小枝の詠

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小枝の詠

 ひょおう、ひょおうと、月下の寺庭に風の音が響く。  ……いや、耳を澄ませば、これは風の音だけではない。風の音に混じり、笛の音が響いている。  潮の香りが漂う、夜の須磨寺。そこに立ちこめた夏独特の湿った空気の中、じゃり……と土を踏む音がした。  人だ。人々の寝静まった刻限だというのに、寺庭を歩く人影がある。  人影は、二つ。一人は、法衣を纏い剃髪した、僧形の男。もう一人は、墨染の狩衣に立烏帽子を被った、公家らしき男。 「なるほど……たしかに、人影は無いのに笛の音が聞こえるな」  公家らしき男が呟くと、僧は頷き、そしてどこか口惜しげに言った。 「はい。一晩だけの事であれば、どこぞの物好きが月に誘われ浜辺りで奏でていると断じるに留まるでしょう。ですが、毎晩の事。それも、日増しに音が大きくなり、人ならぬ影を目にする者まで現れ始めたともなれば……」 「捨て置くわけにもいくまい、と。それでわざわざ京まで、この安倍(あべの)有世(ありよ)に文を寄越したわけだ。それも、密かに」  公家の男――安倍有世の言葉に、僧は再び頷いた。 「寺で怪異が起こるなど、万に一つも、人の耳に入れるわけには参りませぬ。それ故、早々に片を付けるべく、僧としての矜持も捨てて貴方様にお願しようと相成った由にございます。陰陽師としての実力と経験を兼ね備え、室町殿の信頼も厚い刑部卿殿であれば、きっとこの怪異も解く事ができるであろうと……」 「俺も、随分と名が売れたものだな。お陰で、物忌みと偽って出仕を拒み、須磨まで足を運ぶ羽目となってしまった」 「……申し訳ございませぬ」  頭を下げようとする僧を、有世は笑いながら手で制す。 「まぁ、良いさ。たまには、このように遠出するのも面白い。それに、夜な夜な笛を吹き鳴らす須磨寺の怪異……全く興味が無いと言えば、偽りとなろう」  そう言って、僧に場を外すように促す。人が多ければ、出るものも出なくなるかもしれない。  寺庭に一人残り、その中ほどの場所で有世は風に混じる笛の音に耳を貸す。  ひょおう、ひょおうという音は悲しげで、聴く者に何事かを訴えかけてくる。 「……そうか。やはり、そうなのだな……」  しばらく音に耳を貸していた有世が、ぽつりと呟く。そして、ゆるりと振り向いた。岩陰に、細長い影がうっすらと見て取れる。 「須磨寺で笛の音の怪異が起こると聞き、予想はしていた」  しゃがみ込み、そして岩陰を覗き込む。そこには、手足の生えた笛がひと管。付喪神だ。  有世はそこまで楽器に造詣が深いわけではない。だが、それでもこの笛が古く、そして良い笛である事は、付喪神と化している事からわかる。 「お前はその昔、大夫平敦盛公が所持していたという青葉の笛、小枝(さえだ)。……そうだな?」  問うように呼べば、笛の付喪神はどこか恥ずかしそうな様子で、岩の影奥深くへと隠れようとする。どうやら、有世の推測は間違いではなかったらしい。 「小枝であれば、付喪神と化しているのも納得だ。敦盛公が討たれてから、既に百歳を二度は巡っていよう。時は充分に過ぎている。それに、青葉の笛と言えば、その昔、かの博雅三位が鬼より譲られたという名笛葉二も、青葉の笛であったという話だ。鬼をも魅了する名笛ともなれば、それはまた、魂魄が宿り易かろうよ」  話すうちに、小枝がそろそろと岩陰から姿を再び見せ始めた。様子を窺っているようだ。 「夜な夜な奏でているのは……敦盛公のためか?」  びくりと、小枝の動きが強張った。その様子に、有世は「やはり」と頷く。 