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6. スノーノイズ
月曜日、何もなかったかのように規則正しいアラーム音が僕に休日の終了を告げた。
必要最低限のものしか置いていない無機質な部屋に1人佇む。朝から薄暗く、雨が降っているようで、月曜日特有の気だるさが身体にこびりつく。
コーヒーと菓子パンを口にしながら、社用携帯のメールに一通り目を通し、脳内をゆっくり再起動させていく。何通かの遅延連絡メールが届いていた。どうやら今日も中央線と埼京線が遅延しているらしい。…となると山手線にも影響が出ているかもしれない。
僕は余裕を持って支度し、家を出る。外は予想以上に土砂降りで、今日から7月とは思えない程肌寒い。
勢いよく落ちていく雨粒の音は、何も放送されていないテレビチャンネルで流れる砂嵐のように聞こえる。その雑音に包まれながら歩いていると、昨日の別れ際に見た菅原さんの柔らかな笑顔が浮かんだ。駅に到着した時、僕は何故だかその音をまだ聴いていたい、そんな名残惜しい気持ちになっていた。
職場に到着し、いつものように仕事をこなす。僕は仕事中、感情を捨てるようにしている。明るくも社交的でもないからこそ、職場では"人材コーディネーターとしての木下"というもう1人の自分を演じる必要があった。
"仕事は性格に左右されるものではなく、無機質であるものだ"
これは僕が入社したばかりの頃に常務に言われた言葉だ。社会人の考え方は未だに理解できない事が多いが、この言葉は唯一共感できるものであり、今でも僕にとっての座右の銘だ。
僕は1日単位の派遣の担当をしている。介護施設から求人をもらい、それを登録してる求職者へメルマガとして流す。求職者から勤務の希望をもらったら、介護施設に連絡する。主にこの繰り返しだ。もちろん、人手不足の介護施設は複数の派遣会社に依頼している為、連絡しても募集枠が既に埋まってしまっている事もある。僕らはこれを"充足"と呼んでいる。
派遣登録を希望する求職者は、来社して面談を受ける必要がある。僕たちはその面談も担当し、派遣のルールを説明する。求職者の希望の条件と合えば、その場で勤務を手配する事もある。
インターホンが鳴り、面談予定の求職者が到着したようだった。今日の面談は他の人が担当する事になっている。僕はいつも通り、メルマガの編集作業をしていた。
「木下くん、ちょっといいかな?」
求職者をブースに案内して戻ってきた係長の中野さんは僕の事を呼ぶ。きっとまた面倒な事を押し付けてくるに違いない。
「今来た人、結構やばそうな感じで…相馬さんが担当する予定だけど、流石に新人に任せるのはちょっとあれだから、木下くんにお願いしてもいい?」
要件は僕が予想していた通りだった。面倒な求職者が来た場合は何故か皆僕に担当を押し付けてくるのだ。
「はい、やります」
別に断る理由もなく、僕は二つ返事で了承した。
「ありがとう。編集はこっちでやっとくから」
中野さんはテンプレート化されたかのような台詞を口にし、席に戻っていった。
今までやっていた作業の進捗状況をチーム内で共有し、面談の準備に取り掛かる。机の引き出しの中から取り出したネクタイを締め、ハンガーに掛けてあるジャケットを羽織る。クールビズの季節だが、予定外の面談を組まれる事が多く、いつの間にかネクタイやジャケットをオフィスに置いていくようになっていた。バインダーと資料を持ち、僕は求職者が待つブースへと向かった。
そして、いつも通り履歴書や資格証を受け取り、派遣の説明をしていく。「やばい」と言われていた求職者は、確かに最初は挙動不審な様子ではあったが、話していくうちに明るく受け答えをしたり、笑ったりしてくれて、悪い人ではなさそうだった。
「木下さん、お疲れ様です。今日は代わっていただきありがとうございました」
今日の面談を担当する予定だった相馬さんは僕に礼を言った。4月に新卒で入社した彼女は、いつも元気で朝ドラのヒロインみたいだ。
「いえ、結構やばい人だったんで、やらないで正解でしたよ」
僕は職場の人には後輩であっても敬語を使っている。社会人になってからタメ口を使う機会が減ってきていたが、失恋してからは完全にそれが無になった。
昼はコンビニで適当に済ませ、午後は面談した求職者のデータをパソコンに入力していく。
この日は19時頃にオフィスを出て、地上へと向かう。雨はすっかり止んでいたようだ。僕は東南口付近のCDショップに立ち寄る。月曜日から疲弊した僕は、まだライブの余韻に浸っていたい気分になったからだ。
この前と同様、僕は"あ行"の中から、目的のバンド名を見つける。どれから聴いたら良いのか分からず、ベスト盤以外のアルバムを手に取り、レジへ向かう。
「あれ、木下さんじゃないですか!お疲れ様です!」
聞き覚えのある声がした。振り向くと、同じ部署の梅田さんがいた。彼は去年の秋頃に中途入社して社歴は短いが、年齢はおそらく20代後半と僕よりも歳上だ。お喋りな彼とは普段世間話をする程度の関係だが、彼の事と言えば、長年ブラック企業にいた事と、小田急線沿いに住んでいる事くらいしか知らない。僕自身の話は全くしないし、彼は僕に関する情報など何も知らないであろう。
「どうも、お疲れ様です…」
僕は少し面倒な事になったと思いながらも、マニュアル化された挨拶を口にする。
「アマヤドリですか!懐かしいですね〜!ハマったんですか?」
