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1.独身記念日
あのとき俺の周りに吹いた風を、今でもはっきりと覚えている。
その風はとても小さくて弱い風だった。
爪先から頭まで一周渦巻いて、周りの物を全部攫っていった。
衣類と、机と、タンスと、テレビと、それから、聖那と。
「悪いと思ってる。
でも牛尾君だって、何も悪くないというと嘘になるでしょう?
貴方が蜜柑に醤油をかけて焼いたとき、
貴方とは一緒にいられないって思ったの。だから」
無論、嘘である。
俺があのとき蜜柑に醤油をかけていようが、
ヨーグルトをかけていようが、
聖那は児島との間に子を孕ませていたに違いないのだ。
隣で座って縮こまっている児島は、
聖那の言うことを笑うでも無く諭すでもなく、
ただ時々落ちてくる眼鏡を上げることでこの場をやり過ごそうとしていた。
あの小柄で気弱そうな児島が言ったサヨナラを、今でも忘れない。
急行電車が通過していくように、
当たり前のように目の前を通り過ぎて行ったのだ。
この風を感じたのは初めてでは無かった。
小学生のとき、幼馴染の愛ちゃんが、
教壇の前に出て転校の挨拶をしていたとき。
矢張り心の中に渦巻いていた小さな風は、
愛ちゃんと一緒にどこかへ消えて行った。
そんな風も、生きていれば幾度となく感じる。
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