83人が本棚に入れています
本棚に追加
7. 再会
あのやり取りがあった2日後の土曜日の午後、菅原さんが住むマンションへ向かう。彼の家までは、駅まで行く時の道のりと変わらない。
5分程歩き、見覚えのある白い建物の前に到着し、「今着きました」とメッセージを送る。その後すぐに階段を降りてきた菅原さんは僕を見つけた瞬間、表情を緩めた。
「どうも、お久しぶりです」
季節が変わって初めて会う彼は、夏服を着ているせいか、前回よりも華奢に見える。
菅原さんが住んでいる部屋は3階だった。中に入ると、玄関の端の方にダンボールが積まれていた。
「散らかっててすみません…引越してきて3ヶ月経つのに、まだ片付かないんですよね」
「いえいえ、最近引越しされたんですね」
彼がこの街に引越してきたばかりだという事をこの時僕は初めて知る。
部屋に上がると、すぐに台所とリビングがあり、ソファとローテーブルが置かれている。ベランダの近くには、丸い植木鉢が吊り下げられており、そこから蔦のような葉が下に伸びていた。この部屋にはノートパソコンの側に置いてある小型のスピーカー以外、音楽に関するものは一切置いていないようだ。
「適当に座っててください。お茶持ってきます」
彼に案内され、僕は「すみません」と言いながらローテーブルの側に座る。
改めて部屋を見渡す。テレビ台の上にはプラモデルや特撮のフィギュアが飾ってあり、本棚には大量の文庫本が収納されていた。タイトルからして、どれも小説ではなく事件や歴史について書かれたノンフィクションものが多いようだ。そして、その中には付箋だらけの広辞苑も入っていた。彼の聡明さと音楽以外の趣味が垣間見える。
しばらくして、菅原さんが戻ってきた。麦茶がテーブルの上に置かれ、僕は「ありがとうございます」と言う。彼はテーブルを挟んで向かい側に座り、パソコンを立ち上げる。
「一人暮らししてて誰かを家に呼んだの初めてなのでなんか緊張しちゃいます」
マウスを動かす腕は、華奢な体格の割に少し太く、引き締まっており、改めて彼はベーシストなのだと思わせる。
「僕も誰かの家に行くの久々なのでちょっと緊張します…そういえば、ここに越して来る前はどこに住んでたんですか?」
僕は純粋に気になり、彼に尋ねる。
「3月までは曳舟の実家にいて、その前は三軒茶屋に住んでました」
「へぇ〜、そうだったんですね」
彼の引越し歴を知り、梅田さんが言っていた"活動休止"というワードが浮かんだが、その話題にはあえて触れず、僕はそのまま聞き流す。
「これ、新しく作った曲です」
菅原さんはパソコンの画面を僕の方に見せる。そこにはエクセルのように細かいマスがたくさんあり、波形が横に伸びている。
「…すごい画面ですね……いつもこれで曲を作ってるんですか?」
「そうですね。大まかなイメージが浮かんだらこのソフトで音源を作って、あとはメンバーと演奏しながら細かいアレンジを決めていったりしてます」
今まで移動中に聴いていた"アマヤドリ"の曲が作られる過程を目の前にし、僕はまたメイキング映像を見ているような気分になる。
「……まだ誰にも聴いてもらってないので、緊張しますけど…流しますね。歌詞、置いときます」
彼は曲の歌詞が書いてあるノートを僕の方に置き、再生ボタンをクリックする。
スピーカーから流れるその音楽は、パソコンのソフトで作ったにも関わらず、生演奏を聴いているような錯覚に陥る程、音が鮮明だ。
スキップするみたいに軽快なドラム、階段を上り下りするかのようなベース、どこか切ない味わいのあるギターの旋律の上に、菅原さんの透き通る歌声が自由に跳ねる。
僕は彼の達筆な字が並ぶ歌詞ノートに目を通す。ページの1番上には"よだかの街"というタイトルが書かれており、そこには怪しげな歓楽街を思わせるワードが並ぶが、いやらしさは全くなく、昔の小説を読んでいるかのような文学的で美しい情景が浮かんだ。
僕は曲が終わる時の余韻を耳で追う。
「………めっちゃいいじゃないですか!」
気づけば心の底から感じた事がだだ漏れになっていたようだ。あまりにも安直で上辺な言葉になってしまい、考えをまとめてからもう一度彼に伝えようと試みる。
「すみません…何というか…初期の少し皮肉めいた感じと、ライブでやっていたキャッチーな感じが合わさっていながらも、今まで聴いた事ない新しい何かが加わったような新鮮な気持ちになりました」
