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マスターに選んでもらったコーヒーをすする。
ひとくち口に含んで、あ、うまい、と感じた。飲み込むと、なんとも言えない良い香りとやわらかい苦味、そして心地よい熱さを残していく。
俺はこれまで、コーヒーと言えば紙パックのコーヒー牛乳か缶コーヒーばかり飲んでいた。ちょっとレベルの高いやつを飲みたいときでも一杯ずつ淹れているコンビニのコーヒーという具合で、喫茶店のコーヒーなんて飲んだことが無かった。
だから、このコーヒーのうまさに驚いた。
苦いだけじゃなく、酸っぱいだけでもない。変な臭みもなければ、焦げくさいだけの熱くて黒い液体でもない。
二十年生きてきて、ようやく俺は本物のコーヒーを飲んだのだ。そして、はじめてコーヒーっておいしい飲み物だったと気がついた。これは、二十年生きてきた甲斐があると俺は思う。だって、おいしくない物をたくさん知ったから、今この瞬間にこのコーヒーのおいしさに気がつけたのだ。
俺がひとり静かに感動している間にも、客からの注文を受けてマスターはコーヒーを淹れていく。
一杯分ずつ豆を挽き、丁寧にゆっくり湯を注ぐ。
コーヒーに関する知識のまったくない俺には、マスターの淹れ方が上手いのか下手なのか、良い淹れ方なのかどうなのか講釈を垂れようにも判断がつかない。ただ、その所作がとても美しく、柄にもなく見惚れてしまった。
気づけば、俺と目を合わせて微笑んだマスターの手に湯気を立ちのぼらせるカップがある。どうやら見つめているうちに、コーヒーを淹れ終わっていたらしい。
見慣れぬ作業に子どものように見入っていたバツの悪さに、俺は照れ笑いを浮かべてマスターから視線をそらす。
すると、向けた視線の先に壁と同化するようにひっそりと置かれたマガジンラックを見つけた。本棚と呼ぶにはあまりに小さい、実用性よりも置き物としての外観を重視したような物である。
そんなささやかなマガジンラックに、不自然な挙動を取り繕うように手を伸ばし、雑誌を一冊引き抜いた。
偶然手に取ったのは、川釣りの本であった。釣りに興味を持ったことすらないが、開いてみると意外に楽しく読める。読む分には楽しいが、やってみようとは思わない。
その他にも科学雑誌や野菜の栽培法を記した雑誌など、てんでばらばらな内容の雑誌を抜き取っては眺めたり、真面目に読んでみたり。
時にページをめくり、時にコーヒーをすする。
特に得られるものは何もないけれど、何もしないという贅沢な時間を過ごす。コーヒーがすっかり空になり、手に取る雑誌もなくなったころには、なんとなく満ち足りた気持ちになっていた。
ふと、顔を上げると他の客はいない。店内にいるのは俺と黒髪の彼女とマスターだけ。二人はそれぞれ床を掃き掃除し、洗い物を片付けている。
周囲を見回す俺に気がついたのだろう。ほうきを片付けた彼女が、空のカップを回収にきた。
「下げさせていただきます」
優しい笑みを浮かべて言う姿は、理想の喫茶店店員という感じだ。カップを洗いに行く彼女の背にお礼を言って席を立つと、片付けを終えたのだろうマスターが濡れた手を拭いているのがカウンターの向こうに見えた。手が空いたなら話しかけても大丈夫だろう、と声をかける。
「すっかりリラックスしちゃいました。こういう個人の方がやってる喫茶店ってはじめてなんですけど、すごくいいところですね」
社交辞令でもなんでもなく本心からそう言うと、マスターは嬉しげに目尻にしわを寄せて笑った。
「そう言っていただけると、ぼくも嬉しいです。コーヒーを淹れる以外に能のない人間で、これだけを生き甲斐にやってるものだから」
そうして話しているうちに、黒髪の彼女も洗い物を終えたらしい。静かにマスターの横へ並ぶと、終わりました、と頭を下げる。
「はい、ありがとう。それじゃあ今日は、おしまいです。お疲れ様でした」
マスターがそう返事をして、ぱちんと手を合わせた瞬間。彼女が浮かべていた柔和な表情は、すとんと消えた。それはまるで、優しげな喫茶店の店員の面がはずれて、ぽろりと落ちたかのようだった。
その変貌ぶりに驚きはしたけれど、そういう女子はちょくちょく見たことがある。相手によって態度を変える彼女らのように、この黒髪の彼女も仕事中の顔をやめたのだろう。
これは素の表情が見られるチャンス、そう思った俺だったが、彼女の顔には何の感情も浮かんでこない。
