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終業時刻5分前
株式会社ERソリューションの終業時刻は、18時に設定されている。
この時間を超えて残業する人は勿論いるし、律儀に18時に仕事を終えている人が、多いとは言わない。
しかし仕事をきっちり終えていれば、18時にさっさと帰っても誰も文句を言わない。
ここは、そういう会社だ。
ERソリューションの情報システム部所属の私、井野成美は、終業前のメールチェックを終えてメーラーを終了した。
今は17時55分。終業時刻まであと5分。
あとの5分は仕事の後片付けに使って、18時になったら席を立つ。そういう心算でいた。
何しろこの後、憧れの総務部の高橋さんとデートなのだ。
だから何としてでも、18時に仕事を終わらせて退勤しよう。
そう、思っていたのに。
「井野さーん、第二開発部の黒原さんからお電話でーす」
後輩の佐藤君が内線電話を手にやってくる。
私は後片付けの手を止めて、深く、深くため息をついた。
なんで、こんなタイミングで。
第二開発部の黒原さんは、トラブル体質で知られている。ブルースクリーンは日常茶飯事、画面のブラックアウトやハードウェアトラブルも度々起こしている。
どうせこの電話も、めんどくさいトラブルを発生させて、助けを求めに来たものに違いないのだ。
眉間にうっすらしわを寄せながら、私は佐藤君に手を差し出した。
「ありがとう。貸して」
「はい、お願いします」
出した手の上に、ぽんと乗せられるPHS。所作がぞんざいなことになんて、今は文句を言っていられない。佐藤君だってさっさと帰りたいのだ。
PHSの受話部を耳に当て、努めて平静に声を出す。
「はーい、情シスの井野です」
『あ、井野さん? すみません、パソコンが急にネットに繋がらなくなって』
果たして、受話部から黒原さんの困り果てた声が聞こえてきた。
そして告げられたトラブルの内容に、私は目を見張る。
ネットワークトラブル。随分とクリティカルな内容だ。
我が社の仕事はコンピューターで成り立っている。今日のコンピューターは大概ネットワークに接続されている。故にネットワークにトラブルが発生したら仕事にならないのだ。
予想通り、緊急性のある、ともすればめんどくさいトラブルだ。内心でため息を付きながら、私は椅子から立ち上がる。
「あー、分かりました、すぐに行きます」
『すみません、お願いします』
黒原さんの返答を受けて内線電話を切り、佐藤君にPHSを返した私は、すぐさま第二開発部のフロアに向かった。2階西側、壁際の島。足早に向かえば、右往左往する黒原さんの姿はすぐ目に入った。
「お待たせしました。どんな状況です?」
「すみません定時前に。急にネットワークのアイコンにバッテンが……」
島のそばに寄って黒原さんに声をかけると、恐縮しきりの彼がぺこりと頭を下げた。
ディスプレイの右下、タスクバーに表示されているネットワークアダプタのステータス。確かに赤いバッテンが付いている。不通であるサインだ。
パソコンの裏側を覗き込むが、ケーブルはちゃんと刺さっている。
「んー? LANケーブルは……刺さってるか」
「はい、特に何もいじっていないんですが……」
画面を覗き込んで眉間にしわを寄せる私の後ろで、黒原さんも恐縮する。それはそうだろう、こんな時間にネットワークトラブルだなんて、対応する側に迷惑しかかからない。
とはいえこの問題を放置してさっさと帰る、なんてことも出来ないわけで。私は黒原さんが使う椅子を、さっと引いた。
「分かりました、お借りしますね」
「お願いします」
座席の主の了承を得て、私は黒原さんのパソコンの状況を手早く確認した。
ネットワークアダプタが死んではいないか、ドライバーが無効になっていないか、をざっと確認する。
「ネットワークアダプタは生きてる、ドライバのエラーも無し、アダプタの設定は……あ」
「何か分かりましたか?」
コントロールパネルを立ち上げ、アダプタの設定画面を見たところで、私が声を上げる。それを聞いて画面を覗き込んだ黒原さんに、私は振り向きながら画面の一点を指差した。
「これ、ケーブルが接続されていない扱いになっていますね」
「えぇっ」
私の言葉に、黒原さんが戸惑いの声を上げる。
画面には有線ネットワークのアダプタのアイコンが表示されており、そこにも赤いバッテン。そして但し書きされたステータスに、「ネットワークケーブルが接続されていません」の一文が表示されている。
物理的にケーブルが繋がっていないか、断線したかした時に出てくるエラーだ。
ケーブルはパソコンに繋がっていることは先程確認した。ということは。
「断線したかな……ケーブル交換しましょう、ハブはどこですか?」
「あ、そこの机とそこの机の間の床にあります」
黒原さんの言葉を聞いて、私は椅子から立ち上がる。黒原さんのデスクの隣、島の中央部のデスクの下に潜り込んだ。
「ここか……あれ?」
そしてデスクの下、向かい合わせになったデスクとデスクの間の隙間に置かれたネットワークハブを発見した私は、おや、と声を上げた。
一本、ハブのポートから抜けているケーブルがある。
「黒原さん、すみません」
「はい?」
「パソコンに繋がってる方のケーブル、ちょっと引っ張ってもらえません?」
デスクの下に潜り込んだまま、私は黒原さんに声をかける。
そして黒原さんがパソコンに繋がっているケーブルを軽く引くと、抜けていたケーブルが床のカーペットの上を移動した。
こいつだ。
「やっぱりこれか。抜けてました」
「えぇっ」
私の言葉に、黒原さんがもう一度驚いた声を上げた。
移動したケーブルを手に取ると、コネクタの爪が折れていることが分かった。恐らく、何らかの拍子に抜けてしまったのだろう。
もう一度、ハブの空いているポートにコネクタを差し込む。問題がなければ、これでまたネットワークは繋がったはずだ。
「誰かが足で引っ掛けたかしたんでしょうね。ケーブルの爪も折れてますし、明日変えときます」
「すみません、ありがとうございます」
デスクの下から這い出して、私は黒原さんに声をかける。
本当ならこのタイミングで新しいケーブルを持ってきて、交換をしたいところだが、時間的にそうも言っていられない。替えのケーブルを取りに行く間に、終業のチャイムが鳴ってしまう。
黒原さんも黒原さんで、この程度の原因で呼びつけてしまったのが申し訳ない様子で。小さくした身体をますます小さくして、私に頭を下げた。
その姿に申し訳ないと思いこそすれ、怒ることはない。この程度の原因で、この程度の処置で解決するなら、十分だ。
「いえ、この手の原因で安心しました。それじゃ、時間も時間なので」
「はい、すみませんでした。ありがとうございます」
こくりと頷いて、私は自分の席に戻るべく歩き出した。後片付けがまだなのだ。早くしないとデートに差し障る。
とはいえ、ひと仕事を終えた私の気持ちは晴れやかだ。
「よーし、終わった終わった! もう何かあっても何もしないぞー」
そうして私はジャケットの裾を直しながら、沸き立つ気持ちを抑えながら自分の席に戻る。
ちょうど連絡をもらってから5分が経って、終業を告げるチャイムの音が、私の頭上を通り過ぎていった。
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