1. レインメーカー

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1. レインメーカー

「ごめん、もう付き合えない」 数日前、3年付き合った彼女に振られた。 「あぁ、そうか」と、その事実を受け入れる事しか出来なかった。怒りとか、そういった感情はない。僕は彼女を愛せていなかったのかもしれない。 けれども、3年間続いた"当たり前"が消えた事によってできた心の空洞は、風が吹く度に肌寒くなる。6月の蒸し暑い気候と、冷え切った僕の心はうまく調和がとれている。 "当たり前"が僕の中から消えても、朝はやってきて、無機質なアラーム音で僕は息を吹き返すように目を覚ます。ゲームだったらリセットされて新しくやり直せばいい。しかし、現実ではそうはいかない。頭の中には失ったものの屍がまだある。 いつもと変わらない部屋で1日が始まり、いつもと変わらない電車で職場へ向かう。そして、いつもと変わらない仕事を淡々とこなし、帰路に着く。もちろん定時で帰れるはずがない。 職場を出たのは、定時の90分後だった。 新宿駅の地下にある動く歩道の上を歩き、電車の乗り場へと向かう。駅はまるで迷路のような複雑な作りだが、毎日同じ道を歩いていると、何も考えていなくても、あっという間に目的地にたどり着く。しかし、他の用事でこの駅を利用する事がほとんど無い為、少しでも違う道を歩くと迷う自信がある。 山手線は僕と同じように残業してきたであろう疲れきったサラリーマンを乗せて大きな円を描いていく。五反田で乗り換え、そこから10分程また電車に揺られ、僕は下車した。 駅前のコンビニで缶ビールと唐揚げ串を買い、近くの公園へと向かう。遅くまで仕事をした日はいつもこうだ。 この公園は池の周りにあり、昼間は犬の散歩をしている人や、アヒルボートに乗るカップルなどいて、皆の憩いの場である。 この時間は流石に誰もおらず、静寂に包まれている。アヒルボートは1列にずらりと停められており、本当に眠っているかのようだ。 僕は池の近くにあるベンチに腰をかけ、缶ビールのプルタブに手をかける。プシュっと炭酸が抜ける音が僕に「お疲れ様」と言っているかのようでどこか安心する。僕はこの時間が好きだった。 一人で飲む酒は本当に旨い。僕は会社の飲み会には参加しない。飲み会特有のノリというか、中身の無い下世話な話を聞くのがとにかく不快だからだ。居酒屋で飲む事自体も、あまり好きではない。騒がしい店内はどこか落ち着かないし、他人が視界に入るのもとにかく苦痛だからだ。毎回やんわりと断り続けていたら、とうとう誰からも誘われなくなっていた。 池の水面の揺らめきを眺めながら、ビールと唐揚げを口にする。打ち込める趣味があるわけでもないし、至福の時間など今はこれくらいしかない。 毎日無個性なスーツに身を包み、満員電車に揺られて、同じ仕事だけをする。月曜日から金曜日まで変わらない生活。休みの日は特別やりたい事があるわけでもない。この先数十年、このままで本当にいいのだろうか?そもそも、子どもの頃や学生時代にやりたかった事が思い出せない。もしかしたら、夢を抱いた事など無かったのかもしれない。昔からこんな感じだっただろうか。 ここに来るといつも、同じ事を考えてしまう。水面に向かって問いかけても、何も教えてくれない。答えが見つからないままビールと唐揚げを平らげてしまった。 明日も早いし、そろそろ帰るか…?いや、せっかくだから公園を少し散策してからにしよう。 僕は立ち上がり、池に沿って歩き出す。 少し歩いたところだった。東屋の下にあるベンチに座って、ギターの弾き語りをしている人がいる。…路上ライブなのだろうか……? 気になったので、少し離れたところからその男を観察してみることにした。 彼はどこかもの寂しげな遠い目をしてゆっくりと息を吸い込み、吐息混じりの透き通った声で、控えめに囁くように歌い始める。 その瞬間、何故か時間が止まったかのような錯覚に陥った。疲れていたし、蒸し暑さで僕自身がおかしくなったのかもしれない。 彼は小柄なのか、遠くから見るとちんまりとして見える。