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4. ノンフィクション
0時26分、代官山駅前。東横線が走ってゆくのを駅の外から目撃し、僕らは立ち尽くす。
「終電……行っちゃいましたね…すみません、俺が夢中になってしまったばかりに……」
だんだん小さくなり見えなくなっていく電車を菅原さんは見送る。
終電を逃した事なんて25年間生きてきて初めての経験だ。当然、僕は冷静さを失いそうになり、何とか家に帰る方法を模索していた。
「いえ、僕も時間を忘れていたので。…タクシー呼びますか……最寄駅一緒ですし、2人で乗ればきっと安いでしょうし……」
僕は無難な策を提案し、タクシーを呼ぼうと、スマホを手にする。
「……とりあえず……何か食べません?さっきまで夢中になっていたので気づきませんでしたけど…楽器背負って移動して、あんだけ演奏したら流石にお腹空きました……」
彼は耳にかかる髪を弄りながら小さく笑う。
「あ、そういえば僕も夕飯まだでした。食べるの忘れてました」
食事を忘れるくらい集中した事は今までなかった。今日は何から何まで非現実的な出来事ばかりだ。
「…とりあえず渋谷まで歩きますか?俺何となく方向は分かるので…」
「…そうですね。とりあえず歩きますか」
僕らは渋谷を目指し、歩き出す。菅原さんは僕が持っている彼のアタッシュケースに気づき、「すみません、持ちますよ」と言った。「いえ、大丈夫ですよ」と返すと、彼は申し訳なさそうに「すみません、ありがとうございます」と礼を言った。
アタッシュケースにはライブで使った機材が入っているのか、それなりに重みがある。隣で歩いている菅原さんはいつもこれと楽器を持って移動しているのだと思うと感心する。大荷物で移動し、ライブでは長時間立ちっぱなしで演奏するミュージシャンは想像以上に体力仕事だという事に気づく。月曜日から金曜日まで座りっぱなしで働き続ける事に弱音ばかり吐いていた自分自身が小さく思えてきた。
「楽器重そうですね」
「はい、元々そんなに体力ないので結構きついですよ。車があれば便利なんですけど、今更免許取る時間もないですし、そもそも車買ったり車検とかでお金かかるので、いつも電車移動です」
「僕もです。東京にいると、車がなくても生活できてしまうので…」
「へぇ、意外ですね。免許持ってない人周りにいなかったのでちょっと安心しました」
来た時とは違う道を歩いていた。人通りのない住宅街には街灯の白い光が延々と並んでいる。
「…もし車を運転できたら、北海道制覇とかやってみたいな〜とか思いますけどね…水曜日にテレビでやってるんですよ〜」
そう話す菅原さんの笑顔はどこか幼気だ。
彼が話しているのは、ローカルチャンネルで再放送している、90年代のバラエティ番組のことだろうか。今では有名な俳優と芸能事務所の社長、ユーモラスな番組スタッフが繰り広げる無茶な冒険を見守るのが、毎週の小さな楽しみだったりする。
「僕も毎週見てます。ああいう青春って感じ、憧れますね。学生時代にもっと馬鹿な事したかったなって見る度に思います」
「憧れますよね〜。俺は学生時代友達すらいなかったので…今もですけど」
菅原さんは寂しげな目をして口元だけ笑い、一瞬僕の方に目をやる。
「…昔から口下手で輪に入るのが苦手ではあったんですけど…高校時代は特に地獄でした。クラスメイトは派手な奴かゲーマーかどちらかで、俺みたいな地味な奴はどちらにも属する事が出来なくて、自分の席で本ばっか読んでました。部活にも入ってなくていつも1人でまっすぐ家に帰ってたので、放課後友達とどこか行くのとかすごい憧れてましたよ」
彼は小さく息を吐く。
「そうだったんですね。僕は学生時代の事はあまり記憶にないんですけど、目立つタイプではなくて、文化祭とか体育祭とかはとにかく嫌いでした」
僕は学生時代の事を思い出そうとするが、楽しかった事や何かに没頭していた事は何も思い出せなかった。
「ああいう学校行事って、地味な奴にとっては苦行でしかないですよね。一部の派手な奴だけが盛り上がってて、馬鹿みたいだなって当時は思ってました。でも、本当は羨ましかったのかもしれません」
「それ、すごく分かります。僕もあの時一緒になって馬鹿な事できたらなって思いますけど、当時の自分は変に意地を張っていたのかもしれません」
