記憶の石鹸

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嫌な思い出を洗い流せるという石鹸が発売された。 そのときの僕は、すぐさまその商品に飛びついた。 失恋でえらく傷心していたのだ。 振られてしまった。 それも急に。 ちゃんとした理由もわからないままに。 会うのが辛いの 開口一番これだ。 そして、それ以上の言葉はなかった。 一方的な別れは突然で、まったく持って理解不能で僕はその理不尽さにとことんボコボコにされたわけだ。 そんな折に例の商品、嫌な思い出を洗い流せる石鹸が現れた。 値段は少々張ったが、買えない額じゃない。 僕はその石鹸を手にすると、説明書どおりに、消したい記憶を思い浮かべながら石鹸を手に泡立てた。 あとはこれを洗い流せば、綺麗に記憶は消えるらしい。 これでようやく、傷ついた僕の心の傷も癒される。 やっと開放される。 食事も喉を通らず、やせ細った腕を見ながら僕はそう思い、力なくひとりでに微笑んだ。 手に付いた泡はどこにでもある石鹸で泡立てたような普通の泡で、水に触れればすぐに流れていく。この泡が、手に群がる数多の大小の泡。 これが僕の記憶であって、彼女との思い出。 そう思うとなんだか感慨深いところもあったけれど、今の僕にはきっと彼女のことを忘れて、新たな一歩を踏み出す必要があるのだ。 いまさら後悔はない。 手の泡を洗い流し終え、タオルで拭き、しかし記憶はすぐに消えてはいなかった。説明書を改めて確認。 ”洗い終えてから5分後に記憶は消去されてます”とそう書いてあった。 ということはあと4分くらいか。 僕と彼女の思い出もそれまでだ。 そのときだった。 僕のスマホが躍動し、着信を告げると手に取った。 相手は彼女だった。 いまさらなんだ? もう彼女との記憶も消えるのに。 いまさら電話に出て何になる? あと4分後にはもう見知らぬ赤の他人になっているであろう相手の、電話に出る意味はあるのか? そのように思ったものの、なら最後の別れをここで済ませてしまってもいいのではないか?次にこう思うと、気づけば僕は電話に出ていた。 「ほんとうにごめんなさい」 開口一番、彼女は泣き声を聞かせた。 えっ?と動揺する僕。 「本当は別れたくなかった…今でもあなたのことが好きだから」 え?え? 彼女の言葉に僕は激しく動揺する。 いまさら何を言っているんだ?と。 「でも、もう行かなきゃだから……本当にごめんなさい」 彼女がそれで通話を切るような雰囲気を漂わせるのだから僕は反射的に呼びかけた。 「ちょ、ちょっと待って!いったいどういうこと?」 「…私、遠くへ行くの」 「遠く?海外とか、そういうことなの?」 「違う、違うの…」 彼女の返事は終始、歯切れが悪かった。 それでも涙声は収まらず、だから僕は強くは言えず、そしてなにもかもがわからなかった。 「ただ、あなたに一言だけ言いたくて…どうか幸せになってね」 通話はそこで切れた。一方的にも。 僕の鼓動は早まった。 これまでにないほどに。 全力で百メートル走ったって、これほど心拍数が高まることはなかった。 全身が火照る。どきどきする。嫌な汗が全身からじんわりとにじみ出てくる。 なんだなんだなんだなんだなんだ この感情は?この気持ちは? 気づけばすぐさま彼女にかけ直していた。 コール音がもどかしい。出ない。ツーツーときこえる。 かまわずかけなおした。何度も。何度も。何度も!! ようやく彼女は出た。 何度目かはわからない。 でも、彼女の吐息が最初に聞こえ、それは小さく笑ったときに溢れ出る吐息なのだということはわかった。 何故か? 彼女は、僕の彼女だからだ。 そして、今でも僕は彼女が好きなのだから。 「どういうことなんだ?はっきり説明してくれよ!!」 「私、病気なの…」 「えっ…?」 「ごめんなさい、最後の最後まで言えなくて…」 「…」 「でも、こんな姿を見てほしくない…だから良かったんだ。これで」 「…」 「ごめん…本当にごめんなさい…最後まで、本当に自分勝手な女で…」 「馬鹿っ!!」 「!!」 「なんだよそれ!僕が見た目なんて気にするとでも思ってるの?どんな姿だって良いよ!何で言ってくれなかったんだよ!?行くよ!今からでもすぐに!!場所は?どこの病院だ?」 「でも…」 「でももだってもない!子供か!」 「…ふふっ、叱られちゃった」 「ほんっとに馬鹿だよ!もう、ほんとに!!今から言って、たっぷり説教してやるから、それまではちゃんとしてろよ!」 「…うん。ありがとう」 彼女はそれから僕にすべてを話してくれた。 病気のこと。闘病のこと。髪の毛をすべて剃り落としたことも…。 病院の住所を聞くと僕はすぐに向かうと告げて通話を終えた。 すると驚くほど自分に活力が満ちていることに気づいて僕は驚いた。 彼女のために動くことが、彼女に会いに行くということが、これほどまでに自分へ活力をもたらすという事実は、僕にとって自分がまだ彼女を愛しているという証拠には十分すぎるほどだった。 僕はふらふらともせずめまいも感じず気丈に立ち上がるとすぐに身支度を始め、急いで家を―― 「……あれ?」 僕は何をしているんだ? どうして着替えているのだろう? 今日は大学も休みのはず。バイトのシフトも入ってはおらず、家でのんびりと過ごそうとしていたはずなのに……。 そのとき右手にスマホを握っていることに気づき、見れば知らない名前と知らない電話番号が表示されている。 「なんだこれ?誰なんだろう?」 わからない。記憶にない相手。 ……あれ? でもわからない。なにもわからない。なにもわからないのにどうして、涙がこうも溢れ出てくるんだろう? わからない。でも涙は流れ続け、僕は理由もわからないままに崩れ落ちてむせび泣き、ただただ泣き続けた。 その理由もわからぬままに――。
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