幼い顔立ちのせいか、そこから発せられる低く甘い歌声に意外性を感じ、少し驚いた。 いっつも嘘をついてきた 心にもない愛の言葉を投げ続ける これで満足でしょ? 本当の自分は何を伝えたいんだっけ? 彼が歌うその曲はどこか陰鬱だが、ゆっくりと傷を撫でるような優しい歌詞だった。 僕は今の状況など忘れて彼の歌を聴いていた。 …彼女がいようといまいと、僕の日常は空虚なものだった。ただちょっとだけ彩りが欲しかっただけなんだ。今更ながら気づく。 いつの間にか、彼の目の前まで近づいていたようで、歌い終わる頃になると、僕の頬に涙がつたっていた。 「あの…何か気に触るような事でもありましたか…?」 当然、彼は驚いた表情をしながらも、心配そうに僕を見つめる。 「い、いえ…何だか泣けてしまって……突然すみませんでした。失礼します…」 気まずくなり、僕はその場を逃げるように離れた。知らない人の前で泣いてしまった事に対する羞恥心と、知らぬ間に涙を流していた事に対する驚きやら何やらで、少しパニック状態になっていた。 公園からだいぶ離れた所まで来て、頭の中を整理しようとするが、まだ鼓動が鳴り響いて止まない。きっと暑さのせいだ。僕はゆっくりと歩き、自宅へ向かう。 自宅は駅から徒歩10分程歩いた所にある築40年のアパートだ。学生時代は実家から片道2時間かけて都内の大学に通っていた。卒業して社会人になってからは、帰りも遅いので途中から都内に引っ越して、現在は一人暮らしをしている。 帰宅後、僕はすぐにベッドに倒れた。 それから、さっきの出来事を振り返る。 今まで感動モノの映画を見ても涙一つ流した事がなかった。そんな僕の事を学生時代の友人は"冷徹人間"と罵った。無論、彼女に別れを告げられた時も無反応でいた。 それに、人前で涙を流すのは今までにない経験で、それは想像以上に恥ずかしい出来事だった。「どうせもう二度と会わないんだから気にする事でもないじゃないか」と自分に言い聞かせてみせる。 僕はいつの間にか眠りについていた。 翌日、聞き慣れたアラーム音で目を覚ます。 しかし、いつもと違った。昨日のあの瞬間が脳裏に焼きついていた。それに、あの曲が頭の中でずっと流れている。昨日の出来事は夢ではなかったんだと実感する。 どんな事があっても朝はやって来るし、仕事には行かなければならない。僕はワイシャツに袖を通し、一つ息を吐く。いつも通りの時刻に家を出る。 今日は雨だ。透明な傘をさして駅まで歩く。 朝からこんな天気だというのに、何故か憂鬱な気持ちにはならなかった。 車窓からの景色は何も変わらないし、仕事だっていつも通り、職場の人とは今日も事務的な会話しか交わさない。それなのに、見える世界はほんのり色付いていて、いつもより少しリズミカルだった。 そんなこんなで僕の日常には何も変化がないまま、軽やかなステップで過ぎてゆく。 気づけばまた月末の繁忙期に差し掛かっているところだった。定時の90分後、職場を出る。 何となく外の空気が吸いたくなって、地上に出た。 僕の職場は新宿駅西口の地下と繋がっており、外に出る事なく帰宅できる。しかし、たまに外の空気や景色が恋しくなるものだ。 今日は金曜日。西口の繁華街は仕事終わりのサラリーマン達で溢れかえっていて、飲み屋の方向へ吸い込まれるかのように流れていく。僕はその流れを逆らうかのように、どこに寄るわけでもなくそのまま駅に向かう。 多くの人々は、学校を卒業したら、就職して月曜日から金曜日まで働いて、休日の為に生きる。僕は学生時代からそんな生き方はしたくないと思っていた。しかし、逃げる勇気もなく、気づけば皆と同じ道を歩んでいた。この単調で救いようのない日々から抜け出す術もなく、今もだらだらと過ごしている。 彼らは何を生きる糧にしているのだろうか? 家族?恋人?そもそも僕には誰かと人生を共にしたいとか、皆がよく言う幸せな家庭を築きたいとか、そういう願望は全くなかった。彼女との日々も所詮退屈凌ぎでしかなかったのかもしれない。 また着地点の見えない思考が走る。知らぬ間に山手線のホームまで来ていた。いつもと少し違うルートで駅まで歩いたが、何度も通った道なので、無意識に目的地に辿り着ける。