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5. 夜明け前
店を出て、センター街の外れを歩き、飲み屋を目指す。人通りはまばらだが、酔っ払って大声をあげる若者集団やホストらしき2人組、厚化粧の女など、いかにも終電後といった柄の悪い雰囲気で、集団で騒ぐ酔っ払い集団はもはや百鬼夜行にしか見えない。
周りには僕と菅原さんのような人は一人もおらず、かなり浮いた存在だったに違いない。
「基本的に1人でいる事が多いんですけど…夜は誰かが隣にいてくれた方が安心します」
菅原さんは僕の方に目をやる。
「…お化け屋敷得意なのに?」
先程のお返しと言わんばかりに僕は彼を軽くおちょくる。彼は「違うよ」と反発しながら軽快に笑う。
「夜中1人で歩いてると補導されそうになるんです。年齢を言うと警察は気まずそうな顔して逃げていくんですよ」
初めて会った時から、彼は比較的幼い顔立ちをしていると思ったが、まさか補導されそうになるレベルだとは思わなかった。
「…でも、若く見られるのは悪い事じゃないと思いますけどね」
「まぁ、そうなんですけどね。夜中に1人で歩く事よりも、突然後ろから警察に声かけられる方が俺にとっては恐怖ですよ」
「街の平和を守る為にやってる事のはずなのに怖がらせるとか、何だか本末転倒ですね」
そんな話をしながら、菅原さんに連れられてやってきたのは、居酒屋ではなくダイニングバーだった。その洋風な店内は落ち着いた雰囲気で、先程センター街にいたような騒がしい連中は一人もいなかった。僕らは店奥のテーブル席に再び向かい合わせで座り、ビールを2つ注文した。
「渋谷にもこういう静かな店ってあるんですね」
"若者の街"というイメージが強かったからか、渋谷の飲み屋はどこも騒がしいものだと僕は思っていた。
「俺もここくらいしか知らないですね〜。渋谷でライブの後は帰る前にこの店で少し飲んでます。流石に終電逃して朝までいた事はないですけどね」
向かい側に座る彼は、落ち着いた笑みを浮かべる。幼い顔立ちとは裏腹に、2時過ぎのバーにいても絵になるのは、大人の余裕というものだろうか。
しばらくしてから、ビールがテーブルに運ばれてきた。お互い無意識に「お疲れ様です」と目を合わせ、ジョッキを軽く合わせる。
「こうやって誰かと飲みに行くの初めてで…正直木下さんを飲みに誘ったの自分でもびっくりしてるくらいです」
菅原さんは目を逸らし、髪を弄りながら話す。
「バンドメンバーとは飲みに行かないんですね」
ビールのほろ苦い風味を堪能しながら、彼に問いかける。
「そういえば飲みに行かないですね。メンバーとはあんまりプライベートの関わりがないんですよ」
「へぇ〜、ちょっと意外です」
ライブの後はメンバー同士で打ち上げをするものなのかと僕は勝手なイメージを抱いていた。彼も仕事とプライベートは分けるタイプの人間なのかもしれない。
「…木下さんは会社の飲み会とか苦手なんですか?」
「…やっぱそう見えますかね?」
「初めて会う前から、あの公園で飲んでるところ何度か見かけた事があって…てっきり飲み会で飲み足りなくてあそこで飲んでるのかと思いました」
菅原さんはまるで悪戯が成功して喜ぶ子どものように微笑む。
"どうせ誰もいないからいいか"と思って僕はあそこで1人で晩酌を楽しんでいたわけだが、まさか目の前の彼に見られていたとは思わなかった。
「え、そうだったんですか…なんか恥ずかしいですね……飲み会は苦手です。断り続けてたらとうとう誘われなくなりました」
「俺も大勢で飲んだり喋ったりするのは苦手ですよ。多分自分入れて3人が限界かな…それ以上いたら喋り出すタイミングとか掴めないだろうし」
「ですよね…そもそも大人数で喋る意味が分からないし…絶対自分が発言する余地ないじゃないですか。途中から、自分いなくてもいいかな…ってなります」
僕らはしばらく根暗なあるあるネタで盛り上がる。お互いジョッキの中は半分くらいの酒が残っている。
「…そういえば、木下さんはお仕事は何をされてるんですか?」
菅原さんは思い出したかのように僕に問いかけた。