僕は必死で頭の中を整理しながら率直な感想を述べた。そんな僕の様子を見て菅原さんはまた「面白い人ですね」とでも言いたそうにくすりと笑う。
「ありがとうございます。あれから色々と聴いて下さったんですね!」
「ベストアルバム以外は一通り聴いて、個人的にはファーストアルバムの3曲目が一番ぐっときました」
CDを購入してからの事を話すと、菅原さんは「まじか〜!」と言い、また笑い出した。
「木下さんってほんと変わってますね。大体の人はベストアルバムから聴いて、あまり初期の曲には触れてこないですよ。しかも3曲目とはまた微妙なところを突いてきますね」
彼は驚きを隠せないような表情をしながらも、嬉しそうに口角を上げる。
「え、そうなんですか?あの割れそうな音の感じと、浮遊感…というか囁くような歌い方が何故か聴いててすごく心地いいんですよね。どこか懐かしいような感じもします」
砂嵐のような轟音に乗せて気だるく歌う"アマヤドリ"の初期の曲が一番のお気に入りだった。何故僕はあの曲にここまで惹かれたのかは分からないが。
菅原さんは何か思いついたようで、「ちょっと待っててください」と言うと、別室に消えていき、CDを手にして戻ってきた。
「これ、貸すのでよかったら聴いてみてください。…多分こういうの好きなんじゃないかと思って」
彼が僕に差し出したのは、聞いたことないアーティストのアルバムだった。
「ありがとうございます。帰ったら聴いてみます!」
僕は礼を言い、CDを鞄にしまう。人からCDを借りるのは初めてだった。
しばらく僕らは互いの近況を話し、休日の午後をのんびりと過ごす。前回と同じような安心感があった。
「…そろそろ帰りますね。今日はありがとうございました」
流石に長居してはいけないと思い、僕は鞄を手にし、帰る支度をし始める。
「え、もうちょっとゆっくりしていけばいいのに」
少し寂しげな菅原さんの様子は小学校の頃のクラスメイトみたいで、僕は思わず笑ってしまった。
「ちょ、何で笑うんですか〜」
彼は膨れながら笑う。
「なんか小学生の頃みたいだなと思って」
「…確かに子どもの頃みたいですね」
「あの頃は門限とかありましたからね。うちは厳しかったので、よく友達に言われてました」
僕は久々に子どもの頃を思い出す。よその家よりも厳しくて、いつも早く帰っていた。その度に一緒に遊んでいた友人は、寂しそうな顔をしていた。中高生になってからは、似たような人を選んで連むようになり、大学生から社会人にかけては、上部だけの関係にとどまるようになっていた。
「そうだったんですね。子どもの頃って不思議ですよね…何も考えずに仲良くなれて。あんなの大人になってからじゃ絶対無理ですよ」
菅原さんは悲しげに笑う。
「…そうだ、クッキーたくさん余ってるのでよかったら食べてってください」
彼は立ち上がり、台所へと向かう。市松模様のクッキーが盛られた皿をテーブルの上に置き、再び座る。
「ちょっと形崩れてますけど…よかったらどうぞ」
「ありがとうございます。作ったんですか?」
「いえ、喫茶店でバイトしてるんですけど、形が崩れたり余ったりすると店長がくれるんです。絶対俺の事甘党だと思ってますよ」
「バイトしてるんですね。ちょっと意外です」
この時、彼がバイトしながら音楽活動をしている事を初めて知る。有名なミュージシャンでも、音楽だけで生活するのは大変なのだろうか。"活動休止"というワードが再び頭を過ぎる。
「音楽だけで食べていけるのなんてひと握りだけですからね…今はひたすらバンドとバイトって感じです。いい歳していつまでも実家にいるわけにもいかないですからね」
彼は苦笑を浮かべる。
「なるほど…そうなんですね」
僕は「いただきます」と言い、クッキーをひとつ食べる。サクサクと噛み砕く度に脳内に甘さが拡散されていく。バターの香りは日頃の疲れを忘れさせてくれるようだ。僕は甘いものが好きだったが、最近は全く食べていなかった事に気づく。
「……うまっ………あ、すみません」
いつの間にか漏れていた僕の心の声を聞いた菅原さんは、再び笑い出す。
「木下さんってほんと美味しそうに食べますよね」
「え、言われた事なかったです」
「この前ハンバーガー食べてた時もそうでしたよ」
