空中5万5000フィートの走馬灯

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空中5万5000フィートの走馬灯

 私は、高度5万5千フィートのあたりを生身で空気を切り裂いて進んでいる。物理は得意でないが、恐らく5分後には、私の身体は、はじめに前頭葉のあたりが次いで頚椎が、最後は爪先が地に当たって砕けているのだろう。それがアスファルトだろうと、腐葉土だろうと、この場に及んでは無意味な違いである。いや、この状況に科学的な理屈を語るのは間違いであろうか。かつてこの辺りをコンコルドという超音速旅客機が飛行していたという事実があるのだから、まだここは生の領域であることは確かである。ただ、それとの明らかな相違点と言えば、地面と垂直に進んでいるということである。約16キロの空の旅の終わりと、人生の終わりが、イコールの記号を跨いで並んでいる。それを目の当たりにして正気でいられるものだろうか。存外、死を目前にした、焦燥感や恐怖は、所詮は御伽噺の面白味のある演出でしかないらしい。私は、至極冷静に、過去の記憶に想いを馳せる。  顎を引いて真っ直ぐ前に向けた目線は、街ゆく紳士淑女の腹部の辺りにある。チュッパチャプスを舌で包み込んで、私は横目でアンティークショップのウィンドウの中に展示されている小さなテディ・ベアを捉えた。ビリジアンの木製のドアを開けると来店を知らせるベルが鳴る。店員は老婦人一人のようで、彼女はアンティークレジスターの前で居眠りをしている。雰囲気にアンマッチな監視カメラは設置されていないようだ。店内を一瞥して、陳列されているテディ・ベアを抱き上げた。テディは赤いギンガムチェックのリボンを着けている。これほどにも魅力のあるクマは彼女だけだと思った。彼女を片手に抱きしめて、退店を知らせるベルを鳴らした。  これが鮮明な記憶の中では一番古い。幼少より、私は善悪の区別がつかなかった。どうして人のものを盗ってはいけないの。と、生来理屈ばかり考える性格だったからである。少々擁護しすぎだろうか。屁理屈を多く並べる性格だったからである。子供というのは、時に恐ろしく薄情で、それ故とても人間味があって、それが愛しさの要素なのが皮肉だな、とつくづく思うのだ。その要素を大人になってもなお大切にベッドの片隅に置き続けていたら、汚れた思慮深さに変質してしまうのもまた皮肉なのである。そう言えば、こんな後日談があった。赤ギンガム・テディは、母親に、離婚した父親からこっそり買ってもらったものだと勘違いをされて捨てられてしまった。そのとき一緒に人間味まで捨ててくれていたら、私は今頃、せいぜい足の一本ぐらいはしっかりと地面を踏んでいたことだろう。母の教えによれば、悪銭身に付かずという諺はただの綺麗事にすぎなく、身につけた過程はその後に及んで影響してくることなどあり得ない、と。それを思えば、この汚いまでの思慮深さは生来のものではなかったか。そんな母もまた、親に道徳を殺された被害者なのだろうか。  私がティーンエイジャーだった頃、情緒の不安定によるものか否か寝付きに少々時間を要した時期があった。リラックスの手がかりでも探しに、階段を降りてゆく。リビングに漂う臙脂色が暖色の印象を与えている。どうやら母はまだ寝室に入っていないようだ。リビングテーブルの上には、なにやら収支のデータがまとめられた帳簿がテントを張っている。それと並んで、質素な茶封筒が横たわっていた。母はお手洗いにでも行って席を外しているようだ。そっと茶封筒の中を覗き見た。そこには約10枚の札が重なって束を為している。母の1ヶ月分の給料といったところだろうか。上の2、3枚を引き抜いてガウンのポケットにねじ込んだ。ホットチョコレートも作らずに二階の自室へ駆け上がった。  この話であるが、まず第一に、後に問題として浮上してくることはなかった。母は、この事を度外視して話題として持ち出すことは決してしなかったのだ。訂正する。度外視していたという解釈はあまりに虫が良すぎた。母は私の行動、言動、人脈その全てに手を煩わせていたのである。