「派遣会社の営業です。…これを言うと僕自身が派遣社員だとよく間違われるんですけど、派遣会社に登録してきた人に仕事を紹介するっていう役割ですかね…」
僕は自分自身の仕事を人に説明するのが苦手だった。家族でさえ僕が何の仕事をしているのかあまりよく分かっていないようだ。
「へぇ〜、そういうお仕事もあるんですね」
彼は興味津々な様子で、話の続きを期待しているかのようだ。
「医療専門の求人しか出してないので、看護師対象の派遣会社といった感じですかね…病院には基本的に看護師は派遣できない決まりなので、介護施設に営業をかける事は多いですね。もっと単的に言えば…看護師と介護施設の板挟みになるのが僕の仕事です」
ここまで詳しく自分がやっている仕事の説明を誰かにするのは初めてだった。無論、付き合っていた彼女にも話した事はなかった。
「そうなんですね。妹が看護師で、最近仕事辞めたばかりなので、興味持つかもしれません。…あいつすぐ仕事辞めるんですよ」
彼は呆れたように笑う。その幼顔からは、兄らしい優しさも感じられる。
「でも、看護師って人間関係とか大変だってよく聞きます。若いのに職歴がかなり多い方もよく見ますし…それでもこの仕事を選んで続けようとする妹さんは、やりがいを感じているんでしょうね」
「確かに、妹は俺と真逆で明るい性格なので、人と関わる仕事は向いてると思います。ただ、素直すぎて落ち込みやすいんですよね…働きやすい職場が見つかればいいんですけど…」
お互い同じタイミングでジョッキの中身を喉に流し込む。店内には柔らかなピアノ曲が流れている。
「……家族想いなんですね」
「…結局"想う"だけじゃ意味ないですけどね。俺は何もしてやれないですし。逆に助けてもらってばかりですよ…妹には俺みたいになって欲しくないですね…」
菅原さんはビールを飲み干し、メニュー表を手に取る。
「…僕はそもそも人の為に何かしたいとか思った事ないので…人を想う気持ちがあるだけでも素敵な事だと思いますよ」
水滴だらけになったジョッキを手に取り、僕も残ったビールを飲み干した。
「…彼女さんに対しても?」
メニュー表のページを行ったり来たりさせている菅原さんは手を止め、不思議そうな顔をして僕に尋ねた。
「……そうですね…何かしてあげようっていうよりかは、自分を良く見せたくて、嫌われたくなくて気を遣ったりはしてましたけど…それって結局相手の為じゃなくて、自分の為ですよね。…こんなの愛とは呼べませんよ。何で付き合ってたのか今では分からないくらいです」
僕は苦い過去を振り返り、苦笑する。
「……そもそも恋愛における"愛"って何だと思いますか?俺は家族も音楽も猫も好きですけど、それと何が違うんですかね?」
菅原さんが投げかけた難しい疑問に対し、僕は言葉を詰まらせ、しばらく沈黙が続いた。
「あ、すみません。変な質問でしたね…何か頼みましょうか」
そんな僕の様子に気づいた彼は、メニュー表をこちらに渡す。そして、店員を呼び2杯目の酒を注文した。
それから、僕は彼の言う"愛"の定義について深く考えた。すぐに結論が見つからず、今まで何も考えずに恋愛してきた自分自身が浅はかに思えてきた。
しばらくして、ハイボールとジントニックがテーブルに運ばれてきた。周りは相変わらず静かで、今まで僕らが話していた内容が聞こえていたのではないかと心配になる。僕たちは再び酒を飲み始めた。
「…さっきの話、多分なんですけど…"愛"っていうのは、恋愛であろうとなかろうと意味は一緒で、"心を許せる関係"とか"相手を大切に思いやる"とかじゃないかと思います」
僕は何を思ったのか、鞄の中からペンと手帳を取り出す。
「"恋愛"っていう文字を縦書きにして考えると分かりやすいと思うんですけど…」
僕は手帳の余白に"恋愛"という文字を縦に書き、"恋"と"愛"の間を横線で区切る。
菅原さんは前屈みになり、手帳の文字を覗き込む。再び興味津々な様子で僕の話の続きを待っていた。
「まず、"愛"はさっき言った"思いやり"とか"大切"っていう意味なので、これは恋愛において最低条件になるものだと思います」
"愛"という文字の横に"大切な存在"、その隣に"家族""音楽"と書き、簡単な猫の絵も加えた。