僕にとっての"哲学の道"だ。 五反田で乗り換え、そこから10分で最寄駅に到着した。駅前のコンビニで缶ビールやつまみを買い、いつもの公園へ向かう。残業後にここへ来るのも、退屈凌ぎのつもりだった。しかし、回数を重ねる度にここまで来るのも流れ作業のようになっていた。 明日と明後日は休みだ。だからといって嬉しいわけでもない。退屈な事には変わりがないのだから。 コンビニ袋を左腕にぶら下げ、公園の敷地内を歩く。東屋の付近を通りかかる時だった。 見覚えのある顔を遠くからでも確認することができた。彼はギターを持って東屋の下のベンチに座っていた。 向こうもこちらに気づいたらしく、目が合ったまま数秒間沈黙が流れる。 「…この前はどうも……」 僕の事を覚えていたらしく、彼は先に口を開いた。 「こちらこそ、どうも……この前は取り乱してしまい…すみませんでした」 少し離れたところにいたので、数歩だけ歩み寄り、会釈をする。 今まで人前で泣いた事のなかった僕は、何故だか彼の前で涙を流してしまった。鮮明に思い出せば思い出す程、逃げ出したい気持ちになる。 「いえ、あんな風に泣いてくださったのは、初めてだったので、寧ろ嬉しかったです」 あんなに上手な演奏だったのに…?そう思ったが、特に言葉にはしなかった。 また少し沈黙があった。何故か気まずさとか苦痛とか、そういったものは感じられず、心地の良い風が吹いたかのような感覚だった。 「…ここにはよく来られるんですか?」 風が止むのを待っていたかのように自然な流れで、彼は尋ねた。 「いえ、気が向いた時に来てちょっと飲むくらいです」 「そうですか、俺もです。たまにここで練習するくらいです」 彼は「じゃ、俺はこの辺で」と言い、ギターをケースにしまい、立ち上がった。 その瞬間、彼の歌が頭を過り、前回と同様に鼓動が高鳴った。 「……待ってください!……演奏聴きたいです……あ、いや、その…僕の事は気にせず練習しててください……」 その予想外な台詞は、間違いなく僕から発せられたものだった。ここには僕と彼しかいないのだから当然だ。 何故、こんな事言ってるんだ…?鼓動は余計に速まり、心臓が口から飛び出そうなくらい、僕はパニック状態になっていた。その場を離れたかったが、先程謝っておいてまた同じ奇行を繰り返す訳にはいかないような気がした。彼がこの先もう会わない相手だとしても、だ。 彼は一瞬驚いた顔をしたが、遠慮がちな笑顔を見せ、また座り直した。 「隣…よければどうぞ。拙い演奏ですが…飲みながら適当に聴いていただければ……」 ゆっくりとギターをケースから取り出しながら、彼の低い声は静かな公園の空気に馴染み、落ち着きのない僕の耳の中へそっと流れていく。 彼は座ったまま横にずれて、僕が座るスペースを作ってくれているようだ。 「す、すみません……」 彼の隣に座ったはいいが、僕は勝手に気まずくなっている。自分で呼び止めたくせに。いつも一人で過ごしているこの公園で、名前も知らない彼が隣にいる事があまりにも非現実的だ。疲れているから幻覚でも見えているんじゃないのか?そんな感覚に陥る。 僕は持っていたコンビニ袋から缶ビールを取り出し、プルタブに手をかける。 隣の彼は、右手の親指と人差し指と中指で太めの弦を弾き、落ち着きのある低い音を奏でる。 長い指に筋張った丈夫そうな手の甲は、小柄で華奢な彼の体格とは不釣り合いに見えたが、それは楽器を弾いているうちに鍛えられたものなのかと僕は勝手に納得する。 僕は彼の奏でる音を聴きながらビールを一口喉に流す。緊張やら何やらで知らぬ間に喉が渇いていたらしく、ジワジワと炭酸が喉の奥まで染み込んでゆく。 彼は俯き気味で演奏している。そして、ゆっくりと息を吸い、歌い始める。 誰もいない夜の公園に響いたのは、ずっと僕の頭の中を過っていたあの曲だった。僕は缶ビールを両手で持ち、演奏に耳を傾ける。 彼の地声と変わらない、低く太く透き通った声で囁かれる言葉は、退屈や孤独で渇ききった僕の心を少しずつ潤していくかのようだった。 僕は彼が演奏している横顔を眺めていた。 黒くて艶やかな前髪に少し隠れた目はどこか虚ろで寂しげだ。 