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9. 亡命願望
部屋に入ると、菅原さんは気だるそうにソファに横たわる。
「ごめん、こっち来るついでに麦茶持ってきて」
彼は当たり前のように言う。実際、このやり取りはもう何度もしてきた。
僕は冷蔵庫の中から麦茶の入ったポットを取り出す。見慣れた彼の家の冷蔵庫の中は、惣菜が入ったタッパ、豆腐やこんにゃくなど入っていて、僕の家よりも生活感に満ちている。
麦茶を注いだ2つのグラスをテーブルの上に置くと、彼はムクッと起き上がり、「ありがと」と短く礼を言い、グラスの中身を半分飲み、息を吐き、再びソファに横たわる。
「あ、体調悪いんだったね。やっぱ帰るよ」
僕は、彼が病院帰りだった事を思い出し、麦茶を飲み干す。
「え、帰んの?」
菅原さんはソファに横たわったまま残念そうな顔でこちらを見る。
「風邪、悪化したらまずいでしょ。今日はゆっくり休んだ方がいいよ」
彼がミュージシャンであり、ボーカルだからこそ、尚更風邪を引いている事は心配だったし、当然安静にしているべきだと思った。
僕は空になったグラスを洗い、荷物を持って「じゃ、お大事に」と言い、部屋を出ようとすると、菅原さんは「待って!」と僕を呼び止める。
「…ごめん、嘘ついた。風邪…引いてないんだ」
彼はゆっくりと起き上がる。
「え、でも病院行ったんじゃ…」
「確かに病院は行ったけど…体調は…悪くない……悪いんだけど……悪くない」
彼は目を逸らし、曖昧に答える。また前髪に隠れて表情はよく見えない。
「何だそれ」
そんな彼の様子を僕は鼻で笑い、再び元の場所に座り直す。
それから、いつものように夕暮れ時までテレビゲームで対戦したり、何と言ってるか分からないような歌詞の曲を聴いたりしながら、くだらない話をして笑い合い、だらだらと過ごした。
西陽の射す窓の方から、5時のチャイムが鳴り響く。いつもよりも音が割れているように聞こえて、少し胸が痛んだ。
「じゃあ、そろそろ帰ろうかな」
僕は流石に帰ろうと思い、鞄を手にする。
「え、泊まってきなよ」
菅原さんは不服そうに僕の方を見る。
「いや、でも明日は仕事だから…」
「明日当番なの?」
「違うけど…あれ?今日って金曜日か…」
丸一日仕事をサボり、完全に曜日感覚を忘れていたようで、明日は休みだという事に気づく。必然的に今日から3連休というわけか…ますます会社の人には申し訳ない。
そんなこんなで、僕は初めて菅原さんの家に泊まる事となった。一旦着替えを取りに自宅へ戻ろうとすると、彼は僕の暮らしぶりが気になるようで、「ついてっていい?」と尋ねる。僕は「何もないよ」と言い、2人で夕暮れの住宅街を歩き出した。
僕の家は菅原さんが住むマンションとは違い、少し古いアパートだ。家賃は月3万程度、極端に金に困っている訳ではないが、男1人で暮らすくらいなら問題ないだろうと思い、決めた物件だった。付き合っていた彼女は何度もこの部屋に来た事はあったが、こだわりがなさすぎる僕に嫌気がさしたんだろうなと、今更思う。
オートロックが無い為、夏の小虫と悪臭、そして、セールスや受信料の取り立てがしつこく、引越したいと思っていたが、色々と面倒で結局2年間留まっている。
僕は再び菅原さんに「ほんと何もないから、来ても面白くないよ」とだけ言い、部屋の鍵を開ける。
ドアを開けると、見慣れた殺風景な部屋が僕らを迎えた。半日留守にしていたその部屋は、夕方のモヤモヤした熱気に包まれていた。僕はそのまま部屋のタンスを開け、着替えを鞄に入れる。
「木下さん…本当に生活してんの?」
趣味のものなど一切なく、必要最低限の家具しか置いてない僕の部屋を見た菅原さんは、心配そうにしている。
