プロローグ

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プロローグ

 「ユリアナ様、もう少し前の方にお立ち下さいな。その方がもっとよくお姿をご覧頂けますから」  そう侍女に促されて姿見の前に立ったユリアナは、ぼんやりとした様子で鏡の中の自分を見回した。  そこには若い娘のほっそりとした姿がある。ミルク色の肌、薔薇色の頬、眩い黄金色の髪、魅惑的な青い瞳ーーーどこからどう見ても文句のつけようのない美しさだ。それにもかかわらず、彼女の表情は暗く沈んでいた。あたかも重い鉛でも飲み込んでしまったかのように。  アイヤという名の侍女は、女主人がよく見えるようにと背後から真珠の首飾りを掛けてやった。この見事な品はカトレ王子からの贈り物であり、今宵の宴席に着けてくるよう命じられたものだ。白鳥を思わすユリアナの首に、それは艶やかに輝く。宴席に呼ばれた全ての女たちが羨望の眼差しを向けることになるだろう。その光景が目に浮かぶようで、アイヤは満足げに微笑んだ。  「よくお似合いですよ」  アイヤは女主人の気を引き立てるように言った。  「ライアス様は、よほど姫様のことを大切に思っておいでなのですね。それにまぁ、このお召し物も素晴らしいこと。こんな美しい織物、アイヤは見たことありません。玉虫色とでも言うようなーーー姫様の肌の色をより一層引き立てるようです」  アイヤの言葉通り、薄く繊細な布で仕立てられた衣に身を包んだユリアナは、まるで女神の化身のようだった。実際、彼女の故国パテラでは彼女は女神のように崇められていたのだが。  パテラの王女として何不自由なく暮らしていたユリアナの運命を変えたのは、パテラとカトレの間に起きた戦争だ。とある小国の王位継承問題に端を発し、強国カトレはアギア海に面する美しい古王国パテラに攻め込んだ。フェウ大陸最強と言われるカトレ軍を前に、為す術もなく王都テアは陥落。王を始め名だたる武将たちは皆戦場で命を落とすか殺されて、残された女子どもたちもまた敵国の武将たちの手に渡り、遠い異国へと連れられていった。  うら若い王の娘たちも例外ではない。特に美しいと評判だったユリアナは、数々の戦功をたてたカトレの王子ライアスが貰い受けたのだが、この王子こそユリアナにとって最も憎むべき相手たった。彼女の許婚を殺したのは、他でもないこの男だったのだから。  王子の側で暮らすようになって、まだ日は浅い。だが、彼が他のカトレの男たちとはまるで違うことに、ユリアナは気付き始めていた。豪胆で猛々しい父王ケイレーンに似ず、王子は寡黙な若者だった。父のように酒に溺れることもなく、ユリアナの他に女の姿もない。彼よりもっと身分の低い兵士でさえ、この度の戦で何人もの女たちを手に入れたというのに。  ほぼ毎日王宮へ行ったっきり。たまに館に帰ってきても、ユリアナの存在を忘れているのか、邸内で出くわすとたちまちぎょっとした顔を見せる。かといって、捕虜の身分の彼女を見下すこともなく、カトレの貴婦人同様に丁重に扱われ、敷地内であれば自由に過ごすことを許された。苦しい労役はおろか、意に添わぬことを強いられたことは一度もーーー少なくともこの館の中ではーーーない。  それでも、王子への憎しみが消えることはなかった。たとえ戦場の最中であったとしても、許婚を殺された恨みは何があろうと心から離れることはない。  素っ気なく鏡から目を逸らすと、ユリアナはアイヤに命じて天鵞絨の小箱を持ってこさせた。今身につけている真珠とは比べようもないが、複雑な紋様が美しい銀細工の首飾りがそこにある。ユリアナはしばらくそれに見入っていたのだが、突然手に取り、アイヤに向かってこう言った。  「やっぱり真珠はやめにして、こちらを着けていくことにするわ」  アイヤは驚きのあまり、すぐには物も言えない様子だった。当然のことながら、アイヤはそちらの贈り主のこともよく知っているのだ。  「ユリアナ様、ですがそれはーーーシルベール様から贈られた物ではございませんか」  「えぇ、そうよ」  ユリアナは挑むようにアイヤの方を向いた。  「彼に求婚された後、あの人が私にくれたものよ。生涯私一人を大切にするからって、そう誓って私の首に掛けてくれた」  「ユリアナ様!」  アイヤは悲痛な思いを押し込んで、愛する女主人の顔を見た。  「お気持ちは分かりますが、シルベール様はお亡くなりになりました。そして、今姫様を庇護なさっているのはライアス様です。王子からの贈り物を差し置いて、シルベール様の首飾りを着けて宴席に出られるなんて、それではあまりにもーーー」  「あまりにも何? 王子に対して失礼だとでも言いたいの?」  ユリアナの口調が不意に険しいものになる。  「確かに王子は私に良くしてくれているとは思うわ。縄に繋がれ、あと少しで連れて行かれそうだったお前を解放し、私の側に置くことを許してくれたし、私が不自由なく暮らせるよう何かと気を遣ってくれている。だけど、私の許婚があの王子に殺されたことに変わりはない。私は一生王子を赦さないし、シルベールのことを忘れない。この首飾りはその証なの。私の心は永遠にシルベールのもの、カトレの王子になんか渡さない」  ユリアナの声には有無を言わさぬものがあり、アイヤは従わざるを得なかった。おずおずと真珠の首飾りを外し、銀細工のものと取り替える。  真珠の輝きがなくとも、ユリアナの美しさに変わりはない。むしろ一層、美しさが増したやもしれぬ。衣擦れの音を立てつつ、彼女は立ち上がる。すらりと背が高く、得も言われぬ気品に溢れたその姿には、いつも見慣れているはずのアイヤでさえも見とれてしまう。  はっと我に返ったアイヤは、慌てて箪笥から白い肩掛けを取り出してきた。そして、それをふわりとユリアナの肩に掛け、  「日が傾いて参りました。夜は冷えますでしょうから、これをお召しになって下さいまし」  肩掛けを纏い、ユリアナはアイヤに背を向けた。この世の誰より近しい存在のアイヤですら、ユリアナの矛盾に満ちた心の内を知ってはいまい。口では憎いと言いながら、その一方で彼女はライアスに惹かれてもいた。故国を滅ぼしたカトレの王子、愛する許婚を殺した男。よりにもよって、最も恋してはならない相手にユリアナは恋してしまったのだ。  だが、王子にとって自分は単なる戦利品の一つに過ぎない。ユリアナはそれを十分に承知している。その証拠に、ライアスは一夜限りでもう彼女を遠ざけるようになった。カトレでは大変貴重な真珠の装飾品を何の惜し気もなくくれたのも、手に入れた美しい捕虜を宴の席でただ見せびらかしたいだけに過ぎないのだ。  あの呪わしい夜、何故あの男の息の根を止めなかったのだろう? ほんの一瞬躊躇いさえしなければ、剣があの男の心臓を貫いてさえいれば、こんな地獄のような苦しみを味わうことなどなかったのに。  ユリアナは痛いほど唇を噛み締める。いいえ、私は必ずライアス王子を殺す。この忌まわしい恋心と共に、あの男を葬りさってみせる。次こそはもう迷ったりしない、絶対に。カトレの王子はパテラの王女を弄んだ報いを受けて無惨に死なねばならない。  館を出たユリアナの目の前には、血のように赤い夕焼けが広がっている。たちまち彼女の心は過去へと引き戻される。千年の歴史あるパテラ、聖なる都と謳われたテアが陥落し、炎に包まれたあの晩にーーー
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