其の六 汚れた雛人形

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其の六 汚れた雛人形

 訪れたのは、若い女性だった。  顎下で切りそろえた断髪(ボブ)に、綺麗な黄色の縦縞のワンピースを着た、いわゆるモダンガールだ。おしろいを塗ったような白い肌に、細く整えられた眉と、赤い唇。漂ってくる香りは甘く、きっと何かの花の香りなのだろうけれどスミには分からない。  籐椅子に腰かけた彼女は、膝丈のスカートから伸びる、すらりとした脚を組む。斜めに座る姿は様になっており、まるでポスターの中のモデルのように色っぽかった。  ところが、そんな美女が目の前にいるというのに、先生はまったく感銘を受けた様子がない。  締切り間近の徹夜のせいだろう、あれは半分眠っている顔だ。スミは最近、先生の笑顔の度合いで覚醒しているか否か、分かるようになってきた。  ここはとびっきり濃くて渋い緑茶を出そう。お供は午前中に買ってきたどら焼きだ。ふっくらとした黄色のカステラのような二枚の生地の間に、柔らかな餡子が挟まっている。三笠焼きとも呼ばれていて、先生の最近のお気に入りだ。  だが、先にどら焼きを出してしまえば、先生はそちらに夢中になってしまう。今はちゃんとお客様の相手をしてもらわねば。  時機を見計らうスミに気づいているのかいないのか、先生が口を開く。 「さて、お話をお聞かせ願えますか?」 「ええ……」  先生の淡白な態度に、女性は少し拍子抜けしたように目を瞬かせる。軽く咳払いした女性は、しずしずと話し始めた。 「私、雛人形が嫌いですの――」 ***  女性は美也子と名乗った。  美也子は、裕福な中流家庭に産まれた。母方の実家は土地持ちの資産家であり、母方の祖父母に美也子はたいそう可愛がられていた。  美也子が五歳の時のことだ。祖父母は、家に代々伝わっているという古い雛飾りをくれた。母方の親戚の方で、当時、女児は美也子だけだったのだ。  古くはあったが、七段の大きな雛飾りはとても豪華だった。  赤い毛氈が敷かれた段の、一番上にはお内裏様とお雛様。二段目に三人官女、三段目に五人囃子、四段目には随身の右大臣と左大臣、五段目には三人の仕丁。そして六、七段目には雛道具――おもちゃのような小さい箪笥や針箱、鏡台、重箱に御所車……。  座敷の一部屋を使って飾り立てられた雛飾りに、美也子は喜んだ。  綺麗な着物を着た、たくさんのお人形。おままごとに使うような、小さくて可愛らしい雛道具。錦糸卵や海老がのったちらし寿司に、甘い白酒などのご馳走も並ぶ。  三月三日の節句には、近所の子供たちを招いて、「すごい」「きれい」と褒め称えられるのも都は喜ばしかった。  なのに、そんな楽しい時間に水を差される出来事があった。  原因を作ったのは、遊びに来ていた少女の一人だ。  その子の家は貧しく、いつも同じ服を着ていて、髪は乾いて艶も無い。空きっ歯で鼻を垂らし、どこか汚い印象があって、美也子はその少女が嫌いだった。  近所だからと母親が招いたのだが、美也子はその子を無視した。他の子供たちも、美也子に倣って彼女に近寄らなかった。  無視しようと、目を離していたのがいけなかったのか。  がたがたっ、と室内に大きな物音が響いた。音の方を見やると、雛飾りの一部分が崩れて、雛道具や人形が床に散らばっている。  側にいるのは、あの少女だった。  手に握っているのは、仕丁の人形だ。泣き顔の仕丁を持つ少女の顔もまた、真っ青になって今にも泣きそうだったが、美也子はかっと頭に血が上った。  自分の雛人形に、綺麗に飾られたそれに、少女が触ったことが許せなかった。 『何してるのよ!』 『ご、ごめんなさ……』  謝る少女の手から、美也子は人形を取り上げた。 『汚い手で触らないでよ! この泥棒!!』  怒鳴る美也子に、少女は泣き出した。  少女は、初めて見る綺麗な人形をもっと近くで見たかったらしく、手を伸ばして取ろうとしたようだ。盗む気はまったく無かった。  さすがに見かねて、母親が美也子を叱ったものの、『悪いのはあの子でしょ!』と美也子もまた泣きじゃくった。  その後は、当然のごとく皆が気まずくなり、宴はお開きとなった。  翌日、美也子は母と一緒に雛飾りを片付けた。黙々と片付ける母の横で、ふと、美也子は人形の一つ――泣き上戸の仕丁の頬が、汚れていることに気づいた。  白い肌についた、汚れ。  小指の爪ほどの大きさの、黒いシミがある。  汚い。  ――あの子が触ったから、汚れが付いたんだわ。  美也子は布でその汚れを落とそうとしたが、どれだけ拭いても落ちない。 『お母様、見て。あの子のせいで汚れたのよ』  美也子は母に人形を渡したが、母は不思議そうに首を傾げるだけだ。 『何言っているの、どこも汚れていないわよ』 『よく見てよ。頬のところが汚れているじゃない』 『美也子……言いがかりはよしなさい。あの子が可哀想でしょう』  呆れたように言って、母は人形をそのまま箱に仕舞ってしまった。呆気にとられたのは美也子だ。  あんなにはっきりと汚れているのに。言いがかりなんかじゃない。  美也子は『お母様、ちゃんと見てよ!』と箱から人形を引っ張り出そうとしたが、母に強く叱られて、結局美也子の言うことは信じてもらえなかった。  最悪の雛祭りであったが、時が経てば記憶も少しずつ薄れる。  