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其の五 井戸のお告げ
訪れたのは、年配の男性だった。
白髪交じりの灰色の髪を綺麗に撫でつけ、高級そうな渋い絣縞の着物に羽織を着ている。常に湛える穏やかな笑みと丁寧な物腰で、どこかの大店のご隠居のように見えた。
しかしスミの予想に反し、彼はかつて銀行の頭取を務めていたそうだ。
応接間に案内すると、先生が「おや、△▽銀行の」と驚いた顔をしていた。
「久しぶりですな、青葉の坊ちゃん」
「坊ちゃんはよして下さいよ、もう僕もいい年なんですから」
苦笑する先生が、銀行の頭取と知り合いだったとは。
しかも『坊ちゃん』。
そういえば、先生の実家は大きいぞと鬼頭から話は聞いたことはあるものの、スミ自身は、あまり先生の素性を知らない。先生が自分から話さないので、特に尋ねもしない。
それにしても三十路前後の先生が、『坊ちゃん』。
言われてみれば、おっとりとした気性はたしかにお坊ちゃんっぽい。それに、身の回りのことがあまりできないお人である。
お坊ちゃんなのねぇ、とスミがしみじみ眺めていると、先生は視線に気づいたのか、咳払いして場をごまかした。
「さて……それでは、お話をお聞かせ願えますか?」
「ええ、ぜひとも。この話を、誰かに話したくて来たのですから」
男性はにこりと微笑んで、静かに語り始めた。
***
男の名は、松堂といった。
松堂家は江戸の頃から両替商を営んでおり、明治に入り、先代――松堂の父が新しく銀行を立ち上げた。
松堂は父が一代で作り上げた銀行を受け継ぎ、頭取として勤めた。
戦争や恐慌、移り変わる時代の中。銀行は幾度も危機に陥ったが、松堂の英断により乗り越えることができた。
間違いのない決断をする松堂は、優れた経営者として周囲から『神の目』だの『時代を読む男』だのと称えられていた。
しかし、そんな松堂には秘密があった。
松堂が決断に迷ったとき、必ず訪れる場所がある。
それは、家の裏にある小さな古井戸だ。
昔から松堂家にあるそれは石積みの古い井戸で、水はとっくに枯れている。井戸屋形も取り壊されて、今は人が落ちないように格子の蓋がかぶせてあるだけだ。
使わぬ井戸は危険なだけ、潰してしまえばいいと家の者は言うが、松堂家のしきたりで、井戸はそのままにしてあった。
周囲は雑草が伸び、人がほとんど寄り付かないそこに、月のない深夜、松堂は訪れる。
そして、井戸の中に向かって声を掛ける。
「おぅい」
すると、井戸の中からも声が返ってくる。
「おぅい」
それが合図となって、松堂は井戸の中に問いかける。
「どこそこの融資を行うべきか否か」
「顧客を増やすためのこの方法は正しいどうか」
すると、井戸の中から答えを返してくれるのだ。
まるで未来を見てきたかのように、井戸の答えに間違いはない。松堂は井戸のお告げ通りに、銀行の経営を行い、成功してきたのだ。
しかし、井戸のお告げを受ける際には約束事があった。
一つは、月の無い夜にすること。
もう一つは、決して井戸の中を見ないことだ。
――井戸の底で、お告げをするものの姿を見てはならない。
それが、父が亡くなる前に松堂に告げたことだ。
そう、父もまた、井戸のお告げを聞いて事業を成功させていた。
父だけでない。祖父も、曾祖父も、その前の先祖――ずっと昔から、松堂家はこの井戸のお告げを利用していた。
松堂もまた、約束事を守って、井戸のお告げの通りに銀行を盛り立てていった。
ある日のことである。
危急で決めなければならないことがあり、松堂はその夜、古井戸へ向かった。
月のある夜だったが、今日は空に雲がかかっている。これならば大丈夫だろうと、松堂は井戸の前に立った。
燭台の灯を消し、井戸の淵に置こうとした時だ。
強く吹いた風に、燭台が揺れた。格子の間を抜けて井戸の中に落ちる燭台に、松堂は咄嗟に手を伸ばした。
何とか燭台を受け止めてほっとしたのも束の間、さあっと周囲が明るくなる。
強い風で雲が流れて、黒い空にぽっかりと望月が浮かんでいた。
