プロローグ 戦禍

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プロローグ 戦禍

 空を舞う鷲は風に乗り、翼を広げる。  行く先に見えるのは、どこまでも続く青い空だった。迷いなく飛んでいくその姿は勇壮であり、自由の象徴のようにも映る。  陽光が燦々と大地に降り注ぐ。風に揺られて、原野の草木が音を立てる。静かな響きはまるで、草木同士で囁きを交わしているようだ。そよぐ風と、どこまでも広がる原野。やがて山並みが見えて、山々を超えると再び原野が雄々しく広がる。  空と大地。風と光。溢れる自然(ナトゥーア)の力の恩恵を受けるこの世界を、古き人々はと呼んだ。自然(ナトゥーア)の源泉であるマナが満ちたこの世界は、鋼と魔法によって文明が発達してきた。人々の生活の発展を助けてきた鋼と魔法だが、人間は愚かにもその力を戦いに使うことを覚えた。  かつて自分たちを迫害し、虐げてきた鬼族(オーク、トロール、オーガ、コボルトなど)を大陸の隅に追いやり、自分たちの国を打ち立てて文明を発展させた。その行いはいつしか火種を生むことになり、人の手による戦争の歴史が始まった。  エデンにあるグランエアール大陸。広大なこの大陸の北東域にも、戦禍は拡がっていた。グランエアール大陸北東域。この地域はリエージュという名称が付けられていた。リエージュの南域はアースガルドと呼ばれ、古くから魔族の血統と言われるデルーニ族が住んでいる。やがて、リエージュ北西部のザールランドから人間たちが入り込み、リエージュ北域に住み始めた。人間族はいつしかイングリッドランド王国を興し、自分たちの支配域を確立。一方、部族統治社会であるアースガルドも、リエージュ南域にて自分たちの文明を発展させていった。  人間族とデルーニ族。初めはお互いに住み分けを守っていたが、豊富な資源を有するビフレスト州を巡って、両種族は対立するようになる。やがてビフレスト州は事実上の軍事境界線となり、戦禍の絶えぬ最前線と化したのである。  長閑に見える空と大地の情景。しかし、ここにも戦いによって流される憎悪と悲哀が満ちている。  青い空を往く鷲が、突如として進路を変える。空に立ち昇る一筋の黒煙。炎によって焼失した家屋が煙を上げていた。  悲鳴が上がる。逃げ惑う人々。追いかける武装した兵。農道には首を落とされた農夫の屍体が転がっている。抵抗しようとしたのだろう。その手には農耕用の鍬が握られていた。  鼻をつくむせかえるほどの煙と、血の臭い。農道に流れる血が赤黒く、べっとりと地面にへばりついている。  イングリッドランド王国ドムノニア州ディジョン郡サリー村。つい先ほどまで、いつもと何も変わらない日常を送っていた州境の村落である。農耕や酪農を生業とし、生産物を隣町のデュニスに卸すことで生計を立てている。  しかし、平和な村を突如として悲劇が襲った。人間族とデルーニ族の軍事境界線、ビフレスト州からデルーニ族の傭兵が流れ込んできた。目的は冬に備えた物資を刈り取るため。つまり、略奪である。ビフレスト州との境界付近にありながらも、地形の関係から戦禍を免れてきたサリー村だったが、潤沢な作物が標的となった。  デルーニは、人間の命を奪うことに躊躇いなど持たない。容赦なく振り下ろされる凶刃に、また悲鳴が上がる。  村の中央から離れた場所に小さな農場があった。牧舎と家屋、牧場、そして麦の畑がある。その農道で壮年の女性と、老年の女性の二人が言い争っている。農場を経営する、シュタイナー家の主人の妻・テレシアと、義母のポルシャであった。 「いいからお逃げ、テレシア! 子供たちを連れて、早く‼」  ポルシャがテレシアの背中を押した。ポルシャの手は農耕や酪農によって荒れていたが、その眼は意思の強い光を宿していた。 「でも、お義母(かあ)さん…!」 「馬鹿、あたしはどうせもう長くない! でも、あんたや子供たちは違うだろ。生きるんだよ、あいつらは、この村のもんを皆殺しにするつもりだよ!」  躊躇するテレシアを、ポルシャが強い口調で叱咤する。その時、農道の向こうから怒号と悲鳴が響いた。逼迫した状況を悟ったテレシアは、決心したように頷き、家屋に向かって駆けはじめた。  テレシアの背中を見送ったポルシャは、腰から護身用のダガーを抜いて両手で持った。きっと睨み据える農道の先から、ひとりの男が現れた。  背丈は二トール(一トール=九十センチ)と二バンチ(一バンチ=五センチ)。レザーメイルのみという軽装の出で立ちで、その下の筋肉質な体格がはっきりと見てとれる。腕は薪のように太く、その手には血の滴るおよそ四十トールはあろうかというハルバードが握られている。褐色の肌に肩まで伸びたざんばら髪。首筋には特徴的な、蛇と蝶の刺青が彫られていた。  ポルシャの姿を眼にした刺青のデルーニは、口もとに薄ら笑いを浮かべた。ダガーを構えるポルシャの手は震えている。眼前に迫る脅威に、明らかに恐怖しているようだ。やがて刺青のデルーニが笑い声を上げる。 「随分と大層な戦士のお出迎えだ。だが、どうだ、闘志も恐怖も湧かねえ。湧いてくるのはただ渇いた笑いだけだ」  ポルシャの視線がわずかに動く。その視線が一度後方に向いたのを、刺青のデルーニは見逃さなかった。ポルシャの後方にあるのは、シュタイナー家の家屋である。 「ほう、そこにいるのか」  刺青のデルーニが再び薄ら笑いを浮かべる。慌てたように、ポルシャが前へ出た。 「い、行かせないよ! あんたはここで…」  ポルシャの体が静止する。ひと呼吸ほど置いて、腰から上の胴体がずるりと地面に崩れ落ちた。地面に立つ下半身は、切断面から血を噴き上げている。 「勝手に動くな、おいぼれ」  刺すような鋭い眼。刺青のデルーニは、すでに全身から殺気を放っていた。  その時、家屋の扉が開いた。中から出てきたのは、テレシアと三人の子供たちである。ポルシャの屍体を見たテレシアは、小さな悲鳴を上げた。  刺青のデルーニが、ポルシャとその子供たちに標的を定めた。手にした死神の鎌のようなハルバードを肩に担いで、ゆっくりと近づいていく。  テレシアが護身用のダガーを構えた。刺青のデルーニの足は止まらない。薄ら笑いはない。はっきりとした殺気を放ちながら、野獣のような視線でテレシアたちを睨みつける。 「こ、来ないで! それ以上近づいたら…」  その先の言葉が出てこない。すでに恐怖で声が出なくなっていた。眼前に迫るのは、脅威でも、恐怖でもない。まさに死そのものであった。  刺青のデルーニが、ハルバードを一閃する。まるでボールのようにテレシアの首が飛んだ。刺青のデルーニの眼が、小さな子供たちに向けられた。  悲鳴が響く。しかし、その声を聴く者はいない。血飛沫が舞う。しかし、それを目撃するものはいない。  晴天に昇る黒煙の数が増える。煙と血の臭いが満ちて、風に乗って漂う。  遺ったのは、無残に破壊された村と、無慈悲に惨殺された村人の屍体。静けさを取り戻したサリー村に、かつての面影はない。  やがて静かになったサリー村に、慟哭が響き渡る。  それは、運命の歯車が廻りはじめる号砲であった。
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