私が年少の頃こそ、気丈に振る舞い少々非道なことを教え込んではぞんざいに私を育てたものだが、父との離婚で私を女手一つで育てなければならないとなった途端今までの勝気な姿勢は一転、酒に縋る未亡人みたいな弱気な女性になってしまったのだ。以前の母なら気にも止めなかったであろう、私の窃盗癖も、母の心を蝕んで酒浸りにする悪魔と化してしまった始末である。幼少期の育て方への背徳感からか、将又、自分へ責任転嫁されては困るという焦りからか、私の常識を正そうとはしなかったのである。ついに転機の訪れぬまま成人してしまった野蛮人は、その期に及んで己を正す術すら見出せなかったのである。  人と関わらないと、己の嫌味な部分だけが露呈して空気に触れて酸化していくばかりで、それは時間の経過に比例して酷くなっていくのは言うまでもない。大学のキャンパスで一人陰気な雰囲気を醸し出す私を、人は異常者だ、犯罪者予備軍だと噂する。耳を聾するようにけたたましく鳴り響く陰口は、ただでさえ捻くれたDNAが絡み合ってできただけの私を非行へと走らせてしまったのだ。青春の少年少女の戯事を、こんなにも素直に受け止めてしまった自分を恥ずべきであるのは今であれば痛むほどに理解できるのだが。後悔先にたたずとはこういったことを言う。  某美術大学のキャンパスにて。ブックバンドで束ねた数冊のテキストとともにウィンドウズのノートパソコンを小脇に挟めて廊下を小走りで進んでいた。廊下と言う存在は、どうも生理的に好かない。いっそ部屋と部屋が直接連結していてはいけないものか。ただでさえ横に短い空間なのに端には、聞き手にとってはくだらない身の上話に花を咲かせる女子の群れが屯っている。それに、向かって歩いてくる人に顔を見られずに進むのは困難である。突き当たりはまだ先だろうか。安眠が一向に得られぬ日々を拗らせていた私は、大して頭も働かせずに講義室のドアを勢いよく開けた。講堂は音の響く洞窟みたいに伽藍堂である。どうやら講義のタイムテーブルを見誤ったようであった。ずらりと並ぶ空席は、一列遠ざかるごとに下へと降っている。人のいない講堂自体、滅多に見ることはないと数秒しげしげと見つめたが、明らかに異色のものが目に留まった。大袈裟なスクリーン背景の舞台袖で、准教授が淡色の唇に噛み付いている。准教授は中年と呼ぶべきか老人と呼ぶべきか、頭髪の様子など総じて見て老人だろうか、といった風貌である。老いた欲をゆっくりと噛み締めて味わっている。まるでブラウン管テレビに映る牛の品定めを見ているような、スパイシーな感覚に陥った。その描写を矯めつ眇めつ眺めている。准教授の視線がこちらを向いていることに気がついた瞬間体内に微弱な電流が走ったが、その感覚は快楽であるとも錯覚できた。荒い息のまま講堂を出ようと中腰で戸に手を掛けたが、准教授はこちらに手をかざしてそれを制し、そして繋がりを噛み切ってしまった。淡い唇の美女は帰れと促されたのか左サイドのドアから出ていった。准教授に手招かれて私は空席の群れを突っ切ってスクリーンの前に立った。どうしてここへ来たのかと問われるものだと思い必死で頭を捻ったが、准教授は黙って私の顔にかかった前髪を払った。私の瞳はマジックーミラーのようなもので、こちらから世界を見渡せる一方、誰にもその卑屈な愛嬌は見えていなかったのである。ふいに准教授は吸い込まれるようにして、私の紫色の唇を甘く噛みだした。私がもしバージンでもなければ、自尊心のかけらもない人間でないならば、これに茫然自失していたのであろうが所詮は浮かれたならず者である。私は青い果実に成り切って、黙ってそれを受け止めたのだ。  描写は切り替わって、准教授の所有する厩舎から小火が発生している。それを近く、かつ安全を確認した位置から私は見ている。獰飆の吹き荒れる夜だったばっかりに、人様のお家に燃え移るのではと、手に汗握りながら震えていた。あの一件の後変わったことといえば、バージンと引き換えに自尊心を得たことだろうか。准教授とは、度々邸宅に招かれるほどの関係となった。准教授としてはたくさんの”教え子”の一人に過ぎなかったのであろうが、私はめっぽう彼に執着してしまったのだ。