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8. 安息日
あれから菅原さんとは頻繁に連絡を取り合うようになり、週1で彼の家に行き、その度におすすめのCDを借りていた。
その中には、日本のバンドはもちろんだが、どこの国だか分からないものもあった。歌詞は何と言っているのかさっぱり分からないが、ふわふわと透き通ったギターとベースの音と、エコーのように響くドラムが特徴的なその音楽は、まるで夢の中へ連れて行かれそうな浮遊感があった。これもシューゲイザーの一種なのだろうか。
今日も仕事が終わり、20時頃に帰宅した。テーブルの上に置いてある白い封筒を見る度に溜息が溢れる。
僕はベッドに寝転がり、スマホを操作する。検索履歴には、「結婚式 身内 行きたくない」とか「結婚式 仮病」など、マイナスなワードが並んでいて、それは僕の近況を示すものだった。
僕の姉は元号が変わった5月1日に入籍し、9月に挙式予定だ。今は実家を出て港区の高級マンションで暮らしていて、成金のような生活をしている。
結婚についてはもちろんおめでたい事だ。しかし、結婚式の受付と写真係といった面倒な役を押し付けられている。いくら身内とはいえ、少し負担が大きい。
それに、結婚式に行くと嫌でも他の家族や親戚とも顔を合わせる事になる。姉の成金ぶりと僕の庶民的な暮らしを天秤にかけられるに違いない。失恋したばかりにこんな仕打ちはあんまりだ。…僕の心が狭いのだろうか。
僕は今日も家族との亀裂が入らないように、何とか欠席する理由を考えていた。ネットの質問サイトも隅々まで見たが、結局辿り着いた答えは、「海外に亡命するか、この世を去るか」の2択しかない。
僕は枕に顔を埋め、菅原さんから借りたCDを聴く。カラフルな雫がポタポタとリズミカルな音を立てて、脳内に溢れるような感覚…確か、ドリームポップというジャンルだっけ…
だんだん意識が朦朧とし、僕は本当に夢の中へ行ってしまったみたいだった。
翌朝、何度か聴いた事のある、ドロップスのような甘く透き通った音の粒で、目を覚ます。
…僕はあの後そのまま眠ってしまったようだ。耳にはめっぱなしのイヤホンを外し、スマホの画面の停止ボタンをタップする。それと同時に右上の時刻が目に入り、絶句する。
時刻は8時47分だった。終業開始は9時…社会人になって初めて寝坊した。間に合う筈がない。冷静さを失いそうになるが、とりあえず会社に連絡しようと思い、通勤用の鞄の中から社用携帯を取り出す。
僕は真っ先に文章を打ち、送信ボタンを押した。そして、力が抜けたようにベッドに再び横になる。
……ズル休みしてしまった。列車遅延とか、体調不良で出発が遅れるとか、言い訳はいくらでもあった筈だ。しかし、僕は仮病を使って丸一日の休日を手にしてしまった。
とりあえず起き上がり、インスタントコーヒーを淹れ、スティックパンを齧る。テレビをつけると、若手芸人が地方の農家を取材している映像が流れている。それは、今まで見た事のない番組だった。しばらくテレビをつけたままにしていると、今度はテレフォンショッピングのコーナーが始まった。特に目ぼしい番組がやっていなくて、テレビを消した。
突然手にしてしまった安息日の使い道が分からず、僕はしばらくベッドの上でだらだらと過ごしていた。昼になってやっと起き上がり、カップラーメンをすする。再びテレビをつけるとワイドショーがやっていて、何かの謝罪会見の話題で持ち切りだった。数日前に起きた悲惨な事件はまるで忘れ去られたかのようだ。ワイドショーの結論のない話題に嫌気がさし、またテレビを消す。
午後、流石に暇を持て余し、近所を散歩する事にした。何もかもどうでもよくなってしまい、いつ買ったのかも分からない寝巻きのTシャツのまま、髭も剃らずに家を出る。
商店街は平日の昼間だからか、人通りが少ない。店の人も暇なのか、店内の奥にあるテレビを見ている。特にこれといった用がなく、そのまま商店街と駅を通過する。