そのうち、気のせいだったのかしら、と美也子も自分の中で思い直すようになった。  しかし、その考えは、次の年の雛祭りの時に打ち消された。  雛飾りの準備中、箱から取り出した人形の顔を見て、美也子はぎょっとした。  泣き上戸の仕丁の顔の半分が、黒く汚れていたのだ。去年見た汚れが広がったように、白い顔に黒い汚れがついている。  気のせいなんかではない。美也子は母に再び訴えたが、母の反応は去年と同じだった。  そう、母にはこの汚れが見えていない。  母だけではない、父も祖父母も、家の女中も。  雛祭りに訪れた他の子供たちにも。  誰一人、汚れは見えていなかった。  見えているのは、美也子だけ。  自分の目がおかしくなったのかと、美也子は恐ろしくなった。視界に入る黒い汚れに、いちいち怯えてしまった。友達との会話も弾まず、ろくにご馳走も味わえず、その年のひな祭りを終えた。  片づけをする際、美也子は人形には触らずにいたが、母が片付けている人形を見て目を瞠った。怒り上戸の仕丁の人形の顔に、あの黒い染みがあったのだ。泣き上戸だけのはずだったのに。  美也子は愕然とした。しかしその汚れもまた、母に見えていないことがわかり、何も言えなかった。  それ以降、雛人形の顔は、少しずつ黒ずんで汚れていった。  三人の仕丁、右大臣と左大臣、五人官女……白い顔が黒く染まり、開いた目の白い部分と、唇の間の歯の白さだけが浮き上がって、それはとても不気味だった。  ついには一番上のお雛様の顔が黒ずんできたとき、美也子は雛飾りを出したくないと母に告げた。  当時の美也子はすでに女学校に上がって卒業を控えており、雛祭りは子供っぽいと言う理由をつけることができたのもある。  せっかく実家の祖父母から譲り受けたのに、と母は渋面を作ったが、美也子が頑なに拒否すると了承してくれた。  以来、美也子の家では雛飾りは倉庫の奥深くに仕舞われている―― *** 「――きっと、あの子のせいですわ。あの子が私を羨んで、人形に妙な呪まじないでもかけたんだわ。……本当に嫌な子。なんであんな子がいるのかしら」  美也子は綺麗な形の眉を顰めて吐き捨てる。  渋い緑茶を啜っていた先生は、「うぅん」と小さく呻った後で口を開く。 「……あなたは、雛祭りの起源をご存じですか? いろいろと説はありますが、主な由来とされているのは、平安時代に行われていた『流し雛』という風習です」  紙や藁で人間そっくりに作った人形(ひとがた)を、体に当てて擦ったり、息を吹きかけたりすることによって、心身の穢れを人形に移す。それを川や海に流して祓い清める儀式だ。そうして女子の健やかな成長と幸せを祈ってお祝いする、上巳(じょうし)節供(せっく)だ。  他にも、平安の頃に貴族の子女の間で行われていた、ままごと遊び――『ひいな遊び』が起源になったとも言われている。 「雛人形を長く飾っておくのはよくないといわれるのは、人形に穢れが溜まり、いつまでも祓い清められることがないから……という説もあります」 「それがどうしたって言うの。私の家では翌日には片付けていたわ。だいたい、それを言うなら他の家だってそうじゃないの。別に私の話とは関係ないでしょう」  美也子はふんと鼻で笑い、先生は困ったように頭を掻く。 「ええ。確かに今の雛飾りは、流し雛ではなく、災厄よけの『守り雛』という形になっています。川や海に流す必要は無い。……ですが、人形供養というのがあるでしょう。大事に使っていた人形に感謝して、きちんと手放すことが必要です。それは穢れを祓うことと同じだ」  先生は、すっと美也子さんを見つめた。 「あなたの雛人形が汚れたのは、あなたの言う少女のせいではありません。あなた自身の穢れを移されたためですよ」 「なっ……」 「どうか、人形に感謝してあげなさい。倉庫にしまったきりでなく、きちんと供養することをお勧めしますよ」  淡々とした先生の言葉に、美也子はかっと顔を赤くした。 「っ……なんて失礼な人なの! 最低、ひどい侮辱だわ! せっかく話をしに来てあげたのに……!!」  烈火のごとく怒った美也子は、籐椅子が倒れる勢いで立ち上がり、玄関に荒い足取りで向かう。  スミは慌てて追いかけて見送ろうとしたが、美也子は振り向きもせずに靴を履いて外に出てしまった。  ばしんっ、と叩きつけるように閉められた引き戸の音に、スミは「ひえっ」と肩を竦める。  ……女性の怒りは怖い。鬼頭が怒る時とまた違った怖さがある。  そう思っていた矢先、引き戸が開いて(くだん)の鬼頭が顔を出した。 「おう、スミちゃん」 「鬼頭さん!」  この近くに来たついでに、締切り間近の先生の様子を見ようと寄ったらしい。鬼頭は珍しく表情を曇らせて、心配そうに尋ねてくる。 「なんかさっき、凄い顔の女が出てきたけど、大丈夫だったかい?」 「あ……」  スミは般若のごとく怒る美也子の顔を思い出して、苦笑を零す。 「ええ……先生がとても怒らせてしまって……」 「ああ、いや……そうじゃなくてな……」  鬼頭は少し言葉を濁らせた後、答えた。 「あの女、顔が真っ黒に塗りつぶされていたんだよ。目のところと歯だけが白くて、気味が悪かった」  それは、美也子が語った雛人形の顔と同じで――。  想像したスミの背に、ぞっと寒いものが走ったのだった。
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