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東京にあるR医大病院を訪れたのは、その年の七月初旬のことだった。
休日や仕事の合間を利用し、妻と子を連れて病院に立ち寄るのが習慣となり出してから、すでに二年が経とうとしている。僕や家族の身体に疑わしい病が潜んでいるわけではなく、目的はある少女へのお見舞いだった。普段は面会の許された昼間から夕刻にかけて訪れるのだが、この日は僕一人が消灯時間を過ぎた頃合いを見計らって顔を出した。
緊急外来の受付は、いつも通りの無人。僕は煌々とした明かりの灯る人気のない廊下を歩き、一階エレベーターに乗り込んで最上階のボタンを押した。
浮遊感に包まれながら、このエレベーターに乗るのは一体何度目だろうかと考える。いつもそれは思う。僕はこれまでに何回このボタンを押し、そしてこの先、いつまで押し続けるのだろうかと。
やがて辿り着いた最上階で扉が開き、明かりの消えた廊下へと足を踏み出した。とそこへ、
「おお、新開の」
僕を呼ぶ声があった。
顔を上げると、丁度お手洗いに入ろうとしていた男性が目に入った。
「もう来る頃だと思うとった」
薄灰色の作務衣の上に、黒色のMA-1ジャケットを羽織っている。常夜灯の下で優しく微笑む、六十代後半の男性。僕はニコリと彼に笑みを返し、
「七月ですよ。暑くありませんか、三神さん」
と声をかけた。
僕の名前は新開水留。そして目の前の男性は、名を三神三歳。拝み屋として生きる、この僕の師匠である。
病室前のベンチに腰かけて、三神さんと話をした。
「ついさっき眠ったばかりらしい。ワシも着いたばかりでねえ、こちらから起こすのも可哀想だから、待っていようと思ったんだ。そら、ぼちぼちお前さんも到着するだろうと読んでいたからね」
「良いタイミングでしたね。この時間に呼ばれたということは、やはり、文乃さんに?」
「ああ。昨晩電話があった。相談があるんだと」
「相談」
「うむ。その、彼女の身体についてなんだそうだ。つまりは……」
そこで三神さんは言葉を切り、僕らの頭上に掲示されている、病室利用者の名札へと視線を上げた。利用者名の欄には、人蔵、と書かれている。僕たちが二年間お見舞いに通っている少女の名である。下の名前は、チエ。今年十六歳になるその少女は、名前を人蔵チエといった。
「チエちゃんの健康状態については、今だ何も進展がないようですね」
そう尋ねる僕に三神さんは頷いて唇を結び、神妙な面持ちでこう答えた。
「現代医学が太刀打ちできぬような、そういった難病が見つかるわけでもない。その代わり、ゆるゆると進行する衰弱と絶え間ない病変に、日常生活への復帰の目処がたたないのが現状だ」
「はい」
「西荻のお嬢もそれは重く見ておるんだ。だから普段は夜中であっても自分は顔を出さず、出来るだけ長く睡眠をとれるように心がけておる」
僕がその名前を口にした「文乃さん」と、今三神さんが仰った「西荻のお嬢」は同一人物である。彼女は西荻文乃さんと言って、僕らとはもう十年以上の付き合いになる。
きっと誰にも信じてもらえないだろうが、西荻文乃さんは一度死んでいる。
今から十二年前、平成十二年の夏である。
彼女は一度死んで、そして十年後の平成二十二年の秋、僕たちの前に戻って来た。今から二年前のことだ。
文乃さんは本当は死んでなどおらず、姿を消して十年後にただ戻って来ただけだろうという意見もないことはない。しかしそれは真実ではないし、なんなら、彼女を殺したのはこの僕なのだ。文乃さんを殺した張本人が「死んだ」というのだから、事実はそれ以上でもそれ以下でもない。
ただ、文乃さんが十年という時を飛び越えて戻ってきた奇跡には、把握しきれない謎が今でも多く残されている。彼女はなんと生前の姿ではなく、十四歳の少女の身体を借りて戻って来たのだ。文乃さんが死んだ時、実年齢はともかくとして、彼女の肉体は二十五歳のはずだった。しかし、文乃さんと劇的な再会を果てしてから二年が経過した今、十四歳の少女は十六歳になっただけで、文乃さんがもとの姿を取り戻すことはなかった。
文乃さん曰く、記憶や意識や感情といった、肉体以外の人格形成要素は全てこの世に戻って来ている、とのことだった。便宜上それらを分かりやすく一括りにして「霊魂」と呼んだ場合、彼女は今肉体を持たない魂だけの存在であるということになる。そんな文乃さんが、この世に留まり続ける為に憑依しているのが、当時十四歳だった人蔵チエちゃんである。
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