梅田さんは、僕が手に持っているCDを見つけたようで、尋ねてきた。よりによってCDを沢山買おうとしているところで話しかけられるとは僕は相当運が悪い。
「まぁ…知人に勧められたので聴いてみようかなと思って…」
これまでの経緯を説明する気も起きず、僕は適当に遇らう。
「そうなんですね。アマヤドリといえば、昔バンドやってた時によく対バンしてました」
彼は思い出に浸るかのように話す。"対バン"という言葉の意味は知らないが、彼の話し方とその文脈で何となく察しがついた。
「え、そうだったんですね…どんな感じでしたか?」
思いがけないところで話が繋がり当然驚いた僕は、珍しく彼の話の続きを聞きたくなった。
「確か…ボーカル目当てで来てる女性客がちらほらいましたね。彼、ライブ終わったらすぐ帰っちゃって、お客さんが残念そうにしてました。何というか…誰も寄せ付けないようなオーラが出てました。でも、うちのバンドでボーカルやってた友達はよく彼に話しかけに行ってました。何話してたのかは謎ですけど」
梅田さんはゆっくりと思い出すように、当時の様子を語った。僕はまた適当に相槌を打つ。
彼も何か買いに来ていたらしく、会計を済ませて一緒に駅まで向かう。会社の外で誰かと会話した事はなかったし、話題が浮かばなかったが、彼はどんどん喋り、杞憂と化した。
「アマヤドリってここ何年か活動休止してましたよね。理由は分からないですけど」
「え、そうなんですか」
彼に言われて初めてその事実を知ったが、ライブに行く前にバンド名を検索しようとして出てきた予測候補のワードと繋がった事もあり、すぐに納得できた。
そんな話をしているうちに、駅が近づいてきた。「何線ですか?」と聞かれ、僕は「山手線です」と答える。それに対し彼は「僕は小田急なので」と言い、改札の前で別れた。
僕は一人になり、これまでにないような解放感を覚えた。
帰宅後、シャワーを浴びて夕飯を済ましてから、買ったCDをパソコンに取り込んでスマホに入れる作業をする。
一通り作業が終わる頃には、寝る時間を迎えていた。ベッドに横になると、今朝耳にした砂嵐のような雨音が頭の中に蘇った。その音の流れを追いかけるように、僕は眠りについた。
あれから僕は今まで通り自宅と職場との往復を何度も繰り返していた。変わった事と言えば、通勤と帰宅時に音楽が加わったくらいだ。
購入したアルバムを一通り聴いたが、ライブで演奏していた二人称のない恋愛ソングたちは、どうやら5年程前のもののようだった。そのキャッチーで甘酸っぱい歌詞、菅原さんの透き通るような歌声は改めて僕の心を掴んだ。
それに対し、更に昔のアルバムの方は、ギターとベースの音は割れそうなくらいジリジリと歪んでいた。声を枯らしながら叫ぶように歌う曲もあれば、女性ボーカルと同じメロディーを気だるそうに歌う曲もあった。歌詞は恋愛のものは一切なく、ほとんどが背景描写や皮肉のようなものだった。曲の終わりはギターとベースの余韻がジジジジ…とずっと伸びており、僕は何故だか昔のアルバムの方に愛着が湧いていた。
"右""左"と書かれた黒いイヤホンを耳にはめ、今日も電車に乗り込む。今まで外で音楽を聴く機会がなかった僕が使っているそれは、センター試験の時に配られたものだった。お気に入りになっていた皮肉混じりなその曲を選択する。毎朝音楽を再生する為にタップするボタンは、次第に僕の1日を始める為のもののようにも思えてきてしまう。
今日も僕は面倒な求職者の対応を押し付けられ、順番通りに捌いていく。僕も周りの人も毎日定型文のような会話しかしない。僕にとって職場の人間関係など、ゲームでいうCPUでしかない。仕事は所詮生きていく為の手段でしかないし、求職者や取引先がどうなろうと、正直どうでもよかった。
オフィスを出たのは今日も19時だった。電車の中でいつものように音楽を聴いていると、しばらく使っていなかった連絡アプリの通知が来たようで、"菅原桔梗"と画面の上の方に表示された。それは、イヤホン越しに響く声の主からのメッセージだった。
『お疲れ様です。先日はありがとうございました。この前話していた曲ができたので、ご都合の良い時に聴きに来ませんか?』
彼のアイコンになっている写真の三毛猫が、今までの経験からしたら来る筈がないであろう"またの機会"の訪れを告げた。
菅原さんは、今まで出会った人とは雰囲気が異なり、とても社交辞令を言うような人とは思えなかったが、正直本当に連絡が来るとは思わなかった。彼は有名なミュージシャンで、きっと毎日忙しくしているだろうし、今まで通り疎遠になる事を僕は予想していた。
しかし、新しい彼の曲が聴けるのは純粋に楽しみだ。"アマヤドリ"のアルバムはベスト盤以外は全て聴いたが、一番新しくて2年前のものだった。一緒に見た景色が彼の手でどう蘇るのだろうか。
『お疲れ様です。こちらこそありがとうございました。是非聴きたいです!』
仕事以外で誰かにメッセージを送ったのはいつぶりだろうか。こういったやり取りに慣れていない僕の文章は少し固すぎたかもしれない。
数分後に菅原さんから返信が届き、会う日程や待ち合わせの場所を決める。やり取りが一通り終わると、「楽しみにしてます!」と可愛らしい猫のイラストのスタンプも一緒に送られてきた。
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