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5分間の攻防
彼が振動する腕時計を見る。
私はそれに気付いて砂時計をひっくり返す。
サラサラとガラスの中を流れ落ちてく青い砂。
これを使うようになったのはいつからだっただろう。
友達の土産物の砂時計。
「5分でごめんね、3分の方が使うよね?」
そんなことを言われながら手渡された砂時計。
まさか、こういう風に使う日が来るとは思わなかった。
5分後には、彼は私の部屋を出て行く。
そして駅まで歩いて終電に乗り自分の家に帰る。
彼が私の家から出て行くまであと5分。
最初の頃、私は5分という時間を短いと思った。
5分は何もかも足りない。
次の予定を決めるのにも、愛してることを伝えるのにも、あまりに短い、そう思っていた。
だけど、私たちは気付けば5分という時間の使い方に慣れてしまった。
私たちはこの5分より前に次の予定を決めている。
彼が手伝ってくれる食事の片付けも、済んでいる。
最近の私達にとってこの5分は、砂時計の砂が落ちきるのを待つだけの時間になっていた。
語る言葉がない。やることがない。テレビすら、興味を引かれない。
気まずい沈黙。
かと言って尿意を感じてもこの5分をトイレで潰すわけにもいかない。
「…………」
私と彼の駆け引きのような5分間が始まった。
なんと言ってもここは私の家である。
地の利は私にある。
私はとりあえず缶チューハイを開けた。
5分では飲みきれない量だが、構わない。
彼が出て行った後でだって私はお酒を飲める。
続いて、ブラシを手に取った。
髪をとかし始める。
そうしているといかにも手持ち無沙汰であった彼が私の後ろに回り、私からブラシを取り上げた。
「あ……」
髪をとかされる。
人にやってもらうのと自分でやるのとではずいぶんと感触が違う。
私は塊があれば、強引にブラシを下ろしてしまうが、彼はそうしない。
丁寧に、私の髪を撫でる。
なんだか愛撫みたいで、照れてしまう。
とても丁寧な彼の髪のとかし方。
だけどその時間も5分を保たせるには足らない。
短めの私の髪をとかし終えて、彼がブラシを私に返す。
砂時計を盗み見る。まだ砂は落ちきらない。
「…………」
ごまかすように缶チューハイを飲む。
おつまみの冷凍食品でも開けようか? いいや、それだと温めの間に時間がオーバーする。
帰ってしまう人の前で食べられない食品を用意するのはなんだか気が引ける。
テレビをチラリと見る。
よく分からないドラマがやっている。
いつも流し見だから展開が分からない。
「……この俳優かっこいいよね」
おお、我ながら中身のない会話。
「そうか、こういうのが好みか」
彼も中身のない相づちを返す。
ちなみに俳優と彼とは似ても似つかない。
「いや、なんというか、一般論として?」
気を遣うわけじゃないけれど、そう言った。
「なるほど?」
彼は困ったような顔をした。
そりゃそうだ。私だって「この女優かわいいよね」と言われても困る。
彼を困らせてしまった。
反省しなければ。
沈黙。
ドラマ、消しても良いかな……。
でも、彼が見てる可能性あるな……。
なんだか聞くのも面倒だった。
とにかくおつまみが、足りない。
私は立ち上がり、戸棚からスルメを取り出した。
台所とリビングの間は2歩分くらいの距離しかない。
スルメを取りに行くなど、時間稼ぎにもならない。
彼もスルメをつまんでいく。
お供は水だ。
咀嚼音がかすかに聞こえる空間が誕生する。
……スルメをすべて噛んでいる間に5分経たないかな。
さすがに無理筋かな。
5分はそれほどまでに長い。それを私はこの1年半で知った。
1年半。なんとも微妙な期間だ。
短くはないだろう。
かと言って長すぎることもない。
まだ焦るような期間でもないし、安心できるような期間でもない。
微妙だ。
5分という時間の長さと比べると、1年半の体感はあまりにも微妙だった。
……ああ、いっそ、困らせてしまおうか?
帰って欲しくないとダダをこねてみようか?
それなら5分を潰せそうだ。
思い付いただけだ。そんなこと、私にはできない。
自分で言うのもなんだけど、私はお行儀が良いのだと思う。
彼を困らせたり、怒らせたり、そう言うことをしたくない。
……帰って欲しくない、寂しい、それは本音だけれども。
スルメを食べ終えてしまった。
二本目に行くか迷う。
私は迷いながら缶チューハイをすする。
「なあ」
「な、なあに」
珍しい。
彼は無口だ。
自分から口を開くのは珍しい。
「今度、ここ行ってみる?」
テレビを指さした。
旅館のCMをやっていた。
「いいね」
そこまでちゃんとチェックできたわけじゃないけど、私はそう答えていた。
旅行か。付き合って1年記念で行ったきりだったか。
いいかもしれない。楽しそうだ。
「……旅のさ、計画立てるのって、好き?」
私は聞いてみた。
「うん、けっこう好き」
前回の旅行は、彼にプランを丸投げしたっけ。
でも、好きならよかった。気兼ねしなくて良い。
「そっか、私は、行き当たりばったり旅が多いんだ」
「……そっちの方が好きだったりする?」
「ううん、こだわりはないんだ。面倒なだけ」
「そうか、じゃあ、今度も俺が立ててもいいか、計画」
「うん」
約束が、成立した。
ふんわりしている。
長く付き合っていると、そんなものだ。
……あ、今、私、1年半を長いと思った。
それに5分の間で約束が成立するのも珍しい。
ああ、なんだか、帰って欲しくなくなってきた。
「……ねえ、今日も、帰っちゃう?」
砂時計は半分を過ぎている。
青い砂が溜まりだした。
「…………」
彼の沈黙が、怖い。
聞かなければよかった。
何をしているのだ。
分かっているじゃないか。
明日も平日、やることがあるんだ。
帰っちゃうに、決まってるじゃないか。
「ご、ごめ……」
今の無し。そう言いかけた私の口は塞がれていた。
彼の唇が私の唇に触れていた。
「……え」
「いつも、期待してたかも、その言葉」
ぶっきらぼうにそう言うと、彼は顔を赤くした。
「……なんて、なんかかっこ悪いな、俺」
「全然!」
私は食い気味に答えた。
「全然だよ、全然」
「……そっか」
ホッとしたように彼は笑った。
私は彼に抱きついて、彼は私を抱きしめ返した。
私達はそのまま、ぎゅっと抱きしめ合って、砂時計はもう視界に入らなくなった。
5分を気にするのはもう終わり。
私達は今日、5分を越えた時間を共に過ごした。
「……なあ、一緒に住もうか」
「いいの?」
「うん……まあ、引っ越しに金かかったら、旅行がなしになるかもしれないけど……」
「いいよ」
私は笑った。
「5分が積み重なれば、旅行分の時間になるもん」
「……5分、か」
彼は私の言葉を理解して苦笑いをした。
気まずい5分はこうして私達の前から消えていった。
あとには永遠が残ってくれたらいいな、と私はひそかに祈った。
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