しばらく歩き、池の近くの公園まで来ていた。昼間にこの公園に行ったのは久々だった。最後に行ったのは、もしかしたら彼女に振られる前だったかもしれない。あの時はデートでそれなりにちゃんとした格好をしていたのに、今となっては寝巻きに髭面で、寝癖も直っていない…かなり堕落したものだ。
池に沿って歩き、遊具のある少し開けた場所に辿り着いた。池の前にある東屋の下のベンチに座り、平日の公園の様子をただぼーっと眺める。
滑り台の付近では就学前らしき子どもと母親が遊んでいて、向かい側のベンチではお年寄りが読書をしているといったいかにも平日の昼間といった雰囲気だ。もちろん、こんな時間に同世代くらいの人は誰もいない。…と思ったら、見覚えのある姿があった…菅原さんだ。
彼はしゃがんで猫と戯れている。今日は完全に休みなのか、黒縁眼鏡をかけており、いつものように黒い服を着ていて、相変わらず人を寄せ付けない雰囲気が出ている。しかし、そんな見た目とは裏腹に彼の表情は、母親が子どもをあやすかのように緩い。猫が彼に甘えているというよりかは、彼が猫に甘えているように見えた。
そんな様子が面白く、あえて声をかけずに彼を観察する事にした。
高い裏声で「にゃーん」と言いながら真っ白な毛並みを撫でている菅原さんは、周りも気にせず、溶けそうな甘い表情をただ猫に向けるだけだ。こんな表情もするのか…ライブで誰にも目を合わせず下を向いて歌っていた人物とは思えない。平日の昼間の公園で、黒ずくめの男が1人で猫と遊んでいるその光景は、まるで不審者だ。
しばらくして猫は気が済んだのかどこかへ行ってしまったようで、彼は「あ〜…」と残念そうに声を漏らし、諦めて立ち上がり振り向いた瞬間、目が合う。
「……え、木下さん?何でいんの!?」
彼は慌てた様子で僕の方に駆け寄り、尋ねる。
「…ちょっと散歩」
仕事に行かずこんなところでのんびりしている僕の方こそ怪しいに違いない。
菅原さんは「そっか〜」と言い、僕の隣に座る。先程の甘えるような表情はすっかり消え、彼は下を向いている。
「……もしかして、見てた?」
しばらく黙っていた彼は赤らめた顔を気まずそうに上げ、恐る恐る尋ねた。僕は笑いながら頷く。
さっきの行動を見られたのが相当恥ずかしかったようで、菅原さんはゆっくりと顔を伏せる。その様子が可笑しくて、僕は彼の肩を指で軽く突き、ふざけて「にゃーん」と先程の声真似をする。すると彼は「やめろって〜!」と言い、顔を上げて膨れる。僕の方を見た途端、急に吹き出す。
「…木下さんこそどしたの?その格好…」
彼に笑われ、僕は改めて今日の服装のラフさに気づく。よりによってこんな格好の時に知り合いに会ってしまうとは。
「いや、今日は休みで…」
寝坊してズル休みしたとは流石に言えず、僕は適当に答える。土曜当番の振替で平日が休みになる事もあるし、珍しくも何もない筈なのに、会社を休んでしまった罪悪感が邪魔をして、挙動不審になってしまう。
「…体調悪いとか?」
彼は心配そうに僕を見つめる。
「いや、そういうわけじゃ…」
「………じゃあ、ズル休み?」
僕は返す言葉を失う。そんな図星な僕を見て、菅原さんはしてやったと言わんばかりの笑みを浮かべる。流石に観念して、正直に昨夜の寝落ちから今朝の出来事を彼に話した。
「それにしても、木下さんが寝坊だなんて珍しいね。でも、普段は頑張りすぎてるくらいだし、たまには適当に手を抜く事も大事なんじゃない?」
彼の言葉はお気楽でありながらも、どこか説得力がある。
「…だよね」
僕は肩の力を抜く。
昼過ぎの公園は、相変わらず静かで、僕や菅原さんのような人は一人もいない。
「……菅原さんは今日は休み?」
「うん、病院の帰りにちょっと散歩してた」
「……風邪?」
「うん、そうそう…」
菅原さんは先程の猫を探しているのか、目を逸らしながら答える。少し長い前髪で、表情は見えない。僕はそれ以上の事は特に聞かなかった。
「あ、そうだ、木下さん、あっちの方とか行ったことある?」
菅原さんは、向こう側の鳥居の方を指差す。
「そういえば、しばらく行ってないかも」
最近ではこの公園には、仕事帰りの夜くらいしか足を運んでいなかった。
「…ちょっと歩かない?天気もいいし」
