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 空は快晴、季節は夏。  夕焼けに染まる空の下、いまだに引かない暑さににじむ汗を窓から飛び込むぬるい風で冷ましながら、車で走る。運転に支障がない程度に視線を動かし、懐かしいような、今ひとつ馴染みのないような町の中を見ながら進んだ。  大学進学と共にこの町を出て三年と少し。暮らしていたころは変化のない退屈なところだと思っていたが、こうして改めて見てみると意外と新しい店ができていたり、見知らぬマンションが増えており、新鮮な気持ちになる。  そういえば、ときおり帰ってきてはいたけれど自分で車を運転して通るのは、はじめてだなと気がついた。  渡された住所を入力した携帯電話の地図ナビゲーションは、そろそろ目的地が近いことを告げている。前方に見えるさびれたジュエリーショップ、というよりは宝飾店と呼ぶべきだろう建物を曲がれば、もうすぐそこのはずだ。  案内を終了します、というナビの声を聞きながら目的地を少し過ぎ、住宅地に入る。聞いていたとおりのところに見つけた空き地に車を停めて、先ほど通り過ぎた目的地まで歩いていく。 「ここ、か……?」  苔むしてところどころ欠けている古めかしい石の門に、取って付けた感が満載の錆びた門扉。手書きの地図を見るにこの位置であっているはずだが、表札が見当たらないため確証は持てない。  何より、見上げた建物はどうにも陰気な気配を漂わせていて敷地に入りづらい。土蔵というのだろうか。年季が入って灰色がかった白壁で塗られた二階部分が伸びっぱなしの庭木の間に覗いている。  門扉を軋ませながら恐る恐る敷地に入るが、伸び放題になっている雑草がさらに行く手を阻む。帰りたい気持ちと戦いつつ、点在する庭石を頼りにどうにか玄関まで進んだ。  玄関に辿り着くと、ようやく土蔵の一階部分が確認できた。ぼやけた黒い壁板には蔦が這い、人気のない建物よりもよほど生き生きと色の濃い葉を繁らせている。  色あせた扉は重たげな木製で、ところどころに錆びた鋲が打たれているのがまた、近寄りがたい雰囲気の原因だろう。  どこかにインターホンでも付いていないかと探すけれど、遺跡のような気配さえ漂わせる古めかしい建物には当然そんなものはない。  俺をここに行くように仕向けた親父が、タイミング良く顔を出してはくれないだろうかと願いながら、仕方なく引き戸の取っ手に手を伸ばす。  親父の話では、この明らかに人がいないだろうと思われる建物は喫茶店らしい。そして、親父はこの店の常連なのだという。  話を聞いたときにはふーん、親父って喫茶店なんか行くんだ、としか思わなかった。愛想のいい田舎のおっさんという感じの人だし、家でコーヒーを飲んでいる姿なんて見たことがなかったからだ。  その愛想の良さでしばしば頼まれごとを引き受けてくる親父が、大学三年の夏休みを実家でだらだら過ごしていた俺に言ったのだ。 「お前、暇ならちょっと頼まれてくれんか」  何気ない言葉だが、親父のこれは要注意だ。  過去に何度かこう言われて軽い気持ちで引き受けた結果、明らかにちょっとではない労力を持って行かれたのは一度や二度ではない。ゆえに姉、俺と弟の三姉弟の中では、親父の頼み事は内容をしっかり確認してから引き受けること、というのが暗黙の了解になっている。  だから、俺はいじっていた携帯電話を脇に置いて話を聞く体勢になった。親父はそんな俺の横に座りながら、にこにこと笑う。 「いや、そんな改まって話すようなことでもないんだけどな」  そう前置きして親父は話し始めた。  俺が通っていた高校の近くに、親父の行きつけの喫茶店がある。そこのマスターの兄だか姉だかの子どもが高校卒業を機に親元を離れてマスターのところでやっかいになっているのだが、ちょっぴり社交性に問題があるらしい。