僕は無意識に菅原さんに見えるように手帳の向きを反転させて説明していた。ハイボールを飲みながら謎な説明を受ける彼は、物語の結末を知りたがる子どものように期待に満ちた目をしている。
「…で、上の"恋"なんですけど…これは相手に魅力を感じてときめくかどうか、じゃないですかね?相手の事を"もっと知りたい"とか"自分のものにしたい"って思ったり…性的な感情もこっちに含まれると思います。主に"恋"は"欲"に近い要素がある気がします。恋愛ドラマとかで嫉妬するシーンがあるのもそれに関係してると思います」
僕は少し気恥ずかしくなりながらも、"恋"という文字の隣に"気になる、ときめく、欲望、嫉妬、性的"と書いた。一気に話してしまった僕は、ジントニックを一口飲んだ。
「…なので、本来はこの2つの要素が揃わないと"恋愛"っていうのは成立しないと思うんです。でも実際は"恋"の方に偏りすぎている人が多い気がしますし、僕自身もそうだったんじゃないかなって深く反省してます」
僕は自分で書いた"恋"という字を何重もの丸で囲む。
「…なるほど、面白い見解ですね!」
静かに僕の話を聞いていた菅原さんは、難しい証明問題を理解した予備校生のような顔つきで感心の声を上げた。
夜明け前の静かなダイニングバーには、休憩中であろうぎらついたホステスらしき女性、落ち着いた雰囲気の男女が数組しかいない。そんな中、男二人で真剣に話し合っている謎の光景は、秘密の作戦会議をしているかのように見えたに違いない。
「…すみません、喋りすぎました。自分でも何言ってるのかよく分からないです」
「木下さんって、人に何かを説明するの上手いですね。そういうお仕事もされてたんですか?」
「学生時代は家庭教師のバイトしてて、今は仕事で看護師に派遣のルールを説明したりしてるので…ただの職業病ですよ」
僕は日々の仕事を面倒に思いながらも、のめり込みやすいタイプだと思う。今は就業時間外だというのに、仕事モードの自分を出してしまった事に後悔と不安を覚えた。
開いていた手帳を閉じ、ペンと一緒に鞄の中にしまおうとしたが、彼に「待って!」と言われたので、もう一度開いた。どうやら僕が描いた猫の絵を気に入ったようだ。スマホで写真を撮り、満足した彼はまた何かを考えているようだった。僕は手帳とペンを鞄の中にしまう。
「…となると、俺は本当に"恋"をした事がないってわけですね…"恋愛"が成立するのは、"恋"と"愛"どっちの感情から先に芽生えるものなんですかね?」
「…それは人によると思いますけど、"愛"から"恋"っていう順番の方が僕は望ましい気がします」
「…木下さんはどうでしたか?」
菅原さんは純粋な瞳でこちらを見つめる。おそらく僕よりも多量のアルコールを摂取している筈の彼の顔は、相変わらず白い。
「…僕は"恋"だけでした。よくないですね…」
何だか決まりが悪くなった僕は目を逸らす。自分のだらしなさを人前に晒してしまったような気恥ずかしさがあった。
「そうなんですね。逆に俺は女性を客観的に見て"可愛い"と思っても"付き合いたい"とは全く思わないんですよね……音楽に関しても、異性を思わせるような歌詞の描写があるのは聴けないですし、変な話…男女の絡みを見るのもほんとダメで、恋愛ドラマもAVも苦手です…やっぱこういうのって変わってるんですかね?」
菅原さんはジョッキについた水滴を人差し指につけ、テーブルに何かを描いている。
「…どちらかというと珍しい方かもしれないですけど…AVみたいな身勝手なものは僕も苦手です……暴力的というか、人が嫌がってるのを喜んで見て、何がそんなに楽しいんだろって思います。…苦手なものは苦手なままでいいんじゃないですかね?」
「…そうですよね。共感してもらえてよかったです」
人差し指をテーブルに滑らせていた彼は手を離し、表情を緩める。どうやら水滴で猫の絵を描いていたようだ。とにかく彼は猫が好きなのだと伝わってきた。
それから、僕らはこの静かなバーで恋愛論議を繰り広げていた。菅原さんは、答えようのないような哲学的な質問を僕に投げかけ、真面目すぎる僕はその無茶振りに対する答えをゆっくり考えてはまた自分の言葉で説明する。それを延々と繰り返し、気づけば夜が明けていた。結局、僕らは店を出る4時半頃までに4杯飲んだ。
