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action3
カップを手に取り、ゆらゆらとコーヒーを回しながらマスターは口を開く。
「まずは、和音ちゃんのことから話そうか」
長くなりそうな予感を覚えて、俺は冷めないうちにとカップに口をつけた。これも、美味い。さっきのコーヒーとは確かに違うが、本当においしい。どんな風に違うのか、と聞かれると困るが、でも同じものでないことは確かだし、この甘くないけどほんのり甘いケーキにもすごく合う。
俺がケーキやコーヒーの美味さに感動している間に、マスターの話ははじまっていた。
黒髪の彼女、木浦(きうら)和音(かずね)ちゃんは、この春に高校を卒業したばかりの十八歳。ごく普通の一般家庭に生まれた女の子。二つ上の姉と二つ下の妹が一人ずついる三人姉妹の真ん中で、小さな頃から手がかからない子だったという。物心がついた頃には姉の真似をしてなんでも自分で済ませてしまっていたから、下の子に手を焼いていた親は口ぐせのように「和音は手がかからなくて助かる」と言っていた。
その言葉で、素直な和音はさらに姉の真似をするようになったという。姉がピアノを習えば和音も習い、姉が勉強を頑張れば和音も頑張った。小さな少女が姉の真似をする様は微笑ましく、髪型から仕草、食べ物の好みまで姉そっくりでも、誰も不思議に思わなかった。
それが崩れたのは、姉が高校生になってしばらく経ってから。和音が中学三年生の時だった。
高校生なり、自分の進みたい道を考えるようになった姉は、進路のことでたびたび両親と衝突した。興味を持った仕事について調べていると、その仕事は時間が不規則だ、こちらは収入が安定しない、そんな夢ばかり語っていないで現実的な話をしなさい、とだめ出しばかり。腹を立てた姉は両親と大げんかになり、家を飛び出した。
姉の行き先は母方の叔父の店、つまりマスターの元だと分かっていたから、両親は安心して分からず屋の娘に対する憤りに身を任せ、和音に言った。
「和音はいい子だから、あんな分からず屋になっちゃだめよ」
そうして、たまたまテレビで放送していたドラマの真面目で読書家、ちょっぴり運動は苦手だけれど素直で優しい優等生という役柄の子を示してさらに続けた。
「あなたはこの子みたいに、素直な子でいてね」
この日から、和音はがらりと性格を変えた。
以前は、姉にそっくりな明るく活発でちょっと勉強は苦手だけど、面倒見のいい女の子だった。それが、唐突に本ばかり読むおとなしい子になり、周囲を驚かせた。しかし、勉強に意欲的になり成績も向上したため、大人たちはむしろ良い変化だと考えた。姉のことから将来を考え、生活態度を改めたのだろう、と。
そうこうしているうちに、姉が高校を卒業した。彼女はやりたいことを貫いて、親の反対も聞き入れずに家を出た。奨学金とアルバイトで生活しつつ、希望の専門学校に通っているらしい。
最後まで反対していた両親は、長女がいなくなったことが堪えたのだろう。一年も経たないうちに折れて、娘の進路を応援するようになった。
そうして、和音の進路について最後の進路調査が行われた、高校三年の夏。姉のことで反省した両親は、和音に言ったのだ。
「あなたの進路だから、あなたに任せるよ。自分らしく、好きなことをやりなさい」
それは、姉のときに懲りた両親が出した結論だった。子どもを信じて任せようという、親心。あれやこれやと口出しされるのを嫌う年ごろの子ならば、喜んだかもしれない。なんて理解のある親だろう、と両親に感謝したかもしれない。
しかし、和音は困惑した。
なぜならば、あのドラマは高校生の日時を描いたもの。高校卒業後の進路について、描写されていなかったからだ。
物心つくころから姉のように振舞ってきた和音は、いつからか人の有り様を真似るようになった。周囲がそれを喜んだのもいけなかったのだろう。そして、言われるがままにテレビの中の優等生のように生活を変えて、つい最近まで暮らしてきた。それが、ある日突然に好きに生きろと言われて、どうして良いかわからなかったのだろう。
ぴたりと動きを止めて、表情も無くしてしまった。
驚いたのは両親だ。姉よりも手を焼かせないだろうと思っていた次女が、素直で問題らしい問題も無いと思っていた次女の全てが、実は演じているだけだったのだから。
その日から、両親は必死に次女に言った。あなたがあなたらしくあればいい。成績が悪くてもいい。お姉ちゃんらしくなくてもい。あなたがやりたいことをやりたいようにやって、幸せになってくれればそれでいいのだ、と。
けれども、次女は何を言われてもほんの少し首をかしげるばかり。これを食べなさい、何時まで寝なさい、と細かく指示を出せば従ったから生活はできたけれど、それだけだった。