初対面の人間に対する恥じらい、警戒からくる愛想笑いなど欠片も浮かんでいない。見知らぬ異性から見られている緊張、不快感による表情の強張りすら、どこにも認められない。
今の彼女を例えるならば糸の切れた操り人形。意思もなく、ただただそこに在るばかりの作り物。
つい先ほど好感を覚えたはずの顔であるのに、目の前にある彼女の顔からは、もう何も感じることはできなかった。
「和音(かずね)ちゃん、二階で話し合いをするから、彼を案内してあげてくれるかな」
彼女の変わりように驚いていると、困ったような笑みを浮かべたマスターがそう言った。和音ちゃん。可愛い名前だ。さっき見た柔らかな笑顔の彼女にぴったりの、優しい響きである。
俺が現実逃避気味にそんなことを考えていると、彼女がかくんと頭を前に倒した。いや、これはマスターの言葉に頷いたのか。あまりに感情のない整った顔は人形のようで、本当に糸が切れたのかと思ってどきっとした。これは確かに、対応に困るのも頷ける。
頭を倒したままふらっと向きを変える彼女に再びどきっとして、つい動きを見守ってしまう。波に流されるくらげのようにゆらりと歩き出した彼女の背中に、颯爽と仕事をこなす店員然とした先ほどまでの姿は重ならない。
俺が戸惑い立ち止まっているあいだに、彼女は店内隅にある観葉植物の横に移動している。入り口から見て右側、そちらには客席が無いためきちんと見ておらず気がつかなかったが、背の高い植木の影に隠れるようにして階段があった。
二階にも席があると言っていたが、なるほどあそこから登るのか。俺が感心していると、マスターが先に行くよう促してくる。
「ぼくはコーヒーを淹れてから上に行くので、先に行っててくれるかな。彼女もあそこで待っているし」
言われて見れば、黒髪の彼女はいまだ先ほどの場所に立っていた。けれどこちらに声をかけるでもなく、視線を向けるでもなく立っているだけなので、マスターに言われなければ待たれているとは気がつかないだろう。
彼女の元へ急ぎ、待たせたことを詫びる。
「ごめんね、待っててくれてありがとう」
にこりと笑って言うと、彼女はちらりと視線をあげてほんの少しだけ頭を傾けた。首をかしげた、のだろうか。動作の意図はいまいちわからないが、完全な無反応ではないことにほっとする。
表情の変化こそ皆無だが、反応があるならばできることもあるだろう。
先を歩く彼女に続いて階段をのぼる。焦げ茶色のつやの無い木材で作られた階段は、色あせてどこか軽そうに見える。その見た目のとおり、ずい分と古いものなのだろう。ときおり、足を乗せた箇所からぎし、みしと音がする。
部屋のすみに沿うように作られた階段はそれほど長いものでもなく、すぐに二階に着いた。階段の先にあるひと部屋だけのその部屋に扉はなく、暗がりの中へ彼女がするりと消えていく。
後を追って部屋に入ると、ぱちりという音と共に室内が明るく照らされた。一階よりも明るい光源に少しまぶしく感じながら、部屋の中に目をやる。
一番に目に付いたのは、片隅に置かれたグランドピアノ。一階の半分ほどしかない部屋の大部分を占めている。そのピアノの前と横に一つずつ机があり、それぞれ四人掛けの座席が設けられていた。
広い部屋ではないが、決して狭くは感じない。座席の数を少なくして、空間を広めに取っているからだろうか。ゆったり過ごせる個室といった雰囲気をかもし出している。
さて、室内を見渡したところで、することが無くなった。黒髪の彼女は部屋に入ってすぐ、右側にあるカーテンのかかった窓辺に立ち、波打つ布地と向きあっている。背を向けて黙り込んでいる人を相手に話しかけるのは、なかなか難しい。
俺はマスターが恋しくなってきた。
所在なくうろうろと視線を彷徨わせていると、部屋の左奥、ピアノの椅子に近い壁に、妙な飾りを見つけた。
何だろう、と興味の赴くままに近寄ってみる。
壁の腹くらいの高さの位置に金属製だろうか、重たそうな黒い扉がついている。大きさは電子レンジの扉くらいだが、重厚な見た目から薪オーブンを連想させる。しかし、壁に埋め込まれていて焚き口は無いし、煙突も見当たらないことから違う物だろう。
単なる飾りだろうか、それにしてはあまりに無骨だなとしげしげ眺めていると、突然その黒い扉から音がした。
ウィーン、という虫の羽音のような音。驚いて一歩下がる俺の前に、すっと人影が現れる。
