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地名を明かすことは出来ないが、僕と三神さんはとある地方の山奥を訪れていた。
梅雨の明け切らないこの季節は、ともすれば湿気と熱気にやられて背中と衣服がじっとりと貼り付くこともある。しかしこの時は、今が七月である事を忘れ去る程に寒かった。
一年中MA-1ジャケットを着ている三神さんは、そもそも気候の変化に左右されない。しかし僕は半袖のポロシャツで山に分け入ってしまい、今すぐ帰りたい程激しく後悔していた。
標高の高い険しい山ではないし、麓の村から山の中腹までは、車で登れる舗装された道が続いていた。しかし中腹を越えたあたりから未舗装の獣道となり、僕たちは渋々車の外へ出て歩くこととなった。
「こんな山奥の頂上に、本当に人蔵家はあるんでしょうか」
頂上らしき山の上を見上げるも、高い木々が生い茂っている為何も見えない。三神さんは腰を伸ばしながら「いたたたた」と声を漏らし、
「まあ、行くしかあるまいよ、行くしか」
と気合を入れた。
僕は溜息をついて、ショルダーバッグから手紙を取り出して開いた。文乃さんから預かった、チエちゃんの書いた手紙である。そこにはとても綺麗な癖の無い字で、僕たち二人に対する願い事がしたためられていた。
『三神さん。新開さん。
いつも私の健康を気遣ってくださり、本当にありがとうございます。
この度は、私の身勝手なお願いにお二人を巻き込んでしまうかもしれないこと、本当に申し訳なく思っています。私の個人的な願望だから、私が自分で実行に移すべきなんだけど、体がいうことを聞かないのもあって、文乃さんと相談して、お二人に依頼することに決めました。
お二人が、天正堂、という迷える人々の道標として日夜奮闘されているお話は、文乃さんからもよく聞ていました。そんなお二人に、私からのお願いです。
○○県○○市にある、私の家を訪れて欲しいのです。父が他界し、私の治療費を稼ぐ為に母が忙しく働いてる今、頼れるのは三神さんと新開さんだけです。私の家を訪れて、思い出の品を持ち帰ってはもらえないでしょうか。その品物とは、幼い頃に母に買ってもらった、朱色の風車です。風車の置いてある場所は……』
「個人的に、少し調べたんだがね」
と三神さんは言う。彼は昨晩、今僕らが立っている○○市にあるこの山について事前調査を行ったそうだ。調査といっても足を使って情報を搔き集めるほどの時間はなく、手持ちの資料を紐解き整理しただけである、と謙遜して前置いた。だが、三神さんが長年積み重ねてきた実績は、下手な実地調査などつま先で蹴飛ばせる程、確かな信用に裏打ちされていることを僕は知っている。
「少し、曰くがあるんだ。赴く前に、それだけ伝えておこうと思ってね」
「曰く?」
「いやいや、チエちゃんがどうのこうのという話じゃない。言わばそうさな、土地、に関してだろうね」
「なるほど」
僕は気を引き締めて、師の話に耳を傾けた。
僕たちが踏み入ったこの山は、山頂から丁度半分まで降りた辺りまでが全て私有地だという。持ち主が決まっているわけだから、不用意に立ち入ることは禁止されている。しかしその持ち主と言うのが人蔵家、つまりチエちゃんの親族である。
「本人の署名入りの手紙があるんだ。ワシらが訪れる事自体に問題はない。だが」
三神さんは今しがた登って来た道を振り返り、麓を見下ろすように目を細めた。「この下の集落、今はどうなのか分からんが、少しばかり変わった風習が受け継がれているようなんだ」
「変わった?」
「うむ。麓の村からワシらが通って来たこの山道、途中までは綺麗に舗装もされておったし、脇道には登山道としての立て看板もあったな?」
「ええ、ありましたね」
だが、その登山ルートも三神さんの調べでは決して山頂に向かっているわけではないそうだ。麓の集落をコースの出入り口としてはいるものの、隣の山へと続く山道が整備されているだけであり、頂上へと続く私有地にはかすりもしないという。中腹辺りから突然未舗装の険しい道へと変化するのが、この先立ち入るべからずの合図となっているそうだ。
「神聖な御山とされているようだ。この、人蔵家所有の山は」
「神聖……山自体がですか?」
「いや、それが村に伝わる風習に関する話なんだがね。ふむ、冷えてきたな、登るとしようか」
「いや、僕はさっきからずっと寒いです」
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