「ちょっと狭いけど、基本的に寝るだけだから、不便ではないよ」
「……ちゃんと食べてる?」
彼は台所に置いてあるカップ麺やインスタントラーメンの山とゴミ箱に入ったコンビニ弁当の空になった容器を見て更に心配そうに尋ねる。
「最近は仕事が忙しくて、家事とか面倒になっちゃって、自炊してないかも」
社会人になったばかりの時は簡単なものは自分で作っていたが、仕事が忙しくなり、適当に済ませるようになっていた。
菅原さんは、殺風景な部屋の片隅に置いてあるCDを見つけたようで、「お〜懐かしい!」と歓声を上げる。
彼が手にしたのは、"アマヤドリ"のファーストアルバムだった。青いグラデーションに、水滴で描いたような傘と猫の絵が特徴的なジャケットのそれは、一番気に入っているものだった。隣に置いてあった5年程前の二人称のない恋愛ソングがいくつか入っているアルバムも手に取り眺めている。
準備するものは着替えだけで、いつでも家を出られる状態だったが、菅原さんは興味津々に僕の生活空間を観察していた。
自分の部屋をまじまじと見られるのは流石に初めてで、少し気恥ずかしくなり、「見てもつまんないでしょ。早く行こうよ」と僕は珍しく彼を急かす。
「手紙…開けないの?」
家を出ようと、出口へ向かおうとした時、彼はテーブルの上に置かれた未開封の白い封筒に気づいたらしく、不思議そうに僕に尋ねる。
「うん……ちょっと開けたくなくて………」
姉の結婚式の事を思い出してしまい、再び胸の奥に重い何かがのしかかる。彼は「そっか…」とだけ言い、それ以上は何も聞いてくる事はなかった。
アパートを出て、日が沈みかかってオレンジ色と水色が混ざった、いかにも夏らしい夕空の下を2人で歩く。特に何か話すわけでもなく、蝉の歪んだ鳴き声だけが、閑静な住宅街に響く。
「……さっきの封筒…姉さんの結婚式の招待状なんだ」
僕はまた吐け口のない愚痴を無意識に菅原さんに話していた。家族や親戚の古い固定観念、結ばれた幸せというより、"獲得した幸せ"というすっかり変わってしまった姉の価値観に嫌気がさしている事など、流れるように愚痴が止まらなかった。
「うちの親戚、やたら説教したがるからさ〜…あんまり気が進まないんだよね。でも色々頼まれてるし…」
隣で僕の話に耳を傾けていた菅原さんは、少し間を空けて、ゆっくり息を吸い、喋り出す。
「…行きたくないなら無理に行く必要はないんじゃない?俺自身、誰かの結婚式に行った事あるわけでもないけどさ…それでメンタル壊してからじゃ遅いだろうし…意外と直感って大事だよ。前に進む事だけが必ずしも正しいってわけでもないと思うし…」
彼はまるで自分の過去を振り返るように、声のトーンを落として話す。ゆっくりと口から出てくる言葉一つ一つに説得力があるのは、僕よりも4年多く生きてきたからだろうか。彼自身にも何かあったのかもしれない。
「…そうだよな……ただ、友達のならともかく、身内の結婚式となると、断る理由がなかなか思いつかなくて…色々調べた結果、海外に亡命するか、この世を去るかのどっちかしか残らなかったよ…」
どんよりした空気にしたくなくて、僕は冗談めいた発言をしてやり過ごす。
「……じゃあ、いっその事2人で亡命しちゃう?台湾とかにさ」
菅原さんは真剣だった表情を一気に緩ませたかと思うと、無邪気な笑顔で僕の顔を目だけで見上げる。
「なんで台湾?」
彼の冗談についていけず、僕は笑いながら尋ねる。
「食べ物は美味しいし、程よい距離感だし、音楽は最高だし…今度行っちゃう?」
菅原さんは髪をくるくる弄り、一瞬だけ目を合わせる。「いいね」と言うと彼は嬉しそうに口角を上げた。
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