構いなく」と首を横に振る。 「今は喉も乾いておりませんし、腹も空いてはおらぬのです。それよりも、どうか話を聞いてはもらえませんか」  男は青葉の返事を待たずに、身に起こった不思議を語り始めた。 ***  男の名は、富田(とんだ)という。  行商人として、各地を旅しているそうで、つい先日も西の方に言っていたそうだ。  あくる日、富田は道に迷い、従者と共にどことも知れない町に辿り着いた。  横浜や神戸のように、西洋風の建物がずらりと並ぶ通りや、日本家屋が並ぶ一角もある、どこか異国情緒ある街並みであった。住人達も和服洋服と入り乱れ、賑やかに往来を行く、ごく普通の町である。  しかし一つだけ、奇妙なことがあった。  富田と従者が町に入り、行きかう人に会釈したり声を掛けたりしても、誰も返してくれないのだ。皆、知らない顔をして通り過ぎてしまう。まるでこちらが見えていないかのように。  最初は何かのいたずらかと思ったが、どうやら本気で相手はこちらに気づいていないようだ。こちらから向こうは見えるのに、向こうからはこちらが見えていない。  富田と従者は戸惑いながらも、町の中を進んだ。二人とも疲れており、何か腹に入れたいと思っているのに、これでは飲み食いもできない。  やがて、大きな洋館の前に来た時、にわかに騒ぎが起こった。 「旦那様が倒れた!」  様子を見ていると、この街を統べる者が急に病に罹ったようで、家族や使用人達が慌ただしく行き交っている。  やがて一人の老婆が現れて、厳かに告げた。 「どうやら町に○○の者が入り、○○の気を浴びて発病されたのでございましょう」  老婆の言う○○とやらは、富田には聞き覚えの無い、発音するのも難しいような言葉だった。 「しかしその者達も、偶然ここに入ったもよう。追い出したりはせずに、丁重にもてなして、あちらに還してやればよろしいでしょう」  老婆の言葉に従い、屋敷の者達は豪華な食事を一室に用意した。それだけではなく、綺麗な絹織物や装飾品も積まれる。  富田と従者は、見えないことを幸いに食事をたらふく食べ、豪華な土産を持ち帰ることにした。  そうして町に入って出る時まで、二人の姿は向こうの人には見えなかったのだった。 ***  聞き終えた青葉は「ふぅむ」と顎を撫でる。 「なるほど……たしか中国に似たような話がありましたねぇ。あれはたしか、どこかの島に辿り着いて、そこが『()の国』ではないか、といった話でしたが……まあ、無事に帰ってこられて何よりです」 「ええ……」  しかし富田の顔色は冴えない。 「あの後、無事に知っている道に出て、家に帰りつくことはできました。ですが……」  富田が自分の両手を見下ろす。 「……私の姿が見えないのです」 「どういうことでしょうか?」 「家族に、近所の者に話しかけても、誰も応えてくれず……ま、まるで、あの町と同じように、誰も私に気づいてくれないんです!」  富田は叫ぶ。  共に行った従者もまた、皆に姿が見えなくなっていた。誰に話しかけてもそ知らぬふりをされた彼は気を病み、ある日とうとう、狂ったように大声で笑いながら、道の向こうへと消えてしまったという。  富田もまた狂いたかった。そんな折、捨てられていた新聞の広告を見つけて、青葉の元へ来たのだという。 「先生には、私が見えるのですよね? 私は……私は、ここにおりますよね!?」  大きな声を上げ、富田が身を乗り出す。 「どうか先生、私はここにいると、そう仰ってください!」 「……」  青葉はしばらく富田を見つめて、静かに口を開いた。 「富田さんは、“ヨモツヘグイ”という言葉をご存じですが? 黄泉戸喫(よもつへぐい)……黄泉の国の食べ物を食べることです。そして、彼あの世の物を食べると、此この世に戻れなくなる」 「なっ……」 「先ほど、中国の話を少し話しましたね。『鬼の国』……中国で『鬼』というのは、『幽霊』のことを指します。すなわり、鬼の国は霊の国……死者の国、彼岸の向こうです。もしかすると、富田さんが口にしたのは、彼の世の食べ物ではなかったのでしょうか」 「で、でも、先生には私のことが見えて、話もできるじゃありませんか!」 「それは、僕には霊やらいろいろと……此方(こちら)の者ではない、彼方(あちら)の者を見ることができるからです」  きっぱりと言う青葉に、富田はさあっと表情を失くした。 「あなたはここにいます。ですが、此方にはいないのではないかと」 「そ、そんな……だったら、私は……」  富田はふらふらと立ち上がった。  少し気の毒になり、青葉は声を掛ける。 「まあ、僕の目だけじゃあ頼りになりません。見えない子に、見てもらった方が確実かもしれない。スミちゃん……お手伝いの子が帰ってくるのを待って……」  言いかけたところで、庭に面した縁側の方で声がした。 「――あれ? 先生、そちらにいらっしゃいますか?」  障子に小柄な影が映る。  おかっぱ頭の少女の姿。  障子に手が掛かり、開かれようとした時、富田は大声を上げて部屋を飛び出していった。  代わりに、障子の隙間から顔を出したのはスミちゃんだ。くりっとした目を瞬かせて、青葉と、向かいに置かれた籐椅子とを見やる。 「え……もしかしてお客様がいらしてたんですか!? いやだ、全然気づかなかった……!」  庭で洗濯物を取り込んでいたようで、抱えていた大量の洗濯物を縁側に置く。慌てて上がってくるスミちゃんに、青葉はへらりと笑った。 「もう帰られたから、大丈夫だよぅ」 「大丈夫じゃありません! 先生、粗相はなさいませんでしたか? まさかお茶を出したりしませんでしたよね?」 「スミちゃんひどい……」  いじける青葉に、スミちゃんは「もっと早く呼んで下さいよ」とぷんぷん怒る。 「……呼ばない方が、よかったんだよ」  青葉は誰にも聞こえぬように小さく呟いた。  彼女が来れば、きっと富田は真実を知ることになっていた。  青葉の仮説を裏付けることになっていたかもしれないし……あるいは、そうでなかったかもしれない。  どちらにしろ、富田はすでにここにはいない。  あちらに行ったのか、こちらに戻っているのか。それは青葉にはわからない。  生者も死者も同じように見えてしまうこの目では、真実は見えないのだ。  青葉は誰もいなくなった籐椅子を横目で見やった後、スミちゃんに言う。 「ねえ、スミちゃん、おやつにしようよ。戸棚に歌舞伎揚げ入っているから、カルピスと一緒にさぁ――」
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