俯いて歌っていた彼はゆっくりと顔を上げ、こちらを向いた。…その瞬間、目が合った。 「す、すみません…つい聴き入ってしまいました」 僕はハッとして視線を元に戻す。 「面白い方ですね」 彼はくすりと笑う。 「僕なんか面白くないですよ。ただの平凡な会社員ですし…」 これは本心だ。人から「面白い」と言われたのは初めてだったし、どこが彼を笑わせる要素なのか理解に苦しむ。 「会社員だって他の人から見たら面白い事もあるし、ミュージシャンだってイメージよりずっと地味で単調な事もありますよ」 彼は遠い目をして話す。 「ミュージシャンやってらっしゃるんですね」 この時、彼がミュージシャンだという事を知る。純粋に「すごい」と思ったが、彼自身も単調な日々を退屈に感じているのかもしれない。なので、簡単にその言葉は口に出せなかった。 「最初は憧れでしたけど、夢が叶ったら叶ったで後は単調な事の繰り返しですよ。俺が満足しても周りが納得しないと意味がないんです。そういう現実は、正直知りたくなかったな……」 彼は虚ろな目を細め、柔らかく笑う。 街灯の白い光に照らされた彼の横顔は、どこか喪失感に満ちている。 「……僕、今まで何かに感動して泣いた事がなかったんです。でも、あの日、演奏を聴いて気づいたら涙が出ていました。あの日からさっきの曲が頭から離れなくて…これが曲を好きになる事なのかなと思って……」 僕は彼から目線を外し、口走る。 話すのと同時に、あの日以来、単調な日々に少しずつ色が加わった要因があの曲だった事に気づく。 「そう言ってくれる人がいると、まだ音楽やっててよかったと思えます。ありがとうございます」 彼は控えめな笑みを浮かべ、僕に礼を言った。 「…実はあの曲、俺の中では結構自信作だったんです。でも、"こんなの売れるわけない"って当時のプロデューサーからは罵倒されまくりでした。結局今も世に出回ってない曲なんです」 「え、すごくいい曲なのに……」 あまりにも予想外な話を聞いてしまい、僕は思わず本音を口にする。 「やっぱり面白い人ですね…普段は音楽とか聴かれるんですか?」 彼はまたくすりと笑う。僕が面白いだとか、彼の笑いのツボはイマイチよく分からない。 「いえ、全く聴かないです。趣味がないもので……」 「そうですか。あの…もしよかったらなんですけど…明日の夜ライブやるんです。急で申し訳ないんですけど、ご都合よろしければ見に来ませんか?」 彼からの突然の誘いに僕は少し驚く。無論、明日は何も予定がない。彼の曲をもっと聴けるのは嬉しい機会だ。 「…はい、明日は空いてます。ライブ、見に行きたいです!」 「よかった…じゃあ、チケット差し上げます」 彼は鞄の中からチケットを取り出し、僕に差し出す。 「え、お金払いますよ!」 「いいんです。俺が誘ったんですから」 「……ありがとうございます、すみません…」 僕は申し訳なく思いながらも彼からチケットを受け取り、鞄にしまう。 「…連絡先、教えてもらってもいいですか?ライブハウス、ちょっと分かりづらいところにあるので…道に迷ったら連絡ください」 彼はパーカーのポケットからスマホを取り出し、連絡アプリを起動させ、黄緑色の画面を見せる。 「…これ、やってますか?」 「あ、はい、やってます」 「じゃ、俺QRコード出すので、お願いします」 彼が表示させる連絡アプリのQRコードを読み取り、連絡先を交換した。 「……これ、何て読むんですか?」 画面に表示された名前を読む事が出来ず、僕は彼に尋ねる。 「…ききょうです。菅原桔梗(すがわらききょう)っていいます」 「へぇ…珍しい名前ですね」 「よく言われます」 「あ、僕は木下創(きのしたはじめ)っていいます」 この時、僕らは初めてお互いの名前を知った事になる。 連絡先を交換したのはいつぶりだろう、そして、久々に買い物以外の予定ができた。6月の生温い風はどこか心地が良かった。 まだ一口しか飲んでいないビールはすっかり温くなって、炭酸が抜けていた。それでも明日の事で頭がいっぱいで、そんな事はどうでも良くなった。
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