さらに驚いてもう一歩下がってから、その人影が黒髪の彼女だと気がついた。俺がほっと安心すると同時に気恥ずかしさを覚えたとき、黒い扉から続いてチリン、と軽い鈴の音が響いた。
すると、黒髪の彼女が扉に手をかけぱかりとあけて、中からお盆を取り出した。なるほど、これは小型の昇降機だったらしい。
お盆の上には湯気の立つ三つのカップとカットケーキを乗せた皿が二枚。扉を開けた瞬間から、コーヒーの良い匂いが広がっている。
ケーキはガトーショコラだろうか、黒いシンプルな生地が白い皿に映え、その脇を飾る純白のクリームはたっぷりと用意され、真っ黒なケーキに柔らかく寄り添っている。
これは美味そうなケーキだな、と涎を飲み込んでいる場合ではない。勤務時間内ならばいざ知らず、女性を働かせてぼーっと突っ立っていては母ちゃんにどやされる。
「運ぶよ」
俺は彼女の前に立って素早く手を出し、お盆を持ち上げると近くにある机の上にてきとうに下ろす。そうして振り向けば、彼女は腕を上げた体制のままぴたりと動きを止めている。驚かせてしまっただろうか。申し訳なく思って、俺は声をかけた。
「ええと、ごめん。驚かせちゃったか。運ぶ場所はここでいい?」
すると、彼女からの返事がくる前に別の方向から応えがあった。
「そこでいいですよ。下でも良かったんですけどね、ときどきはその昇降機を動かしてあげないと、錆び付いてしまうから」
そう言いながら、マスターが部屋に入ってくる。
「さあ、二人とも好きに座ってケーキを食べて。余り物だけれど、おいしいはずですよ」
カップを一つ手に取り手近な椅子に腰掛けたマスターは、カップに鼻を寄せ香りを確かめ、真剣な顔で口に含む。こくりと飲み込んでから、うん、と頷いてにこりと笑った。
「コーヒーも、さっきとは違うものだけれどなかなか悪くないはずだから、飲んでみてください」
言われて、マスターの斜め向かいの席に座りカップに手を伸ばす。すると、一つは黒い液体、もう一つはコーヒー牛乳色をしている。これはたぶん俺が黒い方を貰えばいいんだろうけれど、もしかして違っていたら。
手を彷徨わせる俺に、マスターが気づいて立ち上がる。
「こちらのブラックが長谷くん。和音ちゃんにはミルク入りです」
言いながら、カップをそれぞれの手に渡す。
「和音ちゃん、それを持って椅子に座ってください。飲みながら話をするよ」
マスターが言うと、返事はしないまま黒髪の彼女が動いて一番近くにある椅子、ピアノの椅子に腰を下ろした。そうすると彼女、俺、マスターで一直線に並ぶためとても話しづらい。しかし、せっかく座ったものを移動させるのも何なので、俺が椅子を動かすことにした。
椅子をずらしてマスターの向かいに座り、全員が落ち着いたところで遠慮なくケーキの皿に手を伸ばす。一皿を彼女から近いテーブルの一角に置き、もう一皿を自分の前へ。スプーンはそれぞれの皿に乗せてあるので、ありがたく使わせていただく。
「いただきまっす」
まずはクリームを付けずに、ケーキのみを食べてみる。ケーキの三角形部分をフォークで刺して、ぱくりと一口。
口に入れて、驚いた。ほろほろ崩れるチョコレート生地は、口の中にほのかな苦味を残して消えていく。ねっとり舌にまとわりつく甘さを想像していただけに、甘みのないむしろ苦いとさえ言えるさらっとした口当たりのケーキに驚きを隠せない。
「ふふふ、驚いたでしょう。次はクリームと一緒に食べてみてください」
楽しそうに微笑むマスターに促され、次の一口はクリームをつけてみる。とろとろに柔らかい純白のクリームに黒い生地を潜らせれば、真白にやんわりと包み込まれた美味そうなケーキが出来上がった。
たっぷりつけたクリームが落ちないようにそうっと口に運び、一口で食べる。
一瞬、甘みのないクリームに舌が触れ、生地に行き着いた途端にほのかな甘みが溶け出した。さきほどは苦味さえ感じた生地は、名残惜しくなるようなほんのかすかな甘みを伝えては口の中でほどけて消えていく。
感じるそばから溶けては消えるはかない味に口を開けないでいる俺に、マスターは嬉しそうに微笑んだ。
「気に入ってもらえたようで、妻も喜びます。和音ちゃんも、食べてください」
そう言って、彼女が食べ始めたのを確認してからマスターは改めて口を開く。
「それでは、そろそろお話をはじめましょう」
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