明るい月光が、真上から井戸に差し込み、中を照らす。思わずやった視線の先、格子の向こうに、井戸の底が見えた。
そこに、一人の男がうずくまっている。
差した月光に気づき、男が顔を上げた。
その顔を見て、松堂は驚いた。
井戸の底にいたのは、自分によく似た顔立ちの老人だった。まるで、数年前に亡くなった父を思わせる。
しかし、男は父ではない。似ているが、違う。
そう、あれは――己だ。
松堂は直感で分かった。
自分が、井戸の底にいる。
自分と、見つめ合っている。
松堂はしばし言葉を失った。やがて再び雲が月を覆い、井戸の底も闇に呑まれる。
我に返った松堂は急いで井戸から身を離し、母屋に戻った。
見てはならないものを見てしまったと、自覚はあった。同時に、何故見てはならないのかも理解した。
***
「……その時、わかったんですよ」
松堂は静かに語る。
「井戸の底にいたのは、私なのだと。……この歳になって、鏡を見るたびに確信します。私はいずれ近いうちに、あの中に入るのでしょう」
スミは松堂の言う意味がよくわからずに首を傾げるばかりだが、先生は少し思案した後に口を開く。
「井戸の中にいたのは、未来のあなた……あるいは、死後のあなただったということでしょうか?」
「ええ。だからこそ、私の問いに間違うことなく答えられた。……考えれば当たり前のことです。私が経験したことを、過去の私にそのまま伝えただけなのですから」
井戸の底には、すべてを答えてくれる神様がいるわけではない。
あの井戸は死後の世界に繋がっているのか。あるいは、時空が歪んでいるのか。
未来の己が、井戸の底で待っている。そして、過去の己の問いに聞かれるがまま答えるのだ。
己の歩んだ道を。選択を。間違いのなかった人生を――
松堂はすべてを悟っているかのように、穏やかに微笑んだ。
「私はすでに井戸を使ってしまった。井戸を使った者の代償として、あそこに囚われるのですよ。ですが……」
松堂は先生に告げた。
「坊ちゃん……私は、息子に井戸のお告げのことを教えていません。井戸を使う代償を担うのは、私の代まででいい。……今は、お告げに頼る時代ではないでしょう。息子には、己で切り拓いていってほしい。井戸に囚われることは無い。だから、私が死んだ後であの井戸を潰すよう、遺言を残しています」
そう松堂はしめくくり、席を立った。
しかし、先生は立ち去ろうとする彼に問いかける。
「松堂さん。なぜ、僕にこの話をしたのですか?」
「……井戸が無くなる前に、誰かに伝えておきたかったのですよ」
松堂は変わらぬ微笑みを顔に乗せている。
しかし先生は表情を渋くしただけだ。
「あなたの責を僕に預けないで頂きたい」
「おや、何のことやら……」
松堂はわずかに目を細めて――その中に冷たい光を見せて――、一礼して出て行った。
二人の奇妙なやり取りを見ることしかできなかったスミは、急いで玄関に向かって松堂を見送った後、応接間に戻る。
「もう、先生、どうしたんです? そんなに不貞腐れた顔をして」
「……だってねぇ」
むすぅ、と頬を膨らませた後、先生は息を吐き出した。
「あの人、僕に井戸のこと丸投げするんだもの」
「? どういうことでしょうか?」
先ほどから置いてけぼりだったスミに、先生は説明する。
「松堂さん、息子さんには井戸のこと教えていないって言ったけど、きっともう知られているよ。使わない井戸を潰さずに大切に残して、しかも父親は夜中にこそこそと井戸を訪れる……。井戸に何かあるって、誰だってわかるさ。別にわざわざ教えなくてもね」
先生は肩を竦めた。
「遺言で井戸を潰せと書いたところで、息子さんが守るかどうか……しかも、松堂さん、ここに来ることを家の人に伝えているだろうから、そのうち息子さんもここに来るんじゃないかな? 父親が何を話したのか、気になってね。……さて、僕はこの話を息子さんにするべきかどうか――」
どうしようか、スミちゃん。
困ったように先生は尋ねてくる。答えを持たないスミは、ただ首を傾げることしかできなかった。
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