其の七 兄の訪れ

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其の七 兄の訪れ

 青葉はご機嫌だった。  今日の夕飯は、青葉の好きなオムライスとコロッケなのだ。原稿が無事に上がったお祝いである。  スミちゃん手製のオムライスは、ケチャップで甘く味付けしたハムライスを、薄く焼いた卵で包んだものだ。近所の洋食屋の娘さんから教えてもらったらしい。コロッケまで作るのは大変なので、こちらは商店街の肉屋で買い求めてくる。  青葉の好物を言うと、いつも鬼頭から『子供かよ』と鼻で笑われる。しかし、そういう鬼頭だって、原稿を回収しに来た時にスミちゃんから夕飯に誘われ、二つ返事で了承していた。仏頂面のくせして嬉しそうだったのは、古馴染みの青葉にはお見通しだ。  まあ、鬼頭が食後の甘いものにとシュークリームを買ってくるそうなので、青葉は相伴を許してやった。  スミの帰りを心待ちにしていた青葉だったが、そこで「ごめん下さい」と声がする。  来客か、と青葉は玄関に向かった。 「はいはい、どちら様でしょう」  ひょいと顔を出すと、玄関に立っていたのは書生姿の青年だ。眦がしゅっと切れ上がった、大きな目が印象的だった。 「朽木青葉先生でいらっしゃいますか」  まだ二十歳になるかならないかくらいに見えたが、落ち着いた物腰で一礼する。 「こちらでスミがお世話になっているとお聞きして、参りました。……私、スミの兄です」 ***  スミの兄は『鉄郎』と名乗った。 「へええ、スミちゃんのお兄さんでしたかぁ」  青葉は快く、鉄郎を居間に案内する。鉄郎は部屋の中を見回し、小さく鼻を動かした。 「おや、どうかしました?」 「いえ……綺麗に片付いておりますね」 「ええ。いつもスミちゃんが掃除をしてくれて、助かってますよ」  鉄郎に座布団を渡して、自分も座る。 「あ、お茶……は台所入るとスミちゃんが怒るんだよねぇ。お水でよければ」 「どうぞお構いなく。……それより、スミの話を聞きたいのです」  鉄郎に促され、青葉はスミの話を始めた。  スミが青葉の元に来たのは、一年ほど前のことだ。  田舎から帝都に働きに出てきた彼女を、住み込みで雇った。  元々、女中紹介所に訪れたスミを見つけたのは、鬼頭だった。ちょうど青葉の家にいた女中が辞めたところで、鬼頭が依頼に来た時にばったりスミと出くわしたのだ。  鬼頭はスミを一目見て、青葉の家で働くよう頼んだ。鬼頭は、『このくらい鈍感な子の方がお前にはいいだろ』と青葉に薦めてきた。  スミは来た時からしっかり者で働き者だった。長女の彼女は、幼い頃から掃除洗濯炊事といった家事から、四人いる弟妹の世話まで、実家でもよく働いていたと言う。  最初は水道やガス焜炉に驚いていたが、慣れた今ではシャツのアイロンがけから、オムライスといった洋食まで作ってしまう。 「いやあ、本当にスミちゃんが来てくれてよかった」  青葉は、スミが作る料理がおいしいことや、寝ぼける自分を起こす手際の上手いことなど、にこにこと話す。  鉄郎は静かに相槌を打ちながら、話を聞いていた。  やがて、話し過ぎて喉が渇いた青葉が言葉を途切れさせると、「そうですか」と懐かしそうに微笑む。 「スミは元気にやっているようですね。安心しました」  そして、鉄郎は姿勢を正し、青葉に向かって頭を下げた。 「どうか、これからもスミをよろしくお願いします」 「え、あの、お兄さん……」 「私の可愛い妹です。……決して、泣かせるようなことなどは、しないで下さいませ」  鉄郎の目が、ぎらりと光る。  白目の部分が消えて、縦に細い黒の線が入った黄色の瞳孔が、青葉を見据えている。穏やかだった声は冷たく響き、青葉の背は粟立った。  しかし、動揺を見せずに笑顔を作って返す。 「ええ、もちろん。そんなことをして、スミちゃんに出て行かれたら僕が困りますし……そもそもスミちゃんを泣かせたくない」 「……」 「安心して下さい。」  駄目押しのように青葉が言うと、ぎらぎらと光る目は瞬きの後に消えていた。普通の人間の目になった鉄郎は、ふっと笑みを零して再び頭を下げた。 「……それでは、これで私は失礼します。このことは、どうぞスミには内密に」 「ええ、わかってますよ」  帰ろうとする鉄郎に、青葉は「そうだ」と立ち上がる。 「何かお土産を……芋羊羹はお好きです? とっときのがあるんですよぅ」  土産はいらぬと首を振る鉄郎に、青葉は半ば無理やり芋羊羹を紺色の風呂敷で包んで渡した。  鉄郎は少し困惑しつつも、受け取って帰っていったのだった。 ***  さて、それからしばらく経った頃のことである。  青葉の家に、スミ宛の手紙が届いた。郷里の家族からである。  スミはさっそく手紙を開けて、嬉しそうに読み始めた。 「ふふ、みんな元気そうです」 「そういえば、スミちゃんにはお兄さんがいたのだっけ?」 「? いいえ。先生、前にも言ったじゃありませんか。私、一番上の長女だって」  スミは小首を傾げた後、手紙の続きを目で追う。 「……あら、まあ、小鉄が家出したって」 「小鉄? 弟さんかい?」  向かいにいた青葉が尋ねると、手紙を読みつつスミが小さく吹き出した。 「やだ、小鉄は犬ですよ。真っ白な毛並みの、大きくて、そりゃあ立派な犬なんです。狼みたいに格好いいんですよ! 私が小さい頃から側にいて、世話を焼いてくれて、お兄さんみたいで。……そういえば、鉄兄ちゃんって呼ぶこともありました」  スミは懐かしそうに微笑んだ。 「へえ……それで、小鉄くんは戻ってきたのかい?」 「はい、三日くらいで帰ってきて……あら、小鉄の首に紺色の風呂敷が巻かれていたんですって。中には芋羊羹が入っていたって! いったい誰から貰ったのかしら……」 「……さあ、誰だろうねぇ」  青葉は思わず緩む口元を、仰ぐ団扇(うちわ)でこっそり隠した。
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