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序 はじまり
夏の木立は青々と茂る。
葉を茂らせた分だけ光は通らず、木の下の影は濃くなる。
照り付ける太陽の光と、茂る木陰の黒い影。
光が強くなればなるほど、闇はより深くなる。
明暗の差で目が眩めば、人は闇に入ったかと錯覚する。木陰の空気はひやりとして、地面は湿り気を帯び、まるで別の世界に踏み込んだかのように。
昼でも暗く、どこか冷たく感じるそれを――
『青葉闇』と、人は言う。
***
うちの先生は横着者だ。そしてすこぶる面倒くさがりである。
「ねえスミちゃん。何か怖くて面白い話はないかい?」
怪奇幻想作家などという仰々しい肩書を持っているというのに、すぐに人にネタはないかと聞いてくる。
「ありません。もう全部話しました」
「そうつれないことを言わずに。ほぅら、十銭あげよう。ミルクキャラメル、スミちゃん好きだろう?」
「ない袖は振れぬものです。ほら、そこをどいて下さい。寝転がられていては掃除ができません」
箒片手に言うと、ちえーっと先生は子供のように膨れて、渋々身を起こす。
着崩れた浴衣を直しもせずに胡坐をかくので、白い太腿と褌が丸見えだ。年頃の娘の前で、何とまあはしたない。普通なら赤面ものだが、先生の浴衣も褌も洗っているスミにとっては慣れたこと。ほらほら邪魔ですよ、と畳をせっせと箒で掃く。
その間も、「ああ、締め切りに間に合わない」「今度こそ鬼頭に半殺しにされる」とぶつぶつ呟いている。うるさくなってきたので、掃く手を止めた。
「もう。そんなにネタがないのなら、外に出て話を聞いて回ればいいじゃないですか。外に人はたくさんいますよ」
「嫌だよ、外に出るのは面倒くさい」
「じゃあご自分で考えて――」
「あ!」
先生は突然大声を上げて立ち上がった。
「そうだよスミちゃん。人から話を聞けばいい!」
「だからそう言ってるじゃあありませんか」
「聞きに行くんじゃなくて、話をしに来てもらえばいいんだよ!」
うまいことを考えたと喜ぶ先生に、スミは「はぁ」と曖昧な返事を返した。先生は妙なやる気を出して、新聞社の電話番号を調べている。思い立ったら即行動のお人で、先ほどまでのだらけぶりが嘘のようだ。
何をするつもりかは知らないが、働く気になったのなら幸いである。編集者の鬼頭さんの眉間の皺が刻み込まれて、名の通り鬼のような形相になってしまうのは忍びない。
「――ああ、もしもし、そちら帝都○○新聞社でいらっしゃる? ――ええ、そう……広告をね、載せてほしいんです。――文言はこうです。『奇妙な話、怖い話、集めており〼』……ああ、私? 枯木青葉といいます。そう、枯れた木に青い葉っぱ。住所は……スミちゃん、うちの住所って何番だっけー?」
「自分の家の番地くらい覚えておいてくださいよ」
そんな経緯で生まれたのが『青葉闇奇談』。
うちのものぐさな先生――枯木青葉が自宅を事務所にして、奇妙で怖い話を持て余した人々から聞いた話を元に、奇妙な説話をまとめたものである。
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