そんな話をしながら住宅街を抜け、少し明るい通りまで出てきた。そこで、菅原さんは足を止めた。
「あれ…?道、間違えたかもしれません」
道を把握していた彼は辺りを見回す。
「えーっと、僕も昼間渋谷から代官山まで歩いたんですけど…多分まっすぐ行けば大通りに出られると思います…まぁ、適当に進みましょう」
地図を読まずにいつも直感で動いていた僕はまっすぐ指を指し、歩き出す。
「…木下さん、なんか鉄道旅の人みたいですね」
菅原さんは波打つように笑い出した。
彼の言う"鉄道旅"とは、これもローカルチャンネルで再放送している番組のことだろうか。鉄道好き芸人が、ローカル線に乗り、マニアックな説明をのんびりしながら旅していくだけの番組だ。BGMが無く、鉄道の音と芸人の緩い喋りだけがゆっくりと流れているその番組も、僕のお気に入りの一つだ。
「菅原さんも見てるんですね。結構マニアックな番組ですよね」
かなりディープな番組を彼も知っている事に僕は驚く。
「いつも録画して見てます。ああいう無計画な旅って憧れます。流石に食事が現地の人からもらった蜜柑だけとかは嫌ですけど」
「そういや、そんな事もありましたね。僕もあれはちょっと嫌ですね」
その番組は、いつも無計画に旅が進んでいき、芸人が鉄道に夢中になり過ぎて食事をし損ね、カメラマンに迷惑をかけるという展開がよくあるパターンだ。
「木下さんって、割とマニアックなテレビ番組とか好きなんですか?」
「そうですね、ローカルチャンネルの番組は結構見ますね。あの安っぽい感じが好きで」
「あ〜、分かります。CMとかかなりやばいですよね」
好きなテレビ番組が一緒という、意外な共通点でしばらく盛り上がり、僕らはまっすぐ歩いていく。
しばらくすると、いかがわしいネオンサインが目立ち始める。人通りはちらほらといる程度だが、男女2人組という組み合わせがデフォルトとなっていた。男2人でこの通りを歩いているのは僕らだけのようだ。
狭い入り口の横には時間単位の料金表があり、同じような造りの建物がひしめき合っている。若い男女がその狭い入り口を潜る。その様子が視界に入ってしまい、僕は少し居心地の悪さを感じた。
隣にいる菅原さんは澄んだ瞳で物珍しそうにその眠らない街並みを眺めている。曲の題材でも考えているのだろうか。僕はこの泥臭い人間の欲で汚れた空間から一秒でも早く抜け出したい気持ちでいっぱいだった。
そんな僕の願望とは裏腹に、彼は景色を眺めながらゆっくりと歩いている。僕も彼の速度に合わせるしかない。
少し歩き、菅原さんは足を止める。目の前には石地蔵があった。暗闇でも口が紅く染まっているのが分かる。彼は後ろの淫靡な空気など気にせず、その右横にある木の板に近づき、記載された説明文を読んでは「これか…」と呟いている。
「……20年くらい前、この辺りで殺人事件があったんですよ。被害者の女性はものすごいエリートだったらしいんですけど、夜は売春行為をしていて、ここでいつもお願い事をしていたみたいです」
「えっ……!?」
僕はその事実に驚く。そして、彼の口から"売春行為"という単語が出てくる事にも内心驚いていた。
菅原さんは気が済んだようで「行きましょう」と言い、再び歩き始める。僕も彼の横について歩く。
「小1の頃、朝のニュースで見たのはぼんやり覚えていたんですけど、高校生の頃にたまたま本を読んで、その背景を知れば知るほど日本社会の深い闇が見えてきて、人って簡単に消せるんだなって…恐ろしくなりました」
彼は真剣な表情で語った。
「…高校生の頃からそんなに難しい本を読んでたんですね」
思わず僕は思った事をそのまま口にする。
「実際に起こった事件に関する本は昔から読んでましたね。でも、大学は行ってないですし、テストは国語意外はからきしダメでした」
先程の表情は緩み、彼はへらへらと笑った。
夜の街に光るネオンサインの文字は、先程よりも過激な内容に変わっていた。いかにもヤクザのような見た目をした客引きの男が番人のように見張っている。"案内所"と大きく書かれた建物の入り口には、何かを隠す形をした両手の上に"18"と書かれた卑俗な娯楽を表す標識が見えた。菅原さんが言っていた"殺人事件"の話が頭を過るせいで、客引きの男や周りを歩く人々が皆ゾンビに見え、魑魅魍魎な光景だった。
僕は無意識に菅原さんのすぐ後ろをくっつくかのように歩いていた。彼の背中にある楽器ケースの持ち手を思わず掴んでしまいそうになる。