彼は立ち上がり伸びをし、「行こ!」と言いながら歩き出す。僕もそんなマイペースな彼の後について歩く。
公園の敷地内には、神社や鳥居があり、小さな扇型の橋が架かっている。僕らは橋の上から景色を眺める。池には鯉が何匹か泳いでいて、餌をもらえると勘違いしてか、すぐ下に集まって来た。鯉の群れの動きををしばらく見下ろす。
周りでは、ベンチに座って会話していたり、大型犬を連れて散歩したり、皆思い思いの時間をゆっくりと過ごしている。ゆらゆらと揺れる池の水面を眺めていると、自分自身の現状など忘れてしまいそうになる。昼下がりの近所の公園には、芸術家が晩年を過ごしても申し分のない程、美しい景色と平和な空気感があった。
隣で鯉の群れを見下ろす菅原さんの横顔は、晴れた気候とは真逆で、曇りがかっている。
「……普通って何なんだろ」
彼は息を深く吐き、呟く。
「……え?」
突然の問いかけに、僕は思わず聞き返す。
「あ、いや、何でもない…」
菅原さんは「行こ」と短く言い、再び歩き出す。その後ろ姿は、どこか哀愁が漂っていて、何かを抱えているかのようだった。
公園の出口まで来たところで、隣で歩く菅原さんは突然立ち止まる。正面に何かを見つけたようで、顔を強張らせ、僕の後ろに回る。
「……大丈夫?」
僕は振り向く。後ろにいる彼は明らかに顔色が悪い。
「……違う出口から帰らない?」
不安げな彼の目の先には、鳩の大群があった。
僕は何となく状況を察し、鳩の大群に向かって走り出す。奴らは公園の外へ飛んでいき、見えなくなった。走って鳩を脅かすだなんて、子どもの頃以来だった。遠くから見たら、僕の行動は明らかに不審者だったに違いない。
奴らが1羽もいない事を確認し、菅原さんの方へ駆け寄る。今度は僕の方から「行こ」と声を掛け、歩き出す。彼は俯きながら礼を言い、僕の隣を歩く。
「ごめん…さっきはありがと…いい歳した男が鳩に怯えるとか、情けないよね」
彼はまだ先程の事を気にしているようで、俯いたままだ。
「別に変じゃないよ。苦手なものは苦手でいいでしょ」
「だよね…この世の鳩、全部猫だったらいいのに。あんなの全然平和じゃないし」
その時、猫の大群に囲まれて、甘えるような裏声で毛並みを撫でる菅原さんの様子が脳裏に浮かび、思わず笑いが込み上げる。
突然笑い出す僕に彼は「何笑ってんだよ」と言い、つられて笑う。
商店街には焼き鳥の香ばしい匂いが漂い、空腹感を刺激する。少し歩き、スーパーの前を通りかかると、菅原さんは何か買うものを思い出したようで、「ちょっと寄っていい?」と言い、一緒に店内に入る。夕飯の買い出しだろうか。
僕も普段仕事帰りによく利用するそのスーパーは、まだ早い時間だからか、客足は少ない。
買うものは予め決まっているようで、菅原さんはカゴを持たずに、早足で店内を歩く。特に用事がない僕は彼の後ろについて歩く。
立ち止まった先は、お菓子コーナーだった。ジオラマの中には、特撮や女児向けアニメのフィギュアが飾られている。
彼は、特撮の食玩の箱を物色し、品定めしているようだ。とにかく没頭しているかのような無表情で、何故かライブでベースを弾いている姿を思い出す。
そして、買うものが決まったようで、レジへと向かう。途中でセール品のワゴンを見つけ、彼は再び立ち止まる。
「え、やっす…」
菅原さんは、値引きシールが貼られた食玩の箱を手にし小声で呟く。そして、迷わずそれも一緒にレジまで持って歩く。
有人レジの方が空いているにも関わらず、彼はセルフレジの列に並び、慣れた手つきで会計を済ませ、店を出た。
「ごめん、付き合ってもらっちゃって」
ビニール袋を腕にぶら下げ、彼は満足げに笑う。マイペースでいつも黒い服に身を包む彼は、だんだん黒猫のように見えてきた。
商店街を途中で右折すると、いつもの用水路沿いの住宅街へ出る。菅原さんが住むマンションの入り口の前まで来た時、彼は当たり前のように「寄って行きなよ」と言う。僕は「うん」と返事をし、2人でエントランスを通り、部屋に入った。
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