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10. ぬいぐるみ
マンションの前に到着し、彼は「腹減った〜」と言いながらポケットの中から鍵を取り出す。
部屋に入るとすぐに、菅原さんは「何食べたい?」と尋ねる。「何でもいいよ」という答えが1番困らせるのは分かっているが、食事にこだわりがない僕は、そう答えざるを得ない。
「…唐揚げでいい?なんか無性に食べたくなってきた」菅原さんは冷蔵庫を開け、作る準備に取り掛かる。僕も「何か手伝うよ」と言い、続けて手を洗った。
結局、僕は米を炊くくらいしかせず、菅原さんは手際よく唐揚げとスープとサラダを作った。出来上がった料理を、テーブルに置く。
「早く食べよ!」
彼は相当空腹だったようで、すぐに座り、僕を急かす。
テーブルの上には、皿に盛られた唐揚げ、色とりどりのサラダ、野菜たっぷりのスープ、白米、作り置きの煮物が並んでいる。
「いつもこんな感じで作ってるの?」
「まぁ、不規則な生活送ってると、栄養とか偏りがちになるからね〜…あ、でもカタカナ語のよく分からない外国料理みたいなのは流石に作れないよ?」
目の前の料理のクオリティと彼の意外な家庭的な一面を知り、僕は驚く。
僕よりも忙しい生活を送っているであろう菅原さんの生活力を目の当たりにし、家と職場の往復くらいで"忙しい"と言い訳をして、面倒な事を避けながら生活してきた自分自身が情けなく思えてきた。僕ももっとしっかりしなければ…
無意識に乾杯するかのように「いただきます」と言い、各々箸をつける。
唐揚げを口にした瞬間、香ばしい香りと肉汁が広がり、思わず笑みが溢れる。僕はその美味しさをうまく言葉にできなかったが、菅原さんは僕の方を見て「ほんと美味しそうに食べるね」と嬉しそうに笑う。彼が作る料理はどれも絶品で、箸を止める事なく食べ続ける。
「いや〜でも、自分が食べたい!って思った時に食べたい物が食べられる幸福感は、実家を離れた人にしか分からないよね」
そう言う菅原さんも何だかんだで、目を細めて幸せを噛み締めるように頬張る。
「確かにそうかもね。僕は最近自炊はそんなにしないけど、実家にいた時は、食べたい物とか関係なしにご飯出てきたもんな〜。それはそれでありがたいけど」
しばらく実家に帰っていなかった僕は、今更ながら実家暮らしの有難さを噛み締める。
「そうそう、ありがたいんだけどね。でも、無性に唐揚げ食べたい〜!って時あるじゃん。そういう日に限って煮魚とか出てきて、その度にげんなりしてたな〜。母さんには申し訳ないけど」
「それ、すっごく分かる。何故か食べたい時に食べたい物が出ないんだよね」
僕は久々に会話をしながら夕飯時を過ごした。
その後は、2人で後片付けをして、ローカルチャンネルの再放送を見ていた。その番組は、終電を逃したあの夜に話題に出てきた、鉄道旅の番組だった。やっている事は普段と変わらない筈なのに、思った事を口にしながら、笑い合ってテレビを見るのは久々で、何だか新鮮だった。
「木下さん、俺ちょっとやる事あるから先風呂入ってきなよ。とはいってもシャワーになっちゃうけど」
テレビが終わり、菅原さんは僕にタオルを渡す。
「僕もいつもシャワーだから大丈夫。なんかごめん。じゃあ先入る」
僕はタオルを受け取り、着替えを鞄から取り出し、シャワーを浴びる。
しばらくして、風呂場を出ると、奥の部屋からベースの弦の音と聴き慣れた歌声が聴こえる。彼は単調なリズムを弾きながら、同じフレーズを何度も歌うかと思えば、ライブの後のあの公園でもやっていた、スラップとかいう必殺技を繰り返していた。
おそらくあのドアの向こうが菅原さんの作業部屋なのであろう。僕はソファに座り、彼が奏でる音に耳を澄ませていた。
それと同時に、彼と初めて会った時の事を思い出す。改めて、不思議な出会い方だったし、まさかしょっちゅう会って一緒に過ごすようになるとは思ってもいなかった。
少しすると、菅原さんは部屋から出てきた。
