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帰れる場所
智と健が来た二日後の金曜日、私と斉藤さんは子供達がやる活動を全て現地で確認することにした。
お盆前の今日はうだるような暑さと、日差しで一歩外に出ただけでも頭がクラクラする。
先ずは役場の中で総合受付の中川さんとの打ち合わせをし、次に私の車の助手席に彼を乗せてダムに向かった。
彼は「俺が運転するよ」としきりに言っていたが、学校から下見の旅費が出るので私の車に乗ってもらった。
学校から十五分程、山を登ればダムに着く。車はフルパワーで山を登っていく。
「そう言えばヨウチュウブ見ました。長次郎の朝。何かカッコ良かったです」
「亜紀先生に見てもらえて光栄です。僕が一番輝いてた時代だから」と彼は得意気に胸を張った。
ふと健の事を思い出し、この人ならと思い相談してみることにした。
ちょうど村の外れにある信号が赤になったので減速して止まった。
「ちょっと斉藤さんに相談したいことがあって、仕事と全く関係ないんだけどいいかな?」
「僕で良ければ何でも相談して」と彼は優しい眼差しを向けてくれた。
信号が青になったのでまた車を発進させた。
「ありがとう。実は弟がいるんだけれど、その弟が芸能事務所にスカウトされて、東京に俳優の研修生として来ない?って誘われてて」
「弟さんは何て言ってるの?」
「どうしようって表向きは困ったフリして言ってるけれど、本当はやりたいんだろうなって。
でも勤めてる老人ホームまぁまぁ良いところだから、辞めたくないって気持ちもあるみたい。ほら一回辞めたらなかなか就職しにくいし」
「弟くん結構心配症だね」
「そうなんだよね、変な所私に似てしまって。もう一人の弟はすっごい馬鹿で楽観的なんだけど」
「弟さん、やりたいって気持ち結構あるんでしょ?」
「結構あると思う。小学校の時に将来の夢、俳優って書いてたから」
「じゃあ、いつでも帰ってくる所あるからって、背中押してあげたらどうかな?」
「…帰ってくる所?」
「実は俺も母親は猛反対だったんだけど、父親が「自分の人生だから好きなように後悔のないように生きろ。駄目だったらいつでも帰ってくればいいから」って背中押してくれて、それで俺東京行ったんだ」
「村長さんそんな良い父親の一面があるんですね」
人の意見を聞かない独断的な所しか知らなかったから、この話にちょっと感動してしまった。
「人って帰ってくる場所があるってだけで安心して、つらいことがあっても頑張ろうって思えるから」
彼がどこか懐かしそうに窓から外の風景を眺めているのがフロントガラスに映り込んだ。
「あっ、勿論東京行っても売れるのなんてほんの一握りの人間だけだから。俺は一握りの人間になれなかったけれど、本当に東京へ行ってよかったって思ってるから」
「それはどうして?」
「あの時東京に行ってればって後悔が全くないから。頑張って駄目だったんだから仕方ない。
だから今は役場の人間として今度は村の為に全力を尽くそうって思えるんだよね」
「…後悔がないか…」
その日の夜の風呂上り、効きすぎた冷房に震えながら健に電話をかけた。
「もしもし、この前のことどうなった?」
「うん、まだ迷ってるんだ」
「あのさ。やりたかったらやってみなよ。もし駄目だったらまた群馬帰って来て、三人で一緒に暮らそうよ」
「…駄目だったら群馬帰ってくればいいかな?」
「うん。何の為に私が健のこと専門学校行かせたって思ってんの?資格いくつか取れたでしょ。またすぐ就職できるって」
「亜紀、色々本当に有り難う。赤の他人の俺なんかの世話ここまでしてくれて」
何故だか電話越しの健の声は震えてるように聞こえた。
「他人じゃないから、大切な家族だから!それに健、本当はやりたいんでしょ?」
「…うん」
「一回きりの人生だから、後悔はしないで」
「亜紀、本当にありがとう」
「色々考えて自分で結論出して」
そう言って電話を切った。健が東京に行っちゃうのか。
赤ちゃんの頃の健を思い出した。あんなに小さかったのにもうこんなに大きくなったんだな。
冷房を止めると、麦茶を一気に飲み干した。
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