高校に通い、言われた通りの生活を送り、和音は高校三年の冬を迎えた。
時間が経過してもて改善されない和音の様子に、両親はすっかり参ってしまった。自分たちが褒めたのがいけなかったのか、もういっそ、新たな役柄を指示してやったほうが幸せなのではないか。
思い悩む家族を見て、動いたのは三女だった。
彼女は長女に相談し、叔父に頼った。相談された長女は家族全員と叔父を集めて、言ったのだ。
「とりあえず、和音は高校卒業したら叔父さんとこでバイトしながら進路を考えるって感じでやってみたら? 無理に今すぐ全部、決めないでぼちぼち決めてけばいいでしょ。色んな人と接するうちに、なんか変わるかもしれないしさ」
それに対して大人たちが反対しなかったため、和音は叔父の店、つまりこの喫茶店で働いているのだという。
そこまで話したところで、マスターは苦笑いを浮かべた。
「そういう訳で、春からうちの店で働いてもらっているんだけどね。本当にただ働いてもらっているだけだから、正直なところ、彼女のためになっているのかわからなくて。優秀な喫茶店員役をしている役者さんを真似ているらしくて、ぼくとしてはとても助かっているのだけど」
叔父としてなにかできることはないか、とマスターが悩んでいたところに、俺の親父が首を突っ込んだということだろう。
この店の客層は、ほんの数時間見ただけだから正確なことはわからないが、たぶん年齢の高めな人が多いと思う。それも、一人でゆっくりとコーヒーを楽しみたい壮年男性が一番多いのではないだろうか。落ち着いた店の雰囲気から、俺はそう考える。
その中で一人、若い女の子が働いている。客の年齢を考えれば、親子ほどの差があるだろう。これは話しかけ辛い。そのうえ、和音は手際よく仕事をこなしてしまう。ちょっと失敗してしまった、くらいの隙があれば客との距離も縮まりやすいのだろうが、あまり期待できないだろう。
春から働いているということだが、就業時間外の和音の様子に変化は見られないらしいので、マスターとしては何とかしてあげたい、そのための新しい刺激を与えてみよう、ということらしい。
そういうことならば、俺こそ何ができるとも思えないが、年の近い他人と接することで変化があるかもしれない。とくに変化が無くても、俺としては使うあてもなく持て余している暇が処分できるわけだし、その時間には見た目だけなら好みにどんぴしゃりな女の子もいるわけである。おまけに美味い菓子までついてくる。いいことづくめで、申し訳ないくらいだ。
「俺なんかでも役に立つのかわからないけど、なにがきっかけになるかわかりませんしね。マスターと木浦さんさえよければ、ぜひ一緒に働かせてもらいたいです」
俺がそう言うと、マスターは嬉しそうに笑う。にこにこと目じりにしわの寄る、優しい笑い方だ。俳優のような美形というわけではないけれど、なんだかかっこいい歳の取り方だと思う。
「ありがとう。それでは、これからよろしくね」
マスターの言葉にこちらこそ、と返してから、座ったまま和音に体ごと向き直る。
和音の顔をじっと見るけれど、渡されたカップを両手で抱え、定期的に中身を口に運ぶ彼女とは視線が合わない。何も言われないのをいいことに、そのまましばらく彼女の顔を見つめてみる。
しかしまあ、もったいない。目鼻立ちは優しく整っていて、柔和な表情を浮かべたならばそれだけで十分に可愛くなるだろうに。その顔には、何もない。表情がないだけで、まるで血の通わない人形のように思えてしまうのだから、もったいない。これでは、せっかくの綺麗な黒髪が宝の持ちぐされである。
笑わなくてもいいから、せめて表情をつけてほしい。生気の感じらない現状では、いくら美しい髪をしていようと整った造作をしていようと、精巧に作られたマネキンのようにしか見えない。画竜点睛を欠いている。
そのために俺にできることなどあるのかわからないが、やるだけやってみようと思う。
手にしたカップはもう空だったけれど、気にせず持って立ち上がる。和音の前まで行って、その手の中にあるカップに、と自分の持つカップをこつりと当てる。
「木浦さん、俺は長谷と言います。これからよろしく」
そう言ってカップを持ち上げれば、それを目で追うように和音の顔が上がる。俺を見上げてくるその目に生気はないけれど、笑った顔のかわいさを知ってしまったから、まあ、頑張ってみよう。ケーキもコーヒーも、おいしいことだし。
頭の中でそう考えていたのが顔に出ていたのだろうか。マスターが、良かったらケーキのおかわり、いかがですか? と聞いてきたので、俺は素直にいただくことにしたのだった。
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