「あ、木下さん上がってたんだ」
「…いいお湯でした」
人の家に泊まって風呂を先に頂くという状況に慣れていない僕は、何と言ったらいいか分からず、ついかしこまった口調になってしまった。
「あれ、なんか久々に敬語聞いた」
僕の口調がおかしかったのと、いつの間にか僕らがタメ口で話すようになっていた事に気付いた彼は、上機嫌に涙袋をプクッとさせ、笑う。
「確かに久々かも。いつからタメ口になったんだ?」
「さぁ?」
彼はあっけらかんと答え、僕もつられて笑う。
「よかったらどーぞ。俺は今日は飲めないけど」
菅原さんはわざとらしい敬語を話しながら、冷蔵庫の中から取り出した缶ビールを、僕に手渡す。
「ありがとう。明日は朝早いの?」
僕は缶ビールを受け取り、尋ねる。
「そういうわけでもないんだけど、今日は飲めなそうにないんだ。じゃ、俺もシャワー浴びてくる」
そう言うと、彼は眼鏡をテーブルの上に置き、風呂場へと消えていった。
僕は缶ビールの蓋を開け、一口喉に流し込む。炭酸が喉の奥で弾けると同時に"体調悪いけど悪くない"という先程の曖昧な彼の言葉が頭を過った。
寝る時間になり、菅原さんに寝室へと案内される。ベッドの上には夢の国で売られている熊のぬいぐるみが大量に置かれていた。誰かにもらったものなのだろうか。
あのテーマパークには、自分から好き好んで行く事はなかった。昔彼女に何度か連れられて行ったが、皆そのぬいぐるみを持ってパーク内をウロウロしていて、彼女も含めその人たちはきっと、そのぬいぐるみよりも、それを持っている自分自身の方が可愛いと思っているだけなんだろうな、と僕は毎回皮肉めいた事を考えていたが、決して口には出さなかった。
「ごめん、すぐどかすから」
彼はぬいぐるみを大事そうに抱きかかえてリビングまで運び、ソファに座らせる。
「手伝うよ」
「ありがとう。あ、カワウソはそのままでいいよ」
「すごい量だね。もらったの?」
流石に気になり、僕は彼に尋ねる。
「いや〜、実は俺このぬいぐるみすごい好きで…全部年パス持ちの妹に買ってきてもらったやつなんだ」
菅原さんは少し恥ずかしそうに答える。
「遊園地とか人多いから絶対行かないし、別にこのキャラクターが好きとかじゃないんだけど…このぬいぐるみの手触りとかもふもふした感じとか、ちょっと眠そうな目がたまらなくて…」
ソファの上に勢揃いしたぬいぐるみを眺めながら生き生きと語る彼は、昼間に猫と戯れていた時と似たような甘い表情をしている。とにかくもふもふして可愛ものが好きな事が伝わってくる。テレビ台の上に飾ってある特撮のフィギュアの持ち主とは思えない。
「……やっぱ変だよね〜」
菅原さんは僕の方を見て、控えめに笑う。
「いや、別に変じゃないよ。何というか…本当にこのぬいぐるみが好きなんだなっていうのが伝わってくる」
テーマパークで自分自身に酔いしれる人達とは違って、菅原さんは心からそのぬいぐるみを可愛がっているように見えた。
彼は口角を緩め、「よかった…」と笑いながら粘着ローラーをベッドの上で転がす。
「木下さんはベッドで寝ていいよ」
「え、流石に悪いよ」
「いっつも布団で寝てるから。ベッド、買ったはいいけど寝相悪いからすぐ落ちるんだよね」
そう言いながら菅原さんは畳んであった布団を広げる。そして、ベッドに残されたカワウソのぬいぐるみを大事そうに抱きかかえて布団の上に移した。
僕らは本格的に寝る体勢に入り、菅原さんは部屋の明かりを消した。その後思い出したかのようにテーブルランプをつけ、枕元に置いてあったカプセルを口に含み、タンブラーに入った水を飲み込んだ。
「明日は午後からバイトだから、午前中はゆっくりしていきなよ」
「ありがとう」
「じゃ、電気消すね」
彼は「おやすみ」と言い、テーブルランプの明かりを消した。
寝室は真っ暗になり、長いようで短い一日が終わろうとしていた。
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