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11. 過去
消灯後、慣れない場所だからかすぐには寝つけず、すっかり目が慣れてしまい、薄っすらと視界に映る白い天井を眺めていた。
「木下さん……起きてる?」
しばらくして、芯のない声が静かな寝室に響いた。
「…起きてるよ」
「俺も。やっぱり眠れなくて…」
背中を向けて寝ていた菅原さんは僕の方に身体を反転させる。彼の腕の中にいるカワウソと目が合った。
「……そりゃ慣れない環境じゃ眠れないよね…今日は引き止めたりしてごめん」
彼の声は昼間とは違い、消えそうなくらい弱々しく、明らかに様子がおかしい。
「え、気にしなくていいよ。…ほんと体調大丈夫?」
聞いてはいけない事なのかもしれないと思い、あえて何も言わないでいたが、流石に心配になり、とうとう尋ねてしまった。
「…大丈夫……そうに見えないよね」
菅原さんはまた意味深で曖昧な返答をした。
「今日ちょっと様子が変だったから…何もないならいいんだけど」
「木下さんは人の心を読むのが上手いね…」
彼は観念したようで遠慮がちに笑い、テーブルランプの明かりをつけた。オレンジ色の暖かな光が真っ暗な寝室を照らした。
「……ここ2年くらい躁うつ病で精神科に通院してて、前よりは落ち着いてきたんだけど、今も日によっては調子悪い時があってね…今日がまさにそうだったんだよね……このまま1人でいたら何となくまずい気がして、無意識に木下さんを帰らせないようにしてたみたい……ほんと巻き込んでごめん」
菅原さんはゆっくりと過去の事を振り返るように話す。今の話で彼が最近まで実家暮らしだった事やバンドが活動休止していた事が全て繋がった。
「そっか…今日の事はほんと気にしなくていいから」
それ以上の事は聞けず、僕は無難な返答しかしなかった。時折見せる彼の虚ろな目を何度か見てきた事もあり、何らかの精神疾患を抱えていて通院中だという事実は、何となく納得できてしまった。
「ありがとう……うちのバンド、実はここ2年間活動休止してたんだけど、それ全部俺のせいなんだ」
「…え?」
"活動休止"の事実は何となく聞いていたが、その理由は誰にも明かされていなかったようで、菅原さんの口からその話題が出てくる事に僕は驚く。
「…今はインディーズで自由にやってるけどさ、
元々はメジャーで活動してたんだ。全国ツアーもしたし、アニメのタイアップになったし、雑誌にも載ったし…とにかくあの時は多忙で世間的に見ればうまくいってたのかも…」
"メジャー"や"インディーズ"の意味や違いは音楽に疎い僕には当然分からないが、文脈で判断しつつ、そのまま彼の話に耳を傾けていた。
「でも、実際は辛い事ばっかりでね…当時はプロデューサーがいて、書いた歌詞にOKが出ないのは日常茶判事だったよ。打ち合わせでは何十歳も上の大人から『お前のここがダメだ』って会議室の机を叩き割るような剣幕で罵倒されたし…精神的に辛くてレコーディング中に抜け出して隠れて泣いた日もあったけど、当時はやっと叶った夢を手放したくなくて必死で…その違和感に気づいてたのに、それを無視して前に進む事ばかり考えてた…今思えば全部おかしな話なんだよ」
菅原さんは淡々と喋り続ける。その声はだんだん独り言のように小さくなり、自嘲気味に震えていた。彼の表情は前髪で隠れていてよく見えず、泣いているのか笑っているのか分からない。そして、初めてあの公園で聴いたあの曲の歌詞が頭を過る。
「…まだいける、まだやれるって前向きにやってたけど、ある時から声が出なくなっちゃって…病院で検査を受けても声帯には異常なくて…結局ストレスによるものだって。当然歌えないし、声だけじゃなくて不眠症で体力的にも精神的にもボロボロで、バンドもそのまま活動休止になったってわけ」
ひと通り話し終えた彼は少し呼吸を乱し、息をゆっくりと吐く。
「…あれから症状は落ち着いて、バンドも再開できるようになったけど、寝る前になって目を閉じるとあの時の光景がフラッシュバックするんだ…怒鳴られた事とか価値観を拒絶された事とか…もう直接傷つけられる事も無い筈なのに」
菅原さんはいつもより鼻にかかった声で話しながら、呼吸を整えようとするが、途中で咳込んで余計に荒々しくなり、とうとう嗚咽を漏らす。
「……大丈夫?」
僕は起き上がってベッドから降り、布団に横になり肩を震わせる菅原さんに近寄る。表情を隠す前髪も色白な頬も涙で濡れているのが、薄暗い部屋でも確認できた。