この日は招かれてもいないのに訪ねて来てしまった。リビングルームを晒しているウインドウガラスに重なるカーテンの隙間からは暖色の間接照明の灯火が漏れ出している。ふと彼が裏庭で綺麗な白馬を所有していると話していたことを思い出す。ただでさえ平坦で無い芝の上なのに慣れないハイヒールが足取りの覚束なさを助長している。白馬は過保護な厩舎に守られ、固く閉ざされた錠は開ける術が無い。彼の心を引き付けてやまないその美しい白馬とやらの家畜をどんな手段を以ってしてもお目にかけたいと思った次第である。ちゃちで低い厩舎の屋根の縁には、梯子が掛けられている。土踏まずのあたりの凹みとヒールの間に梯子の格を挟み込んで、8段上りきった。厩舎としては珍しく、天窓が設けられている。土埃で汚れたガラスに片手を掛けて身を預けると、ガタンと窓が下へ折り込まれてしまったのだ。咄嗟のことで驚いたのだが、その感情が治ると天窓に身体を突っ込んで天井の梁に両足を掛けてしまった。両足の傍に両手をついて、思い切って両足を宙へ落として両手を離した。中には白色の蛍光灯が点っていて、それに照らされた筋肉質な白馬が惰眠している。単体で見れば大層美しいのであろうが、周りに散らばった糞の視覚的効果のせいかとてつもなく汚らわしく見えてしまったのである。家畜の分際で彼に養われているこれが、どうしても許せなかったのである。ブロンドの鬣に、凹凸のはっきりとした筋肉質の脚、180度宙に返って目蓋に当たる白い睫毛に青い虹彩。どうしても妬み僻まずにはいられなかった、だからこうなったのだ。内側から錠を解いて外に出た、梯子を登ってヒールを足からもぎ取った、それで厩舎から生えた電線に殴りかかった、それだけである、大したことはしていない。梯子から降りて、身なりを整え、その場を去った。描写が狂って場面転換。  ここは饐えた空気の漂うどこかだ。漠然とした既視感。記憶の中の情景にも、所在地が記載されていないことがあるようだ。湿った木造の空間には棺ほどの大きさの麻袋が多く並んでいる。ちょうど足下の麻袋の紐を解いた。麻袋の中には大量のトウモロコシが詰め込まれていたのである。好奇心に心を踊らせていた私はそれに心底落胆する。麻袋を必要以上に床に押し付けて、朽ちた木の階段の踏んだ。そうであった、あそこは海面を滑る木造船の貨物室であった。地下から這い上がってくると、そこには安っぽいネオンに照らされた数人の娼婦みたいな身なりの女性が酒を嗜んでいるではないか。麦酒とコーン・ウイスキーのどちらが好みかと問われて咄嗟に拒んだが、彼らの饒舌さに乗せられ気付いたら図に乗った閑人が出来上がっていた。錯乱が血流を回している状態で、私の人格は驚くほどに外交的になっていた。ただし、そこで語られている自分の生い立ちや、過去の栄光なんてものは胡散臭いノンフィクション映画みたいで聞くに耐えない。勿論、そのような事実がなど神掛けてないが。美女たちは外見に反して純粋にものを受け取る性格なのか、将又嫌味のニュアンスを受け取り損ねただけなのか。彼らは私を上座に座らせ持ち上げたのだ。美女たちは私を寝室へと案内した。古い船舶の臥房とは思えないラグジュアリーな調度品が揃えられている。洗練されたレース生地の天蓋カーテンの中には清潔なベッドが横たわっている。案内の女性はすぐにデッキの酒場に出戻るものかと思ったのだが、躊躇なく部屋に入ってきた。女性は徐にベッドに腰掛け、タバコに火を付け3ミリほど灰に変えるとナイトテーブルにあったワインの飲み止しに沈めた。酒の廻った私は彼女の白い腕に人差し指を伝わせた。蛇行して彼女の中指にたどり着く。ストレスで噛み切った爪と紅く光沢のあるネイルが重なり合った。酔眼で見た彼女の毛筋は濡れている。宴の夜も朧げに、麦酒で酔いを覚ました頃には一人惨めな自分しか無かった。バスローブの着こなしも蔑ろにして、船内をくまなく見たのだが人の気配はない。酒にヘロインでも仕込まれたのかと疑ったが私の見ている現実に快楽は伴わない。快楽のない禁断症状など賞品のないビンゴ大会みたいにくだらない。酒が切れると急激に餓死の恐怖が骨を震わせた。