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僕の家にある姿見はいつも24時00分から五分間だけ異界に繋がる。何故かは分からない。だが、部屋を映している鏡面に掌を置くと体がすうっとあちら側に行くのだ。
鏡の世界は僕が想像するような、現実と反転した世界ではなかった。真っ暗で何も見えないのに、左右上下から眩しい光が差す変な空間。眩しい光があると認識しているのに、何も見えない真っ暗闇なんて、おかしくてたまらない。でも、鏡の世界にいるとなんとなく落ち着くのだ。
「……そろそろ時間だな」
僕はまた今日も鏡の世界に入る。掌を押し付けて自分を見つめる。カチカチと針の音が響くくらいに静かな部屋。
不意に体が浮遊感に包まれる。水に手を入れた時みたいに、手があちら側に入っていった。僕はそのまま重心を傾け、体ごと鏡に浸かる。
瞬きをして、切り替わった視界に見えたのは明るくも暗い鏡の世界。普段はここをふらふらと散歩しているのだが、今日はこちらの世界から鏡を通して現実を見てみることにした。いつからか毎日のように鏡に入っているのに、一度もこちらからあちらを見たことはないと今更ながら思ったのだ。
「……僕がいる」
僕自身は鏡にいるのに、現実の世界にも「僕」はいた。「僕」は鏡の前で泣いていた。瞳からぽろぽろと雫が落ちている。濡れた顔はあどけなくて、子供のように頼りなさげで、自分だとは思えなかった。
「泣かないで……ほら、笑って?」
小さい子に言い聞かせる口調で、笑って見せた。「僕」は僕の笑顔を見て顔を引きつらせた。
――次の瞬間、鏡が割れた。
ひび割れた境界線が、音を立てて崩れていった。「僕」はもうこちらから見えなくなって、鏡の世界から僕は出られなくなってしまった。
「僕にはもう、あの五分はいらない」
遠くから声が反響していた。多分、あの声は「僕」のものだ。鏡を見ては魘されて、真実と虚像の間で彷徨っていた「僕」がここに僕を閉じ込めたんだ。
「僕」に捨てられた僕はもう、一生ここから出られない。
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