店を出たら、外は既に日が出ていた。センター街の外れの飲み屋街は、人気がなくシャッターが並んでおり、所々ゴミが散らばっている。その光景はいつか見た戦争映画の夜明けのシーンのようだった。タイトルは覚えていないが。
僕らは始発の電車に乗る為、渋谷駅を目指して歩く。
「何だかんだであっという間でしたね。すごく有意義な時間でした」
「そうですね…あんなに夢中になって語り合ったのは初めてでした」
隣で歩く菅原さんの顔は相変わらず色白のままだ。あの後ウイスキーとテキーラを飲んでいたとは思えないような素面の状態だった。彼は相当酒に強いのだろう。
無意識に彼の飲むペースに合わせてしまった僕は、特別酒に弱い訳ではないが、少し飲み過ぎたようで、視界がふわふわしていた。
4時半過ぎのスクランブル交差点は、始発前だというのに遊び帰りらしき人たちで溢れており、信号待ちの人集りができていた。僕らもそこに混ざり、立ち止まる。まるで時間が止まっているかのようだった。
朝まで飲んだのは初めてで、頭の中は空っぽなな状態だ。お互い会話を交わさないまま信号が変わり、人混みは羊の群れのように一斉に動き出す。その瞬間、昔テレビで見た北海道の牧場の風景が脳裏に浮かんだ。数秒遅れて僕らも歩き出した。
そして、2番線ホームに到着し、山手線内回りに乗る。日曜日の早朝なだけあって、車内は閑散としていた。僕らはドア付近の端の席に並んで座り、しばらく他愛もない話をする。五反田で下車し、赤いラインの入った蒲田行きの電車に乗り換えた。始発駅という事もあり、同じ車両には誰も乗っていなかった。
僕はいつの間にか眠りについていたようで、聞き慣れた駅名のアナウンスで目を覚ます。乗車した時と同様、他に乗客は誰もいない。
車窓から入る暖かな陽の光と同時に、肩と腕の方にも似たような温もりを感じる。隣には、僕の身体にもたれて眠る菅原さんがいた。車窓からの光が彼の真っ黒な髪に反射し、天使の輪を作る。その艶のある直毛からは、ライブハウスで嗅いだのと同じような匂いがした。
「菅原さん、着きますよ」
僕は隣で寝ている菅原さんの肩を軽く叩く。 彼は目を覚ましたようで、ゆっくりと身体を起こす。
「………あ、すみません」
一度合った目をすぐに逸らし、彼は慌てて降りる準備をした。
同じ駅で電車を降り、改札を抜ける。僕は彼女に振られてから、知り合いが一人もいないこの駅で、誰かと一緒に降りる事はもう二度ないと思っていた。
お互い家の方向が同じようで、この前の公園とは逆方面へ歩いていく。菅原さんは思い出したかのように僕が働いている派遣会社の名前を尋ねてきたので、そのまま答えた。
用水路沿いの住宅街をまっすぐ歩いていき、角を曲がったところで菅原さんは足を止めた。
「じゃ、俺んちここなので」
立ち止まった先には白い壁のマンションがあった。それは、家と駅を行き来する時にいつも通過していた、見覚えのある建物だ。
「家近いんですね。僕の家はここから5分くらいです」
「そうなんですね。じゃあ昨夜見た景色とか、曲にまとまったら是非聴きに来てください。ボツになった曲もたくさんあるので」
彼は「ありがとうございました。また連絡します」と言い、マンションの入り口に入ろうとする。
"また連絡します"
その聞き慣れた言葉を耳にした瞬間、学生時代の友人の事を思い出した。その決まり文句を口にして別れた彼らとは、"また"の機会は一切なく、本当の別れのようになってしまったのだ。
「菅原さん…」
気づけば名前を呼んでいた。彼はゆっくりと振り向く。
「あの…本当にありがとうございました…また…会えますよね…?」
僕の口からはまた予想外な言葉が溢れた。今すぐ取り消したい衝動に駆られるが、今更遅い。僕はまた一人気まずくなる。
菅原さんはそんな僕の様子は気にせず、ふにゃっとした柔らかな笑顔を見せた。
「もちろん」
彼はハイタッチするかのように軽く右手を上げて僕に別れを告げ、階段を上って消えていった。
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