身体はこんな私を生かそうとしている。例の貨物室に来た。あの時の麻袋に手を掛ける。私を落胆させたトウモロコシの姿はない。crystal-meth。印字された小袋に、荒く削ったかき氷みたいな物質が入っている。それが麻袋から反吐が出そうなほど詰まっている。記憶の映像が少々乱れる、一瞬青空の情景が映る、雲を貫いたあたりまで落ちた。   この世は私への憎悪で成り立っている。美女たちは私の不細工な武勇伝を嘲笑していた。それが苛立ちの捌け口になるのならば、とてつもない光栄なのであるが。それが自分の価値だと錯覚してしまう。大雑把に工作バサミで断ち切られた縮れた黒髪は、どのように施しても鈍臭さが払拭しきれない。隔世遺伝の団子鼻は、何度養女と噂されたことだろうか。濁り酒をどこまで流し込もうと賢人にはなれないのである。努力の才能にも、能力の優劣はあって、どうしても卑屈に走って、髪をぐしゃぐしゃにして考えれど、結論はどうも美人に遠く及ばない。精神を多少弱らせて考えれど、余計に下卑た私が人を不快にするばかりである。踠けば踠くほど首が締まる仕組みになっているみたいである。生きろという言葉ほど鋭利なポジティブが他にあるだろうか。貴人だった祖父の恩誼に報いる日を夢見て、これまでどうにか、息をしていたのである。  幾ばく時間は流れたが、海原に終わりは見えない。羅針盤にメルカトル式の海図に舵のあるブリッジすら見つからない。一歩踏み出すのに足首が締め殺されそうな圧がかかる。ただ長いだけの嫌味な廊下を徘徊していた私の背中に戦慄のイメージが伝わってくる。思い出した。振り返ってはいけない。これは悪夢の記憶である、現実でない。それを知っていたところでこれは、既存の事実なのだから。記憶でしかないのだから。腕すらも今の意思では動かなのだから。懺悔の映画なのだから。目を閉じる自由すらないのだから。一瞬青い背景の描写を挟んで、赤い彼女が飛び散った。  声帯が焼かれるほどの絶叫とともに長い廊下を突っ走っている。メタンフェタミンはどこだ。あるいはヘロインでも、なんでも良い。この際選り好みなどしない。これが現実でないと。思い出させてくれればそれでいい。貨物室に続く階段を貧相な乳房をすり潰すように這い蹲って降りた。あの麻袋に手を掛けた。一瞬背筋は凍りついた。だが、あれだ。あの時の記憶である。安堵のフラッシュバックが。脳に流れた。あの女が。頭を袋の口の方に向けて、眠っている。それだけである。数日前の情事に疲れているのだろう。安心とともに極度の空腹はやってくる。トウモロコシはどの袋だったか。隣の麻袋を開けた。こちらには、パステルグリーンのベアトップを身につけた女性が眠っている。起こしては申し訳ないので、そっと袋を閉じた。或いは、あれはどこにあるのか。鼻腔を突き抜けて、脳の血管が浮き出て太くなるような。あけれどあけれど、出てくるのは夢心地の女だけ、それは今、求めてないのに。50開けても、全部同じだから、落ち込んだ。    ただ私の不運は、愛情の裏側に必ず、憎悪が伴うことだけである。それ以上の事実はない。  美女も、骨の白馬も、彼も、母も、どうしても干渉せずにはいられなかったのである。例の如く彼らに「盗難」をはたらいてしまった次第である。 挙句”命”まで盗難したことを詳細に語れば、眠りながらの死すら与えられないであろうから口を噤んでおきましょうか。    まず第一に愛嬌を振りまくことせずとも自ずから愛してくださった母には心からのキスを、そして贖罪を。どうしても道を外れずにはいられなかったのです。あなたの愛情は好意のものでなく、無意識に私が盗んでしまったものならば来世を捧げて返します。行く末の苦痛に耐えかねても、帰ってくることなどできませんからご安心を。    5万5000フィートの始まりからわずか5分経過の頃である。罪滅ぼしの走馬灯は燃え尽きてしまった模様。懺悔も虚しく私の魂はこの世の科学を全否定して時間すら流れず地に堕ちた。地で停まれば幸いであるが。   
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