何とか怪しげな通りを抜けたようで、道玄坂の方まで来ていた。幸い、ゾンビからお声がかかる事はなかった。僕は助かった…お化け屋敷から帰還したかのような安心感があった。
僕は無言で菅原さんの横に戻ると、彼は今まで笑いを堪えていたようで、一気に吹き出した。
「木下さん…もしかしてお化けとか怖い話とか苦手なタイプですか?」
「…何で分かるんですか?」
「ずっと俺の事盾にしてたでしょ。そりゃ気づきますよ」
僕が感じていた恐怖に彼は気づいていたようだ。
「すみません、歩きづらかったですよね」
自分を守る事しか考えずに行動してしまい、僕は後悔する。
「いえ、俺はお化け屋敷とかは結構得意な方なので…最近できたやつは病院の廃墟をそのまま使ってるとかで、かなりやばいらしいですよ。…今度一緒に行きますか?」
菅原さんはいじらしく微笑む。
「結構です!」
僕が即答すると、彼はにんまりと笑った。
いつの間にか、渋谷駅の近くまで来ていたようで、終電後だというのに、まだ街中は活気に満ちている。
僕らは飲食店を探し歩く。この時間でもやっているところはどこも大きめな居酒屋くらいしかない。お互い騒がしい場所は苦手という事で、結局センター街のファストフード店に落ち着いた。
1階のレジで同じものを注文し、階段を上り二階の席に向かい合わせで座る。26時頃のファストフード店は僕らの他に2人しか客はいない。他の客がどういう経緯でここにいるのか少し気になったりする。店内は昼間と同じように照明が明るいだけなのに、何故だか安心感に包まれていた。
「…そういえば明るいところで話すの初めてですね」
菅原さんはストローの袋を開けながら僕の顔を見つめる。彼の左目の下にある泣きぼくろの存在に初めて気づく。
「そうですね。初めて会った時からずっと夜でしたからね」
出会ってからまだ日は浅いが、暗闇の中で話している彼の横顔は鮮明に覚えている。明るい場所で正面から彼の顔を見るのは初めてだった。
しばらく、お互い無言でハンバーガーを頬張る。店内には軽快なBGMだけが響いている。
菅原さんはスマホを操作しながら何か考え事をしているようだ。
「…さっき見た景色、忘れないようにメモしてるんです。何か歌詞にできないかなって。曲ができたらまず木下さんに聴いてもらいたいです」
彼は真っ黒で艶のある、柔らかな髪をいじりながら微笑む。目元にある涙袋はぷっくりと膨らんでいた。
「是非聴きたいです。どんな曲になるか楽しみですね」
さっきの景色とは、あの不夜城の事だろうか。出来れば思い出したくないが、彼の目にどう映ってどんな世界観を創り上げるのか、期待が膨らむばかりだ。
「…こうやって実際に見た景色や感じた事をそのまま歌詞にして発信できたら一番幸せなんですけど、実際はそう上手くはいかないんですよね…」
彼は頬杖をつきながら、ポテトを摘む。
「…そうなんですか?」
「曲を作っても世に出回るのはほんのひと握りですよ。ボツになった曲は誰にも届かないままで虚しいだけです。こんな事して何になるんだろって思う時もありますね」
彼は俯き、悲しげな苦笑を漏らす。左目の下の泣きぼくろが涙のように見える。
僕はストローを口にし、彼の話に耳を傾ける。
喉の奥でレモンスカッシュの炭酸が弾け、その瞬間、ライブで彼が歌っていた、二人称のない恋愛ソングのサビが頭の中で流れる。
「…でも、さっき隣で楽しそうに歌っているのを見て、バンドとしてのももちろんですけど、菅原さん自身の曲ももっと聴きたいって思いました」
僕は今まで音楽は自分から好んで聴く事はなかった。たまに歌番組でヒットソングを耳にしたとしても、歌詞は頭に入ってこなかったし、音の細やかな部分など気にも止めていなかった。
しかし、今回の出来事で音楽に対する関心が少し変わったような気がする。菅原さんが奏でるベースの重低音は、まるで主役のような存在感を放っていた。そして、小説のような文学的で透明感が漂う歌詞は、独特な世界観へ引き込まれるものだった。彼が創り上げる曲なら、この先も聴き続けていたい、僕は強く思った。
「ありがとうございます。ボツになった曲たちは家のパソコンに眠っているので…今度聴きに来てください」
菅原さんはまた横の髪を指でくるくると弄り、にっこりと笑う。
「是非聴きたいです……多分家も近いですし休日はいつも暇してるので」