しかし大人が上から物を言うのもどうかと悩んでいたマスターに、うちの親父が田舎のおっさん特有のおせっかいを発動したのだ。曰く、暇を持て余す大学生に心当たりがあるから、その子の刺激になるように夏休みの間だけでも臨時アルバイトとして雇ってみてはどうか、と。 「そういうわけで、来週から行ってみてくれんか。店に来るのは常連ばっかりで大した仕事もないだろうから、ちょっと年下の面倒を見るくらいの気持ちで。な」  聞けば、少ないがアルバイト代も出るし、ケーキやシュークリームの売れ残りをもらえるように話をつけてきたらしい。 「いつもは、店内で食べる専用だからって持ち帰りさせてもらえないんだぞ。マスターの奥さん、元パティシエだからどのお菓子もおいしいらしい」  同じく常連の女性客に聞いた情報を持ち出すのは、甘党の俺を釣るための見え透いた餌だ。正直なところけっこうぐらぐら来ているのだが、素直に食いつくには引っかかる部分が多い。高卒で親元を離れた社交性に問題のあるやつ。短くはない夏休みの間、そんなやつの面倒を見るだなんて、いくら俺が暇でもちょっとごめんだ。  返事を渋る俺を見て、親父はそうそう、とさも今思い出しましたという風に付け足す。 「マスターが預かってる子、女の子だってよ」  俺は餌に食いついた。    そういうわけで、絶賛彼女募集中の俺は件の喫茶店にやってきたわけである。  いやいや、青少年の明るい未来のために今こそ奮起すべしとやってきたのだ。ちょっと社交性に問題があるくらいで、十代の女子と出会える機会をのがすわけにいかない。  俺は意を決して、引き戸に手をかけた。  覚悟していたよりも軽く動いた扉を開けると、重苦しい外観に反して小洒落た店内が迎えてくれた。  間隔を開けて取り付けられた吊り下げランプ型の照明が、少し暗めの優しい明かりで店内を照らしている。コーヒーの良い香りに誘われるように一歩踏み出せば、外壁と同じくらい古めかしい床板が軋む音を立てた。その音さえ店の雰囲気を作り上げるために用意されたかのような、居ごこちの良さ。  ほんの一歩中に入っただけで時間がゆったり流れているかのように感じさせる空間は、なるほど親父が常連になるのもわかる気がする。  正面の壁際に据えられた、俺と同じくらい背の高い大きな置き時計。飴色というのだろうか、艶めいた褐色をした本体の美しさや揺れる振り子の珍しさに目を奪われていた俺は、ふと振り返る。いつまでも閉まらない戸に、そうか自動ドアではないのだったと思い至った。  自分の手で、外界とのつながりを断つために重たい引き戸を閉める。その手間さえ、この店の雰囲気を完成させるための大切な要素のように思えた。これは大人のための空間だというのも頷ける、と親父からもらった事前情報に納得する。  戸を閉めたことでいっそう薄暗くなった店内は、陶器の触れ合う音や水の流れる音でほどよく騒めいている。自分が何者でもない有象無象になれるこの空気に浸っていたいが、今日は客として来たわけではないので、そうもいかない。  広くはないが狭くもない、ちょうど良く落ち着ける広さの店内を見渡す。カウンターの向こうには店員だろうか。肩の薄い誰かの後ろ頭が見える。カウンター席には誰もいない。より一層薄暗いテーブル席には、一人客がちらほら、夕暮れ時の一服を楽しんでいる。  さて店主、いやマスターはどの人かな、と視線を巡らせていると、誰かが近づいてきた。 「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」  そう穏やかに声をかけてきたのは、若い女の子だ。肩にかからないくらいの長さの黒髪は、さらさらと音が聞こえそうなストレート。ぱちりとした目はやや釣り気味で、猫のよう。白い襟付きシャツに黒いズボン、焦げ茶のエプロンとシンプルな格好ながら、すっきりとまとまっている。  