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病室の扉が音もなくゆっくりと開き、
「すみません、お待たせしました」
と、中から文乃さんが顔を覗かせた。
もちろん見た目は肉体の持ち主、人蔵チエという名の少女である。しかしひとつの身体に二つの霊魂が存在する彼女らはお互いに約束を交わし、昼間は人蔵チエ、そして彼女が眠った夜間にだけ西荻文乃として活動する、という取り決めになっているそうだ。今、チエちゃんの身体を動かしているのは文乃さんである。
あえてベッド脇に椅子を置いてそこへ腰かけようとした文乃さんに、僕と三神さんは二人してベッドに戻ることを勧めた。本来の文乃さんであれば、礼儀を欠くと言って固辞する場面なのだろうが、チエちゃんのことを思ってだろう、彼女は素直に布団の中へ足を滑り込ませた。
「顔色が優れませんね」
僕がそう言うと、文乃さんは頷き、
「本来なら、こうして彼女の睡眠時間を削るような真似もしたくないのですが」
と俯いてしまった。
「医者は、なんと?」
尋ねる三神さんに、
「やはり、心臓に問題があるのでしょう、としか」
と文乃さんはか細い声を出した。
チエちゃんの肉体が衰弱していく表面的な理由は心臓にある、と医者は言った。それは僕たちがチエちゃんと出会った二年前から変わらない診断結果だ。血液を送り出すポンプ機能が低下している、いわゆる心不全ではないかという。だが心臓の病には色々な原因が考えられる為、簡単には特定が出来ないそうだ。それに加え、血管の詰まりからくる狭心症、心筋にウイルスなどが感染して起る炎症、心臓弁膜の異変により起こる心臓弁膜症など、その時々によって症状が異なる上、根気よく治療を続けても必ずまた別の何かに起因して体調不良に陥るという、その繰り返し。決まって、その中心には心臓機能の低下が関与していた。こんな状態が少なくとも二年以上続いているのだ、元気になるはずがなかった。
「私は、普段から彼女の様子を内側から見ていて、出来る限り邪な気や悪いものが寄り付かないように気を張っています。だけど彼女の病には関しては、ほとんどお役に立てていないのが現状なんです」
と文乃さんは言う。
冷静な見方をすれば、本来病気とはそういうものだ。患者でも医者でもない第三者の助力で病気が治るのなら、すでに世界中から病はなくっているだろう。だが実際そうはならないし、精神論で立ち向かえるほど病気は甘くない。
しかし文乃さんはずっと、自分がチエちゃんの身体にヤドカリをしているせいで、少女の病変が一向に良くならないのではないかと案じているのだ。それに関しては、正直なくはない、と僕も思う。
二人の関係は、生者と死者ではない。文乃さんの魂がチエちゃんの肉体に憑依していると言っても、そもそもどういう原理で彼女らの共生が維持されているのか分からないし、お互いの存在がどう影響し合っているのかも見当がつかない。一つだけ言えるのは、文乃さんもチエちゃんも、巨大な力をもつ霊能者である、ということだ。
「霊的な治療ではなにも改善しない、ということなんだね?」
三神さんがそう問うも、
「それも、よくわかりません」
と文乃さんは頭を振って答えた。
「文乃さんもチエちゃんも、普通の人にはない高い霊力を持っています」
と、今度は僕がそう切り出した。「生命エネルギー自体は相当高いはずなんです。言い方はおかしいですが、そうそう病に倒れるわけは、僕はないと思うんです」
「ワシも同感だね」
僕の意見に三神さんも頷き、先を続けた。「いいかね、お嬢。はっきりとしたことは言えんが、お前さんがこの世に戻って来た時、この人蔵チエというお嬢さんがそれだけの器を有していたからこそ、あんたは現世に留まることが出来たんだ。そりゃあ、本物の自分の体を取り戻すことが一番だとは思うがね、そもそも、お前さんが乗り移ったことで生命バランスが崩れ去るような器であれば、最初っから入り込むことなど出来やせんよ。無理をすれば、一気に体調を崩してぶっ倒れるだろう。だが、そうはなっていない」
「ですが」
「聞けばこのお嬢さん、お前さんと出会った時からすでに体調を崩していたそうじゃないか。そんな状態でもお前さんの強大な霊的エネルギーを受け入れることが出来たのだ。なまなかな事ではない。相当強いお嬢さんなのだと思うよ。それに」
三神さんは一瞬言い淀み、
「人前ではあまりこの話をしたくなかったから、敢えて言ってこなかったんだがね」
三神さんは僕と文乃さんを交互に見た後、やがて意を決したような表情でこう言った。
「似ているんだよ……」
「似ている、とは」
そう尋ね返す文乃さんを見据え、三神さんは答えた。
「ワシだよ」
「わし……?」
「呪いだ」
今から二年前、三神さんは今世紀最凶と呼ばれた呪詛をその身に受け、瀕死に陥った。人蔵チエちゃんとはその症状でいえば相違はあるものの、現代医学では解明できない肉体の衰弱という点では一致していた。三神さんは尋常でない量の吐血を繰り返し、体中に無数の切り傷が出来た。むろん自傷ではないし、刃物による傷害でもない。じわじわと死の淵へと追い込んでいく恐ろしい呪いの効果に、R医大の医者たちはこぞって匙を投げた。
「このお嬢さんにはワシが喰らったような、外傷や原因不明の出血などはないと聞いている。しかし、何度医学治療を施してもまた心臓のどこかが傷んでくるというのはどうにも……ううーん、考えすぎだと良いのだがねえ」
三神さんは断定を避けるように言葉を濁し、髪の毛を撫で上げながら僕を見た。
「新開の、お前さんはどう思うね」
「それが例えば、呪いなのか、あるいは別の何かそれに近い霊障なのかと言われれば、分かりません。だけど」
僕は文乃さんを見つめて、こう尋ねた。「六花さんでも、ダメだったんですよね?」
秋月六花は僕たちの共通の友人であり、自他問わず肉体の損傷を瞬く間に完全修復する治癒者である。彼女は普通なら即死レベルの肉体欠損であっても、死すら追い付けない猛スピードで逃げ切ってみせるのだ。その力は正しく奇跡の名にふさわしく、三神さんからは「神に愛されし人」と呼ばれている。
だが、そんな六花さんでさえチエちゃんの病は癒せないのだと聞いてた。やがて文乃さんは僕の問いかけに「はい」と頷き、この日本で最も力の強い治癒者ですら治せない病であることを認めたのだった。
「であるならば、もうどこの病院に行ったって同じでしょうね。これはやはり、現代医学では治せませんよ。三神さんの仰る通り……きっと何か」
僕がそこまで言った時、文乃さんは掛布団の下から手を出して、自分の足の上に乗せた。
彼女の手は、二つ折りにされた手紙のようなものを持っていた。
文乃さんは顔を上げ、
「新開さん、三神さん。……お二人に、お願いがあります」
そう言って、その手紙を僕たちの前に差し出したのである。
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