彼は終電を逃したあの夜の事を楽しそうに話す。
「…少なからず彼女の影響を受けていたのかもしれないな……」
確か付き合っていた彼女は甘いものが好きだったし、いつも幸せそうな顔をして食べていたっけ…そんな過去を思い出す。
「…恋愛ってなんかあったかそうですね」
薄いカーテン越しに差し込む淡い陽の光は、優しく微笑む菅原さんの艶やかな髪の上を滑り落ちる。
「え?もう冷めちゃったんですよ?」
もう終わった恋愛に温もりなどあるわけがない。目の前に座る彼の方が温もりに満ちているように見えた。
「結果や形はどうであれ、その人の長所とか好きなものが自分のものとして残るのは素敵な事じゃないですか。知らないうちに身近な人の影響って受けるものなんですね」
この時、"アマヤドリ"の初期のアルバムに入っている3曲目が僕の脳内に鳴り響いた。
「…となると、僕が初期のアマヤドリの曲を好きになったのは菅原さんの影響ですね」
割れそうなくらい歪んだギターやベースの伸びる音は、今まで聴いた事ない筈なのに、昔どこかで聴いた事があるかのような懐かしさがあった。
「そう…なのかな?」
彼は目線を下に逸らし、髪を弄りながら遠慮がちに笑う。
しばらく沈黙がゆっくりと流れた。菅原さんは三角座りでずっと窓の方を見ている。
「……大丈夫ですか?」
そんな彼の様子が少し気になり、僕は声をかける。
「……あ、すみません。空を…見てました」
菅原さんはハッとした様子で答える。窓には白くて薄いカーテンがかかっていて、外の景色など見えない筈だ。彼は嘘が下手だ。
「本当に上の"空"でしたね」
僕はふざけるように言うと、彼は表情を緩めて笑い出した。
「…そういえば、あのアルバムの3曲目みたいな曲、ちゃんとしたジャンル名があるんですよ」
「え、なんて言うんですか?」
「シューゲイザーって言うんです」
「シューゲイザー…初めて知りました」
当然今まで音楽をまともに聴いてこなかった僕は"シューゲイザー"というジャンルがあるだなんて知りもしなかった。
「マイナーだからか、なかなか話が合う人がいないんですよね…当然周りには友達すらいなかったので…バンドメンバーもネットの掲示板で集めたんですよ」
菅原さんは"アマヤドリ"結成時の話をしてくれた。
「…でも、10年も一緒に音楽できる仲間と出会えてよかったじゃないですか」
"アマヤドリ"がネットで知り合った者同士だった事に僕は驚く。ネットでそんなに長年付き合えるような仲間に出会える確率はかなり低いに違いない。
「そうですね…でも、ネットにいる奴なんて常識ない奴ばっかりで、結成まではかなり心がやられましたよ。結成したらしたで、対バンしたミュージシャンはどいつもこいつもプライド高い奴ばっかで……仮に仲良くなれたとしても、バンドなんて短命ですし、解散したらその時点で疎遠ですよ」
彼は遠い目で、過去をゆっくりと振り返る。その話を聞いていると、ライブの後すぐに帰ってしまうのも、誰も寄せ付けないオーラを放つのも、何だか納得できてしまう。梅田さんが以前言っていた"対バン"という言葉の意味は、僕が想像していたもので間違いなかったようだ。
「…でも、音楽から離れた場所で、俺が本当にやりたかった音楽に関心を持ってくれる人に出会えた事は純粋に嬉しいと思いました」
菅原さんは再び優しい表情を僕に向ける。
その後、僕らは動画サイトでシューゲイザーを何曲か聴いた。砂嵐のような音に乗せて気だるく歌うのが特徴的で、どれも僕の心を掴んだ。言葉には出来ないような懐かしさと安心感があったが、それが何なのか僕にはまだ分からなかった。
夕方、僕は自宅のアパートへ歩いて帰り、あっという間に到着した。築年数か外に放置されたゴミ捨て場のせいなのか、この季節になると悪臭が漂う。毎年この不快な臭いで夏の到来を実感する度に引っ越しを検討するが、面倒くさがりな僕は、毎年目を瞑り、多少の害虫にも耐えていた。
部屋に戻る前に、下の階で郵便受けを確認する。そこには、上品で真っ白な封筒が入っていた。送り主の住所は「港区」と書いてあり、それが誰からのものなのか一瞬で分かったのと同時に溜息が漏れる。アパートの廊下に響く蝉の鳴き声を無意識に耳で追っていた。お気に入りのあの曲が終わる時の余韻を追いかけるかのように。
最初のコメントを投稿しよう!