「そういえば最寄駅一緒でしたね。地元なんですか?」
「いえ、実家は神奈川で、2年前に越してきました」
「神奈川…というと、横浜とか川崎の方ですか?」
「いえ、もっと田舎の方ですよ。海しかないです」
「へぇ〜、海が近くにあるっていいですね。俺は実家が墨田区なのでそういうのすごい憧れます。東京の海はなんか人工的というか…あんまり惹かれないんですよね」
菅原さんは苦り切った表情で不満を零す。
「…確かに東京はあんまり海っていうイメージないですよね。たまに地元の海が恋しくなるんですけど、実家に帰る事を考えると足が遠のきます」
「え、そうなんですか?」
彼は少し心配そうに僕を見つめる。実家に帰らない事を深刻に思っているのかもしれない。
「…帰省する度に親は僕の将来を過剰に心配してくるんです。今年30歳の姉が結婚したので、その皺寄がこっちにくるんですよ。まだ25歳なのに結婚はまだかって…しつこすぎるんです。失恋したばかりだと尚更ストレスですし」
今まで吐け口の無かった愚痴をあっさり彼に喋っていた。
「…幸せの皺寄せですか…なんかシワシワですね……」
真剣に僕の話を聞いていたと思いきや、彼は真顔で意味不明な事を言い出し、その瞬間僕は吹き出すかのように笑いが止まらなくなる。僕につられて彼も笑い出す。
「…すみません。真剣に話してたのに…ふざけすぎましたね」
笑いが収まり、彼は呼吸を整えながら話す。
「結婚かぁ…まぁ俺も急かされる事はありますよ。29歳だからっていうのもありますけど、昔から女っ気ないので、心配されてばかりです。木下さんはまだ若いのに気の毒ですね…俺が25歳の時はそんな心配されなかったですし」
頬杖をついて僕を見つめる菅原さんのぱっちりとした瞳は、まるで汚れを知らないかのようで、"清純"という言葉がよく似合う。目の前の彼が4つ歳上だという事は未だに信じられずにいる。
「普通心配される年齢じゃないんですよ。うちの親がおかしいんです。それに、結婚ってそんなに重要かな?って考えてしまいます」
「すごく分かります。まぁ、俺自身が異性とか恋愛に興味がないからっていうのもありますけど、そんなに形にとらわれる必要はない気がします」
「ですよね……彼女と付き合っていた3年間、思えば一度も将来の話とか口にしなかったので、見切りをつけたんだと思います。女性は男性よりも結婚に対するこだわりが強いような気がします。めんどくさいですね…」
僕はまた無意識に悪態をついていたようだ。
「…すみません、愚痴ばっかりで……そろそろタクシー呼びますか?」
このままだといくらでも毒々しい愚痴を吐けてしまえそうな気がして、僕はスマホを手にしてタクシー会社の連絡先を検索しようとした。
「木下さん…明日って何か予定あるんですか?」
菅原さんはそう尋ねると、空になったであろうコップに刺さる、先端の潰れたストローに口をつけ、ズルズルと音を立て、中身を吸う。
「何もないですよ」
休日は何も予定がないのが当たり前な僕は即答する。今こうして終電を逃してファストフード店で会話をしている事自体、幻のような光景だ。
「そうですか…せっかくだし、朝まで飲んじゃいません?この時間だとタクシー代も高くつきますし、それだったらもう少し話してたいような気分になりました」
彼は右手の人差し指で横の少し長い髪を再びくるくる弄くりながら提案した。その仕草は先程よりも動きが目立っている。おそらく彼の癖なのだろう。
「そうですね、せっかくですし、飲みに行きますか」
僕がそう答えると、菅原さんは上機嫌に目を細め、微笑む。彼の機嫌に比例するかのように、涙袋がプクッと膨らむ。
「確か、この近くに朝までやってて静かに飲めそうな店があったと思います」
彼はトレーを手際よく片付け、楽器を背負い、「行こ!」と軽い口調で急かす。いつの間にか他の客はいなくなっていて、店内は僕ら二人だけになっていたようだ。
菅原さんのマイペースぶりは、ローカルチャンネルの街歩き番組に出演している、ニット帽がよく似合うイラストレーターを思い出させる。確かあの番組のエンディングで流れている曲もベースの音が際立っていたような気がする。そんな事を考えながら僕も彼に合わせて店を出る支度をした。
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