手を握る。

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手を握る。

「結婚してくれないか?」  そう告げたのは去年の夏。暑さで溢れた汗か緊張で溢れた汗か、その一時に人生かけても構わないとさえ思ったはずだ。最愛の愛美は頬にえくぼを見せて、よろしくねと答えを返してきた。幼馴染や腐れ縁。小さな頃から一緒に駆け回ってきた俺たちは周りの期待通りに高校生の頃に恋人となり、周りの期待通りに友達みたいな関係のまま、三十路手前で結婚を決めた。  周囲はそうなると思ってたよと俺たちをからかったが、それもそんな悪い気はしなかった。その時はだ。本当は今年の九月に式を挙げるはずだった。それはもう叶わない。どうしようもない。俺が見下ろすのは俺の体。魂が抜けた俺の体。その横でパイプ椅子に座りうなだれる愛美の姿。愛美に声をかける医師。 「ご臨終です」  確か、爺さんが亡くなったときもその言葉を聞いた。人の死ぬ理由は老衰だけじゃないのだと俺は身をもって知った。一瞬の事故。運転席に追突した信号無視の車が容易く俺の命を奪った。  俺の遺体を見つめる愛美は涙一つ流さない。ただ唇を噛み締めて拳を握りしめていた。俺にできることはもうない。見ていても辛いだけだと魂となった俺は窓ガラスを抜けて外に出る。なぜか空に向かっていけと俺の本能がそうさせた。  外に出たならば、そこに待ち構えていた者がある。ふわふわと宙に浮かぶ背中に羽根が生えた少年。頭の輪っかとその衣服から天使だと直感した。 「お兄さん、あちらに行く準備はいい?」  にこりと笑う美しい幼い顔には恐ろしさも感じてしまう。 「どうせ何もできないんだろ?」  そう何もできないと判断したから俺は、あの世というものに行こうとしているのだ。
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