カウンターの向こうにいたのは彼女だろう。ふんわりと優しく微笑んでいる姿には、社交性に関する問題点など見当たらない。むしろ大いに好みどストライクだ。  まさに喫茶店の店員、といった落ち着いた雰囲気の彼女に見惚れていると、席を決めかねていると思ったのか店の空気を壊さない優しい声で続けてくれる。 「カウンター席はマスターや他のお客さまとの会話を楽しみたい方に、テーブル席はゆっくり静かな時間を過ごしたい方におすすめです。さらに落ち着いた空間をご希望でしたら、二階にもお席がありますが」  ご案内しましょうか、と首をかしげるのにあわせて、黒髪が揺れる。  断然、黒髪派の俺の心も揺れる。せっかく綺麗な黒色を生まれ持っているというのに、わざわざ髪を傷めてまで違う色にする心境が俺にはわからない。友人に言わせれば、この黒髪信奉が俺の彼女いない暦を更新させている一因だというのだが、だからと言って理解できないものは理解できないのだ。昨今の茶髪普及率の高さには涙がにじむ。もしもこの子がちょっと社交性に問題ありな子だとしても、俺だけは味方になってやろう。そうでなくともお近づきになりたい。  そんなことを脳内で考えているとは感じさせない爽やかな笑顔で、俺は用件を告げる。 「いや、俺は客じゃなくてマスターに用事があって来た長谷(はせ)忠佳(ただよし)です。マスターがどなたか、教えてもらえる?」  すると、黒髪の彼女はにこりと笑みを深めて頷いた。 「そうでしたか。マスターはこちらです」  先に立って案内してくれる彼女に従って店の奥に進み、カウンターの前まで進む。誰もいないように見えたが、彼女は向こう側に声をかけた。 「マスター、こちらの長谷さんがマスターにご用があるそうです」  案内をしてくれた彼女がそう言うと、カウンターの向こうで誰かが立ち上がる音がする。  姿を表した男性は立ち上がりざまにかけていた眼鏡を外して、微笑んだ。 「いらっしゃいませ」  落ち着いた笑みを浮かべていたマスターは、俺の顔を見てぱちりとまばたきを一つ。少しして、思い至ったように笑った。 「ああ、君が長谷さんの息子さんだね。ぼくはここの店主をしている、稲垣です」  穏やかな声で自己紹介をしてくるマスターは、俺の親父と同じくらいの年のはずだ。しかし、どこから見ても田舎のおっさんという風体の親父と、紳士然としたマスターが同じ年齢だとはちょっと信じがたいものがある。  マスターの持つ大人の男、といった雰囲気に妙な感動を覚えながら改めて自己紹介する俺の後ろで、引き戸の開く音がする。  新たな客が席に着くのを見て、黒髪の彼女がそっと頭を下げてカウンターの向こうに入って行った。グラスに氷を入れている音が聞こえるから、お冷を用意しているのだろう。 「さて、せっかく来てもらったのだけど、まだお客さまがいるからね。悪いんだけど、少し待っていてもらえますか」  申し訳なさそうに眉を下げるマスターに、俺はいやいやと首を振った。 「いえ、時間も決めずに来た俺が悪いんです。それに、こういう雰囲気のあるお店ってはじめてだから、ゆっくり楽しんでみたいと思ってたんです」  気を使わせないために言ったのではなく、本心から出た言葉だった。すると、それが伝わったのか、あまりしつこくするのも良くないと思って引いたのか、マスターが頷いて席を勧めてくれた。  言われるままにカウンター席の一番奥まった席に腰を下ろす。 「待たせるお詫びに、コーヒーをごちそうさせてもらうね」  そう言ってマスターに渡された小さいアルバム型のメニューを受け取り、ぱらぱらとめくる。  予想以上に種類が多いことに驚き、どれがなにやらよくわからないので、あんまり苦くなくて飲みやすいやつどれですか、とマスターに選んでもらうのだった。
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