「以前、このような話を聞いた。明石の琵琶法師、覚一なる者が詠ずる平家物語……特に壇ノ浦の段は、鬼神も涙を流すほどであった、と。そして、その弾き語りを求めて平家の怨霊達が現れ、夜な夜な聞いては涙していた、ともな。……派手な話だ。噂が須磨まで伝わってきたとて、おかしくはなかろうよ」  かたかたと、小枝が震えている。有世は、まっすぐに小枝を見た。 「小枝、お前は……覚一のように語ろうとしたのだろう? 敵方、熊谷次郎直実を前に、潔い死を遂げた敦盛公の雄姿をよ。それで夜な夜な、蔵を抜け出してはあのように詠じていたわけだ。……平家物語の、敦盛最期の段を」  その指摘に、小枝はしゅんと項垂れた。首も腰も無い笛だが、それでも気配で項垂れたのだとわかる。そして、小枝が有世を恐れているらしい事も。 「……案ずるな。平家物語を詠じていただけで調伏したりはせぬよ」  苦笑しながら言うと、小枝がふるりと管を震わせた。ひょおう、と気の抜けたような音がする。  どうやら安心したらしい小枝に、有世は説くように言う。 「小枝よ。敦盛公の気高き死に様を後の世に伝えたいのであれば、まずはお前が生き延びる事だ。敦盛公の愛笛たるお前が残っておれば、人々はお前を見る度に敦盛公の事を思い出そう。そのためには、大人しくしている事だ。夜な夜な奇怪な音を奏でる笛の付喪神がいるなどとなれば、人によっては恐れおののき、お前を燃やしてでも始末しようと考えるだろうよ」  小枝が、またかたかたと小刻みに震えだした。そこに、有世は手を伸ばす。 「何も、未来永劫、常に大人しくしておれとは言わぬよ。極稀であれば、今宵のように蔵を抜け出し、物語を詠じたとて……先ほどの御坊のように、どこぞの物好きが月に誘われ浜辺りで奏でていると思ってくれよう」  差し伸べられた手に、小枝は恐る恐る近付いた。有世は小枝に、その手に載るようにと促す。載ったところで、丁寧な動作で両の手を用い、小枝を己の眼前まで掬い上げた。 「生きよ、小枝。さすれば、お前の姿と共に、敦盛公の気高さも生き残る。詠ずる事ができずとも、動く事ができずとも。お前には、敦盛公を伝えていく力があるのだ。焦らず、ただどっしりと構えておれば良い」  すると、やがて有世の手に収まっていた小枝が、次第に重みを帯びてくる。ひょおう、と、湿った音を発した。  一声のみ発した小枝を、有世はじっと見詰める。だが、二度と小枝が音を発する事は無かった。手も、足も消えている。 「どうやら、納得してくれたか……」  呟き、有世はただの笛へと戻った小枝を両の手で包むように持ったまま、寺庭を後にする。本堂の方へと向かえば、先ほどの僧が心配そうな顔で有世が戻るのを待っていた。 「済んだぞ」  そう言って、有世は小枝を僧に示す。僧の目が、見る見るうちに丸く開かれた。 「これは、小枝……! 何故これを……?」 「なに、鬼が小枝の音に魅せられ、持ち出しておったのよ。調伏はした。もう二度と、奇怪な音が聞こえる事もあるまい」  小枝を渡し、有世は僧に背を向ける。 「刑部卿殿、どちらへ……?」  怪訝な顔をする僧に、有世は背を向けたままに言う。 「なに、眠る前に、ちと小枝(さえだ)海を見たくなったまでの事」  敦盛公が討たれたと言われる、海辺。夜の潮風の中に小枝の詠ずる平家物語を思い出しながら、そこを歩いてみたいと思った。  そうとは口に出さず、有世は素早く足を捌き、夜の海へと続く道を行く。  気のせいだろうか。潮風の中に、ひょおう、と一声、小枝の音が聞こえたように思えた。 (了)
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