彼はゆっくりと起き上がり、枕元に置いてあるタンブラーを手に取り、水を喉に流し込む。俯いたままゆっくりと呼吸を整えるが、まだ安定せず、大粒の涙がボロボロと雫のように頬をつたう。
「ごめんね…ほんとにごめん…」
このような状況に遭遇した事がなかった僕は、当然どうしたら良いか分からない。彼が泣き止むまで何も言わずに背中を摩りながら寄り添う事しかできなかった。
普段から人間関係が希薄な僕には、これが精一杯だった。
束になって濡れた前髪の隙間から覗くように僕を見つめる。その表情は、憂いに満ちているのに、中性的な顔立ちだからか、どこか繊細で儚げだった。
「…大丈夫だよ。大丈夫だから…」
僕には彼の気持ちが全て分かる筈がない。だからこそ、"辛かったね"とか"その気持ちわかるよ"とか、適当な事は言ってはいけない。別に解決策を求められているわけでもないし、僕が彼に出来る事は、気持ちが落ち着くまで見守る事だけだ。
僕は彼にとっての心の拠り所になれていたのだろうか…
翌日、目を覚ますと、菅原さんは僕に抱きついた状況で寝ている。あの後、僕はそのまま彼の隣で寝てしまったようだ。カワウソのぬいぐるみは布団から放り出され、そっぽを向いている。
寝ている菅原さんはいつも以上に幼く頼りなく見える。そして、昨夜の出来事が頭を過った。昨夜話してくれたトラウマに耐えながら、彼は今までずっと一人で泣いていたのだろうか。
菅原さんは更に強く抱きつき、僕の胸に顔を埋めた。起き上がるにも身動きが取れず、そのまま彼を見守る。
「ん…おはよ……!あ…ごめん…えっと、ぬいぐるみと間違えた…」
しばらくして、菅原さんは目を覚ました。そして、すぐに身体を離して布団の外に投げ出されたカワウソを大事そうに拾う。
それから、朝食までご馳走になり、だらだらと過ごした。
「じゃ、そろそろ帰ろうかな。色々ありがとう」
11時頃になり、僕は帰る支度をし始める。
「あ、これ余ったから持って帰ってよ」
彼はタッパに入った煮物を袋に入れて僕に渡す。何となく最後に実家に帰省した時の事を思い出してしまう。
「ありがとう。じゃあ、また!」
僕は彼に別れを告げ、玄関のドアノブに手をかける。
「……木下さん…」
後ろから呼ばれる声に僕は振り向く。
「いや…何でもない……」
菅原さんは俯いたまま、口角だけ上げて笑う。何度も見てきた彼の虚ろな表情に気づいてしまい、少し胸が痛くなった。
「……何かあったら連絡して。じゃあ…!」
僕は上手い言葉を見つける事ができず、そう言い残して彼の家を後にした。
住宅街を歩きながら、昨日からの菅原さんの様子を思い出す。
人と接する仕事を続けてきた事もあり、僕は人見知りでありながらも、他人の表情から感情が読めてしまう。悪い意味では、他人の顔色ばかり気にしていた。そのくせに、目の前で他人がどうなろうと、自分には関係ないと思っていたので、特に気の利いた言葉をかけようともしなかった。付き合っていた彼女が別れ際に寂しげな顔をしても、いつも気づかないふりをしていた。僕はどこまでも"冷徹人間"だ。
アパートの階段は掃除が行き届いておらず、この時期は小虫が飛び回っている。長時間、菅原さんの住む少し新しめなマンションに滞在したからか、自分の住まいの古さを再確認できてしまう。
部屋に入った瞬間、不快な熱気が顔にかかる。無趣味で必要最低限のものしか置いていない筈の部屋は、いつもよりも散らかっているように見えた。旅行から帰ってきた時のような感覚だ。
窓を開けて扇風機の電源を入れ、僕はベッドに横になる。テレビのリモコンを取ろうと散らかったサイドテーブルに手を伸ばした。手が届かず全く違うものが手に当たり、それは床に落ちた。
目線を床にやると、そこには"0.01"と書かれた小さな箱が開いたまま落ちている。3つ中2つが箱の中に残されたままになっていた。気分が悪くなり、その箱を拾ってゴミ箱に捨てる。
再びベッドに横になると、同じサイドテーブルの上の卓上カレンダーが視界に入った。明日"7月21日"がハートで囲われており、明らかに僕の字ではない。
仰向けになったまま、ただ呆然と天井を眺める。菅原さんが言っていた"フラッシュバック"程ではないが、思い出したくもない過去を思い出してしまうのは、本当に厄介だ。僕は部屋の中も思い出も全く片付けられていなかったようだ。
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