カエルの鳴き声

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              山口県に生まれ育ち、二十九歳までそこに住んでいた。田植えが終わる五月から田んぼに水がある八月まで、夜になるとカエルの合唱が聞こえたものだった。  二十九歳で結婚し、横浜市の日吉に住んだ。木造の二階建てのアパートは二部屋にキッチンと狭かったけれど、幸せだった。夫は私を軽々とおんぶして階段を上がってくれたこともある。夜は蝉が鳴いていた。 笑顔が、かわいい男の子を授かる。心臓病を持って生まれてきたが、仲がよかった私たちは、大変でも命を救われた息子が愛しくて、毎日必死で息子を育てた。デパートに連れて行くと、 「まあ、かわいい赤ちゃん」 と、店員さんに言われ、自慢げにベビーカーに乗せて歩き回る。赤ちゃん休憩室巡りが好きになった。  三十一歳のとき、川崎市の稲田堤に移り住んだ。角部屋で、隣は田んぼ。夜はカエルの声がする。二部屋にダイニングとちょっと広くなった。よく眠れた。三十年続く友達もできた。 夏、新宿区河田町にある東京女子医大病院に息子は入院した。心臓の根治手術をするためだ。息子が一歳半のころである。そこで二回手術を受けた。 その病院の子どもたちを遊ばせるところには、絨毯が敷いてあり、ソファーが二つあり、その窓際に石で、できたかえるの置物がある。親かえるが子かえるを背負っているその意味は、この病院から無事帰るという思いが込められているという。 かえるの親子の座布団があったのだが、日焼けして、古くなっていた。縫い物が得意だった私は、クリスマスカラーの赤と緑で座布団を縫い、寄付する。かえるのご利益にあやかり、息子は難しい手術に耐えて、無事帰ることができた。季節はもう冬。年末といえるころだった。  二年後、夫の転勤で広島に住む。ここでは七階建てのマンションの最上階に暮らし、カエルの声とは無縁の都市部に住んだ。息子三歳、七階建てのベランダから立ちションするほど、わんぱくな子になっている。娘を授かり、既知の友もいて、夫婦げんかも絶えなかったが、充実していた。  二年がたつと、また川崎市へ移り住み、社宅に入る。一階の砂場前の部屋で、人目を気にするようになったが、日当たりはよかった。  三十六歳の時、東京都稲城市にマンションを買った。借金生活の始まりだ。私はうつうつするようになる。四十代のころ、夫と子どもを送り出したら、また布団に入る生活になった。うつで、低空飛行を続けていた。それでも、ごはんだけは作っていた。夜は遠くカエルの声がした。  四十九歳のころ、息子の心臓病が、悪化し再手術を間近に控えた八月、義理の父が脳梗塞で危篤になり、東京から山口県に飛んで帰る。夫も山口の同郷だったからだ。 「俺は仕事を山口に変えて実家で暮らす」 と、夫。つまり私は義理の両親と同居になるわけだ。  眠れなくなった。夜はカエルの声がする。ゲロ、ゲロ、ゲロ。夫は仕事があるからと、私と子ども二人を残して、東京に帰ってしまった。夫も、一人になりたかったのだろう。義理の両親、実の両親の家を行ったり来たりし、七日間一睡もしないうちに、ものを言うことができなくなった。約三週間入院し、東京から駆けつけ、面会にきた夫が泣いていたのを記憶している。  入院して良くなり、東京に帰るために退院した。義理の父も奇跡的に回復したのだ。息子の再手術は延期してもらい、翌年二月に無事済ますことができた。 (一行空け)  それから十八年後、夫は定年退職を機に山口県に帰るという。私は二ヵ月東京に残ることにする。四月、二十三年住んだマンションを売り、仕事が決まった息子と娘を東京に残して、夫婦二人の山口暮らしが始まった。夫の実家には義理の弟がいるため、別の中古住宅を買った。  息子が急性心不全で死んだのはその年の七月のことである。夫婦二人の穏やかな生活は崩れ、息子の死の責任を押しつけあった。息子は就職してはいなかった。私の責任である。夫はお金を送ってほしいという息子とのラインを絶っていた事を後悔し、泣いていた。  生まれて二十九歳まで聞いたカエルの声はごく自然に体に染み込んでいるもの。息子が死んでから聞くそれは私を誘うような、慰めるような不思議な声に変わった。  もうすぐ一年祭。田植えは終わった。息子を思い耳を澄ます。私は六十歳。まさか子をなくすとは。人生の先は見えないものである。
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